6
手洗い場の縁に腰掛けた。舞は怪我について語らず、朋久もそれ以上訊かない。
「綺麗だよね、この音」
「そうだね」
朋久は目を細くする。舞がそれを見た。
「朋くん、いいひとだね」
「うん?」
「あたしのことなんて、気にしなくていいのに」
「それは、僕の勝手でしょ?」
舞は苦笑し、朋久は笑う。
音がやみ、しばらくするとあしおとがしてきて、いつかのようにヴァイオリンケースを担いだ翔哉があらわれた。ポケットがふくらんで、携帯ラジオがひょこっと顔を出していた。ストラップがふらふら揺れる。
翔哉はふたりを睨みつける。舞は軽く睨み返し、朋久は微笑んだ。「山城くん、こんにちは」
「……こんにちは」
翔哉はそう云って、一階へ降りていく。舞が意を決したように、それを追った。朋久も続く。
「翔哉」
舞の声に、階段の踊り場で、翔哉は振り返る。朋久はちょっと驚いて、舞を見ていた。今、翔哉って……。
翔哉は不機嫌そうだ。
「……なに」
「あたし、覚えてるから。あのヴァイオリンの音」
「は?」
「でも、あの……」
舞はもどかしそうに、両手をかすかに振り、それから云った。「多分、翔哉じゃないほうのひと。あのひとって、誰? 凄く聴き覚えがあって、凄く好きなんだけど、はっきり思い出せなくて」
翔哉は頭を振った。「忘れてていいよ、舞」
「翔哉と、こよみと、あたし。幼馴染みなんだ。朋くんと細山くんみたいな……」
朋久は頷く。もう、日はだいぶ短くなり、ふたりは夕暮れのなかを歩いていた。
舞は呻くような声を出し、云う。
「昔から、ヴァイオリンやってるの、あの子。こよみもやってた」
「うん」
「こよみは、体に負担だし、発表会で発作を起こしちゃって。コンサートホールって、意外と埃っぽいらしいの。それで辞めて……翔哉もしばらく辞めてたのに、またはじめたのかな」
「山城くん、ラジオ、持ってたね」
舞がこちらを向く。朋久は小首を傾げた。
「ラジオの音じゃない? 舞が気にしてたの」
「ああ……そうかも」
そうだね、と舞は頷く。
舞とはまた、商店街の入り口で別れた。彼女は自分の住まいに朋久を近付けたくないようだった。その理由はわからない。
翔哉がヴァイオリンをまたはじめたことに、舞は喜んでいるらしかった。朋久は嬉しそうな舞を見て、自分も嬉しくなった。その嬉しさには、ほんのちょっぴり不純物があったけれど、見ないふりをした。
「七不思議、聴いた? 朋久」
「なに、和佐」
「放課後の少女霊。哀しげに歌う美少女の霊が出るんだってさ」
舞は相変わらず、ヴァイオリンとのセッションを続けている。おそらくそれだろうと朋久は考え、思わず吹き出した。和佐はきょとんとする。
「なんだよ?」
「なんでも」
「なんでもない顔じゃない」
「そう?」
「知ってることあるなら、教えろよ」
「そういうこと云うと、来週はハンバーグなしにするよ」
「ってことは、なにか知ってるんだな」
和佐は腕を組む。朋久は苦笑いした。和佐にはなにも隠せない。
舞の名前は出さず、クラスの女子が放課後歌っているのだ、と云った。和佐は納得したようで、それ以上の追求はない。「ハンバーグなしだよ」
「チーズハンバーグがいい」
「なしだってば」
「チーズハンバーグな。決定」
笑ってしまった。和佐のこの明るさは、僕にはないな、と朋久は思う。