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奇妙な演奏会は、次の日もその次の日も、休みをはさんで月曜日にも続いた。
かすかで途切れがちなヴァイオリンと、しっかりと響くヴァイオリン。舞の切ないような甘い歌声。曲は最初の三日間は同じものだったが、それ以降は日によってかわった。朋久の知らない曲ばかりで、うろ覚えの旋律をネットで検索したところクラシックらしい。歌詞のついていない曲で、舞はスキャットで歌っていたことを思い出した。藤咲さんは、知っている曲に合わせて声を出しているだけなのに、どうしてあんなに綺麗なんだろう。
ずっと、それを特等席で聴いている朋久は、ヴァイオリンの音がどこから聴こえるか、なんとなくわかっていた。屋上だ。
屋上は立ち入り禁止だったが、外で空気の通りがいいということで、今年になって解放された。上級生が弁当を食べに行っているらしいが、朋久は近寄ったことはない。
だが、位置関係を考えると、屋上で誰かがヴァイオリンを弾いているのは間違いないように思えた。窓から身をのりだして中庭を見ても誰も居ないし、別の教室から聴こえてくるふうでもない。
音が降ってくるような感覚がする。
「佐橋くん」
遠慮がちな声に、ぼんやりしていた朋久は振り向いた。「あ、藤咲さん」
舞が項垂れて立っていた。目許が赤い。鼻を鳴らしているので、泣いているらしいと朋久は気付く。
「あの……どうしたの?」
「ちょっと……」
まだヴァイオリンの音は響いている。舞の声がないと、物足りなかった。
舞は目許を拭う。
「佐橋くんのお母さん、看護師さんなんだよね。どこに勤めてる?」
「え?」
「こよみ、入院しちゃったって。日曜からだった。さっき弟から……でもどんな容体か教えてもらえなくて。みんなこよみのことあたしにかくすんだ」
舞はそこまで云うと、ぽろぽろと涙をこぼし、その場に膝をついた。朋久は慌ててしゃがみこみ、彼女の体に腕をまわした。
舞の親友のこよみは、喘息があるらしい。幼い頃に入院を数回しており、その時に大人達が「死ぬかもしれない」と話していた。だから今度も危ないのかもと、舞は泣きながら辿々しく喋った。
「大丈夫だよ」
舞を抱えて教室へ戻った朋久は、彼女を椅子に座らせて傍にひざまずいていた。大柄な朋久は、気は弱いが運動神経はいい。同年代の女の子をひとり抱えるくらいなら、訳はなかった。
膝の上で、ケータイを握りしめている舞の手を、そっと包んだ。
「きっと、適切な治療をうけられるから」
「……でも、こよみが死んじゃったら、あたし……誰も居なくなっちゃう……」
「死なないよ。それに、僕も居る」
舞は左手の甲で、乱暴に涙を拭う。
舞の心配は杞憂だろう。彼女のなかで、「こよみが入院する」ことが心の傷になっていて、まわりの大人達は彼女にそれを報せないようにしているのだ。もしかしたら、こよみ自身が、舞が心配しすぎるので内緒にしているのかもしれない。
舞はしゃくりあげながら、朋久に抱き付いてきた。朋久はそれを受けとめ、彼女のせなかを優しく撫でる。指にやわらかい髪の毛が絡みついた。大丈夫だよと云うと、舞は尚更激しく泣いた。
「ごめん」
「ううん」
「こよみも、だいじょうぶっていうの」
舞は少し枯れた声で、ぽつぽつと喋る。朋久は勝手に隣の席の椅子を借り、それを聴いている。
「大丈夫だよ、ちょっと入院するだけ、って。それで、前は面会謝絶になって、あたしこわくて」
項垂れ、小刻みに震える舞の肩を、朋久はそっと抱く。彼女はいやがらない。
不安が伝わってきた。
「遊んだり、しないようにしてるんだ」
「うん」
「こよみ、感染したら、凄く危ないんだって」
「うん……」
基礎疾患、それも喘息だ。重症化する可能性は高い。
朋久はポケットから、タオルハンカチをとりだした。舞の膝へ置く。彼女はそれで目許を拭った。「ありがとう」
「うん。藤咲さん、可愛いね」
「ん?」
「御厨さんと仲が好いんだなって思って」
「うん……」
洟をすする舞の頭を撫でた。舞は朋久のずぼんをきつく掴んでいる。
舞はなかなか、落ち着けないらしい。朋久は涙で濡れたタオルハンカチを彼女の手からとり、教室を出る。手洗い場で洗い、しぼった。
ふと、あしおとに目を遣る。「……あ」
クラスメイトの山城翔哉が、階段を降りてきたところだった。肩にヴァイオリンケースを担いでいる。
山城は朋久に気付くと、はっとした。それから朋久を睨みつけ、舌打ちして歩いていく。
山城くんが……。