十一 君恋し
電球の赤みは太陽に比べると味気なくていけない。日が沈んだのをなんとはなしに見届けてから、お鏡さんを部屋へ帰した。目の前に若い娘が居るからといって間違いを起こすような惰弱な精神は持ち合わせていないが、李下に冠を正さず、君子危うきに近寄らずという訳である。爺さんも婆さんも明治一桁生まれだ。妙な因縁をつけられたのではたまらない。
白湯をちびちび飲んでいたら、雷のような激しい足音が近づいてきて扉が開いた。案の定お鏡さんである。
「お鏡さん、急に戸を開けんじゃねえよ。おいらが着替えてたらどうするつもりだい」
「もったいぶるほどのモンやないやろ!」
何事かに興奮している様だが、人の身体に対してとんでもない言い草である。確かに諸肌脱いで見せようが大したものでないことは確かだが、婦女子がこんなんでこれから先の日本は大丈夫か知らん。嗜めようとする間にも、お鏡さんはずかずかと畳に上がった。
「部屋、とられたぁ」
先程まで吊り上がっていた眉が途端にへなっとなるのだから、なんともせわしない。
「とられたぁ? そいつぁ一体どういうこったい」
「旦那さん、帳面に書くん忘れてたんやって。そんで女将さんが他のお客さん入れてしもたんやって」
それはまた災難である。お鏡さんを連れてもう一度帳場に行った。出っ歯の主人に詰め寄ろうと思ったら、当の旦那は逃げ出した後だという。飲み屋にでも逃げよったんでしょうと平然と言う女将も女将だ。まったくひどい。
「でも良かった。お客さんのお連れさんなんでしょう? そこのお嬢さんの分はまけとくから、一緒に泊まりはったらどうでしょう」
まったくもってひどい言い草である。二の句が継げないとはこのことだ。一緒に旅をするくらいだもの、どうせいい仲なんでしょう、おほほと口元に手を当てて笑いだしたのに、流石の私も堪忍袋の緒が切れた。
「ふざけんじゃねぇや。こいつぁ家主の孫娘だい。こんな十も歳の離れた娘と一緒の部屋に寝泊りしたんじゃ、何言われるかわかったもんじゃねぇ。そっちが代わりの宿を探して宿代を立て替えるってんならまだわかるが、一緒に泊まれたぁ一体どういう了見でぇ。まるで道理に適わねえよ」
普段無口な私が今にも噛みつかんばかりの勢いでまくしたてるのに、お鏡さんが慌てた。間に入って宥めようとする。
「誰のために言ってると思ってんだ!」
私も止まらないのである。しかしお鏡さんもさるもので、怒りの矛先が自分に向いた途端に豹変した。
「もうええわ。うちが毛布借りて納戸で寝たらええんやろ?」
低くそっけない声の底に、黒々とした怒りがとぐろを巻いている。正直、血の気がひいた。女というのは実に恐ろしい。私はすっかり頭が冷え、口籠もった。
「……そんならおいらが納戸で寝る」
日本男児として、そう言うしかないではないか。
こうして私は暖かな布団でゆっくり眠るという、最大の幸福を手放す羽目になったのである。
軍隊生活を思い出してはげんなりし、虫の声に慰められては納戸の埃に咳き込んだ。生来気管が強くない方だから、埃は特に堪えた。以前は砂埃の中で銃を構えたこともあったのに、一体全体どうしたことか。身体が鈍っている証拠だ。
毛布が柔らかいものだから、中途半端に布団が思い出されてならない。干したての布団とは言わぬ。煎餅布団でも構わぬから、きちんと身体を横たえることはできないものだろうか。
こうして物思いに耽る間も咳が止まらない。あんまりひどくて眠れないものだから、仕舞には外に出て星など眺めた。晩夏だ。それに一晩くらい寝なくとも死にはしないのだということは、よく知っている。