十 火吹き達磨
伊勢参りなどしているうち、いつの間にやら日が暮れた。私がお鏡さんを連れて内宮と外宮の間を歩くと、店の人々が妙に得心したというような顔をする。今朝お鏡さんの消息を聞いて回った人々だ。さぞかし落ち着きのなさそうな娘だと思われているのか知らん。それなら大いに同意するが、店の者たちときたら、商売用どころか「逃げた奥さんが見つかって良かったですね。お幸せに」と言わんばかりの眩しい笑顔を向けてくる。店の者の変化を観察しているうち、針のむしろに正座をさせられているような思いがしてきて、お鏡さんから距離をとる。早足になる。普段より一層無口になる。
お鏡さんときたら、そんな私の後を店から店を飛び回りながらも器用についてくる。すると私は更に早足になる。おかげで行きとは比べものにならない早さで宿に辿り着いた。
小松屋は飯や風呂こそつかないが、それほど悪くはない宿だ。もっと安い宿もあるにはあったが、いつ干したのかわからぬ蚤虱のわく布団に寝かされるのだけはごめんこうむりたい。軍隊生活を思えば大概の事は我慢できるし、朝食が芋でもめざし一本きりでも頓着しないが、眠りを邪魔されるのだけは我慢ならぬ。敵襲や爆撃や、ラッパや上官の怒声で起こされるのはもううんざりだ。爺さんの頼みで伊勢くんだりまで来たのだから、宿代くらいは出してくれるに違いないと当て込んでいるのである。
まさかお鏡さんと同じ部屋に泊まる訳にもいかぬから、宿の主人に話をつけた。坊主頭に出っ歯の主人は小さな目をしょぼしょぼさせながら、へえと頭だけ前に倒し、指に唾をつけて宿帳をめくった。幸い部屋が空いていたらしい。早速部屋をとってもらい、荷を解いた。
「そんで、なんだってお鏡さんがおいらの部屋に来るんだえ」
お鏡さんは自分の部屋のように扉を開けて入り、さも当然という顔をして居座っている。流石米兵に赤福をたかった女である。図々しい。
「話相手がおらんと淋しいやろ」
まるで私が淋しがっているような口ぶりだが、私など三宮の下宿にいても部屋に籠もることが多く、一日二日は人と口をきかずとも平気だ。精々《せいぜい》独り言が多くなるくらいである。淋しいのはお鏡さんの間違いではあるまいか。
「へえ、そいつはどうも、ありがとよ」
思っても口にせぬのは部屋住みの次男坊の心得というものだ。たまには私も江戸っ子らしく啖呵の一つでも切りたいものだが、残念ながらそういった気質でないのだから仕方がない。逆に神戸っ子のお鏡さんの方が思ったことをぽんぽん口にする。毒舌というのとはまた違うけれども、やはり生まれ持ったものというのは大きいのか知らん。
「そんでセンセ、なんで迎えに来はったん?」
その問いはまた、今更ではあるまいか。
私は大変面食らった。火吹き達磨と名高い靖国神社の大村益次郎像には及ばずながら、それなりに目を剥いたと自負する。
「爺さんに頼まれたんでえ」
「……あンの、狸爺」
「なんでえ、口の悪い。心配してくれてんじゃねぇか。大体お鏡さんは拾ってもらったんじゃねぇのかい。大恩ある爺さんにそんな口きくもんじゃねえよ」
たしなめる私の声に、お鏡さんは妙な顔をする。
「なんでえ」
「センセ、関西人はほんまに好きなモンを貶すんやで」
「そりゃ、東京者だっていちいちおっかさんを自慢するようなことはしねぇよ。身内を一段低くして相手をもちあげンのは、日本人なら誰だってやらぁ」
お鏡さんはこれだから東京者はと言わんばかりに肩から力を抜いた。癇に触る仕草である。
「身内やから貶せるんやん」
なるほど、そう言われてみれば納得する。お鏡さんにとって爺さんは既に家族なのである。
「そうかい。そんならいいや。あんまり心配かけんじゃねぇぜ」
「そんなん言われんでもわかってるっちゅーねん」
窓の向こうに目を逸らすと、松の梢に見える水平線が太陽のほのかな金色の光を飲み込んでゆくところだった。