うなり声
三原中学校の1年3組、私こと相原かおりはとても困っていた。
「ん……んー……んー」
私の後ろの席に座っている山本君、今日の1時間目の授業のときから、延々とウンウンとうなり続けている。
ずっとずっと気になっているんだけど、今まで話したこともないし、何考えてるかわからないし、何でうなっているのか聞くに聞けないでいる。
私の席は窓側の後ろから2番目。山本君は窓側の一番後ろ。そして今日、山本君の隣の席の子は風邪引いて休み。この山本君のうなり声の犠牲者になっているのは私だけ、なんだかとても理不尽だ。
「うーん……うん、うん……」
……うるさいんよ、ずっとずっと。延々とうなり続けて。先生の話している言葉がちっとも頭の中に入ってこない。
2時間目の数学の小テストのときでもうんうんと聞こえてきちゃったせいで、全然集中できなくて、3つも4つも計算間違いしちゃったよ。
「うん? うーん……」
今は5時間目の社会の授業中。いつもだったらこっそりと本か漫画を取り出して、机の下で読んでたりするんだけど、今日は山本君のせいでまったく読むことが出来ない。
『豚の死なない日』の最後の名シーン……今日は豚が「うーん、うん? ううん!」……せっかくの名シーンだったのに台無しだ。
「うん、うん……」
もう、ほんとに山本君、うるさいよ。黙ってよ。そろそろ堪忍袋の緒が切れそうで、山本君に何か言ってやろうと思っている。
「さきこー、私もう限界ー、席変わってよー、それが無理だったら窓からつきおとしちゃってよー」
山本君に直接言うことはできないけれど、とうとう我慢できなくなって、前の席に座っている咲子に、山本君に聞こえないようひそひそ声で相談した。
「かおり……なんて危険なことを言ってんの。ダメだよ。そんなこと考えちゃ。みみずだって、おけらだって、山本君だって生きているんだから。そんな簡単に殺すなんていっちゃダメだよ」
よくわからない返事をされて、たしなめられた。
窓から突き落とさなくても、さきこが席を変わってくれたら万事解決なのに。
「何よー、生きているもの殺しちゃだめだっていうの? じゃあ今日の給食で豚肉と牛肉の合い挽き肉のハンバーグ食べたよ。牛肉は牛殺して、豚肉は豚殺して食べてるんだよ。これもダメだって言うの?」
「へんな屁理屈言わない」
屁理屈なのかな? 別に間違ってないと思うんだけどなあ。
「それよりかおり、山本君に絶対声かけちゃダメだよ?」
「なんで!?」
いきなりの咲子の意見の私はつい脊髄反射で反論してしまった。
「山本君はね、今一生懸命何かを考えているんだよ。もしかするとその考えが将来ノーベル賞につながる大発明の始まりかもしれないとてつもないすごい考えなのかもしれないんだよ」
ないない、ありえない。
「ここでかおりがもしも声をかけて、山本君の集中をとぎらせるちゃったらどうなると思う?」
どうもならないよ、ガリレオガリレイが言ってたでしょ。それでも地球は回っていくんだよ。
「その時点で世界の科学の進歩が200年遅れる結果になるんだよ。エジソンが電球を発明できないまま終わるのと同じくらいそれは大きな損失になるんだよ。ドラえもんが22世紀に間に合わなくなっちゃうよ」
どれだけすごいんだ山本君は。ドラえもんの創始者は山本君なのか。ないない、ありえない。
「ここでかおりが我慢し続けて、山本君が偉大な発明をすれば、かおりは『ドラえもんの母』になれるんだよ。『あのとき、私が我慢をし続けたおかげで、山本君はドラえもんを作ることが出来たんです』……うん! 感動的!」
……いつのまにか咲子の中で山本君がドラえもん創始者で定着してしまったらしい。
さっきから外でカラスが「あほー、あほー」と鳴いているよ。こんなバカ話をしている間も山本君は延々と『うんうんうーん、う、う、う』とうなり続けている。
「という訳で、あとちょっと我慢すればいいんだよ。大丈夫、かおりは出来る子だ」
「やだよ。そこまで山本君の肩を持つんだったら、今日1日だけでいいから席交代してよ。それで万事解決じゃない。『ドラえもんの母』の称号は咲子に譲るから。こんなところで苦労を味わうなんて真っ平ごめんだよ」
そう私が言った瞬間、咲子は前に向き直り、鉛筆を持って、
「……さ! 勉強しなきゃ! わー、私馬鹿だから一生懸命勉強しないと!」
と、心にもないことをのたまった。結局、咲子は席を替わってくれることもないまま、肩をたたいても、鉛筆でつついても、耳にふっと息を吹きかけても、私の方を振り向いてくれなくなった……咲子、後で覚えてなさいよ。
6時間目、国語の時間。先生が男子を当てて、朗読させている。当てられた男子生徒が読んでいるタイトルは「そこまでとべたら」というものだ。男子生徒はちょうど、おじいさんの看病を通じて、自分で自分のことを決めるように決意するようになる、そんなワンシーンを読んでいる。
そんな中、未だに山本君はウンウンとうなり続けている。男子生徒の声と山本君の声が私の耳には織り交ざって聞こえてくる。
「そこまで とべたら、じいちゃんは『うーん……うんうん、うぐっ……』」……じいちゃんが死んだみたいになってしまった。とても残念な気分だ。
ダメだ、いい加減我慢の限界だ。そろそろ山本君に一言言ってやらねば。そう思った瞬間、山本君が声を上げた。
「おお、きたきたきたきたあ!」
おお、とうとう待ちに待ったアイディアが山本君の頭の中に沸いてきたんだ。
この苦行から、とうとう開放されるんだ。普段は山本君のほうはほとんど見ない私だけど、山本君があげた声に反応して私は山本君のほうを振り向いた。
「はっっっっっっくしょーん!!!」
その瞬間、振り向いた私の顔に、山本君のつばやら唾液やら、大量の飛沫が飛んできた。
「いやあ、すっきりしたあ……出そうで出ないくしゃみって、ほんと堪えるよなあ……」
呆然としていたら、前の席から小さな声で「くくくっ」と笑っている咲子の声が聞こえてきた。
……私は机の上にあった辞書を手に取り、ゆっくりと振り上げた。