十二 酔眼朦朧
「センセ、センセ……」
小さな声に気が付いたのは、うとうとし始めた頃だった。いかん。気が弛んでいる。眠るつもりなど小指の爪の先ほどもなかったのに、いつの間にか船を漕いでいた。
「なんでぇ」
口の端に涎が残っていないかそれとなく拭いながら見上げると、当のお鏡さん、何やら悲痛な顔をしている。普段は快活そのものの目が、困った犬っころのように潤んでいるものだから、私は今日の内宮での出来事を思い出してどきりとした。
お鏡さんの後ろで男の怒声がして、半ば寝呆けていた意識が一気に覚めた。開けろだの、出てこいだのとやかましい。呂律の回らない様子から、相手が酒を飲んでいるらしいことが伺える。扉が叩かれる度に、お鏡さんが小さく首をすくめる。いつものお鏡さんなら部屋から出て酔っ払いを張り倒しそうなものだがどうしたのであろう。
首を傾げて声の方を指すと、お鏡さんは二階の窓からふるふると首を左右に振って応えた。埒があかない。
重い腰をあげて二階にあがると、いかつい男が部屋の前で吠えていた。
「ちょいと、いいですかい」
私が声をかけると酔っ払いは途端に剣呑な目付きになった。
「かーっ、晴美の野郎、男連れこんでやがった!」
いかつい酔っ払いはそう吐き棄てると私の胸倉を掴んだ。しかし不幸中の幸いというべきか、私は和装である。荒々しく胸倉をひっぱられても、襟元がゆるんで裾が少しばかり短くなるだけだ。
「部屋違いじゃねぇですかい。中にいんのはおいらの連れですって。大体夜中に騒いじゃ迷惑でんしょう」
軍隊時代を思い出していたおかげで、理不尽な言い掛かりにも然程腹が立たなかった。酒の好きな戦友を思い出したのだ。陸軍で二人一組だったその男に、私は何度か泣かされた。当時二人組の関係を表すのに『俺の財布はお前の財布』とよく言ったものだが、福嶋はものの喩えでなく本当に遠慮なく使ってしまう。気付けば私まで素寒貧になっていた。それを思えば、まだかわいい方だ。
「検分しなきゃ気が済まねえってんなら構やしねえけど、中にいる娘が恐がっちまってんですよ。預かりモンの大事な娘だから、兄さん一人部屋に入れるって訳にゃいかねぇけど、いいですかい?」
直に酔いも醒めるだろう。左右に身体をふらふらさせている酔っ払いの気の済むまで部屋を検分させた。その間中、お鏡さんは私の傍から片時も離れなかった。よほど恐ろしかったのだろうが、どうにも、らしくなくて笑ってしまった。珍しく年相応な所もあるものだ。
頭が冷えるのにつれて酔っ払いは背中を縮めてゆき、仕舞にはへこへこと頭を下げながら帰って行った。考えてみれば酔漢も哀れだ。今日の私のように、奥方に逃げられた亭主として散々見られたのかもしれない。幸い私の場合は事実でなかったけれども、あの酔漢は実際に逃げられた訳である。その苦さを酒で紛らわそうというのも無理からぬことだ。
「そんじゃおやすみ」
立ち上がって外に出ようとした私の袖を、お鏡さんがぎゅうと引き止めた。今にも泣きだしそうな顔で見つめられると気まずい。お鏡さんはずるい。何一つ口にはせず、黙って私を見上げるのだからずるい。
店子が大家の娘とできた話など例に事欠かない。私はふいと顔を背けて、長机の前に立ち尽くしたまま、腕を組んだ。