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「……あ」

 朋久は赤面する。「藤咲さん……」

 舞は伸ばした脚を交差させ、鞄を両腕で抱きかかえて、朋久を睨んでいた。そばかすが散った頬がかすかに赤い。

「あの」

「……帰る」

 舞はいいすてて、マスクをつけると、ぱっと立ち上がった。窓を閉め、うなじのところでひとつにくくった長い髪を揺らして、教室を出て行く。

 朋久はなにも云えずに、舞の後ろ姿を見送った。




「吹奏楽って、管楽器だろ、主に」

 翌朝、家が近所でいつも一緒に登校している、幼馴染みの細山和佐に、前日弦楽器の演奏を聴いたのだと云ってみると、そんな言葉が返ってきた。

 朋久は目をまるくする。「そうなの?」

「そうじゃないとしても、今はどこも活動してないけど」

 朋久は口を噤む。和佐は自分の口許を覆う不織布マスクを指さして、肩をすくめた。

「これだからな。ヴァイオリン習ってるやつくらい居るだろうから、どっかで練習してたんじゃねえの? 学校ならうるせえとも云われないだろうし」

「あ、そっか」

 楽器を持ち込めるものなのかどうか、わからないが、その可能性が高いだろう。家がアパートなどで、防音対策が万全でなかったら、学校にこっそり持ちこんで練習するかもしれない。朋久はそう納得した。

 なんとなく、舞のことは話さなかった。


「おはよう」

 黒板を雑巾でふいている舞に挨拶する。彼女はちらっと朋久を見て、不機嫌そうに目を逸らした。やわらかい黄色に白い花の描かれた布マスクの下に、不織布のマスクを重ねているらしい。肌が荒れると不織布マスクをいやがる女子も多いが、舞はそんなことは一切云わない。

 朋久は席に鞄を置くと、チョークが減っていないかを確認した。舞がこちらを見ずに云う。

「ひとりでできるから」

「藤咲さん、こっちをやってもらえる?」朋久はにこっとして(どうせマスクで見えやしないけど)、自分の頭を軽く叩くような仕種をした。「黒板の上のほう、届かないよね?」

 舞は手をおろし、ちょっと朋久を睨んだが、腕をめいっぱい伸ばして雑巾をさしだした。朋久はそれをうけとり、舞が拭けなかった黒板の上部を拭く。舞はチョークの数をたしかめ、あたらしいのもらってくる、と、教室を出て行った。


 黒板を綺麗にする。チョークの数を確認する。花瓶の水をかえる。教室後ろのロッカーの上に儲けられた学級文庫の点検をする。ベランダのプランターに水をやる。教卓を拭く。掲示物が期限切れになっていたらはがす。

 学級委員の仕事は呆れるくらいに単調で、朋久は舞と手分けしてそれらを終えた。

 舞は大袈裟なカバーと紐のついた学級日誌を自分の机にひっかけ、項垂れて着席している。幾度目かの分散登校は先週終わったけれど、喘息持ちや家族に基礎疾患がある生徒は登校していない。舞と親しいらしい御厨こよみという生徒も、ここしばらく学校で姿を見ておらず、もともと愛想があるほうではない舞が尚更かたくなになっている。そんなふうに、朋久には見えている。

 学級文庫はどういう訳だか一冊増えていた。夏も終わった九月の下旬に、百物語をモチーフにした実話というていの短編集が。

 生徒の誰かが持ちこんだのだろう。学級文庫にあたらしい本を追加する場合、学級委員か担任教師に云ってからが原則なのだが、特に過激な内容でもないしいちいち許可をとる必要性を感じなかったらしい。それとも、夏が終わったので必要なくなったのだろうか。

 朋久は消毒液でかさついた手で、その本をめくった。間にしおりがはさんである。クローバーの押し花だ。随分、手の込んだことをする。

 そのページには、ヴァイオリンの話が載っていた。(あるじ)が亡くなったヴァイオリンが、深夜哀しげに音を響かせる。そんな内容だった。

 朋久はその本のことを担任に報せ、担任は置いていても問題ないと判断した。


「藤咲さん、僕、日誌持っていくよ」

 放課後、多くの生徒が出ていった後も、学級委員のふたりは備品の点検やなにかで教室に居た。

 小学校の頃なら、帰りも和佐と一緒だったが、和佐は母親が入院してしまっていて、家事をしないといけない。だからか、彼はこのところ常に眠そうにしている。

 舞は朋久の申し出に目を瞠った。訝しそうにしている。

「……どうして」

「えっと」

 朋久は苦笑いした。マスクで見えないよね、と思った。

「昨日の演奏がきこえたら、藤咲さん、また歌いたいんじゃないかと思って」

「……なにそれ?」

「声、綺麗だったよ。藤咲さんがあんなに歌がうまいなんて、知らなかった」

 舞は目許を険しくする。上斜視気味の目が背の高い朋久を見るので、上斜視が酷くなる。

「……あたし、歌ってない」

「え? ええと。あの、昨日ここの教室から、凄く綺麗な歌声が聴こえてきて、僕、しばらく廊下で聴き惚れてたんだ。あんまり力をこめてって感じじゃなく、ほどよくゆったりした感じっていうか、聴いてるこっちの気持ちが解れていくような素敵な声で」

「やめて」

 舞は赤くなって、顔を背けた。マスクの紐が二本かかった耳も、赤い。朋久は微笑んで、彼女から目を逸らす。

 舞はぎくしゃくと、教卓へ置いた。朋久はそれを掴み、両腕で抱くようにする。

「……ありがと」

「ううん。また聴いてもいい?」

「……見ないでくれるなら」

「うん」

 舞はこっくり頷く。

 朋久は教室を出た。


 日誌を届け、踵を返すと、あの窓が開いている。もしかしたら藤咲さんが開けているんだろうか。ヴァイオリンの音がよく聴こえるように。

 昨日と同じく、ヴァイオリンの演奏が聴こえ、舞の声も聴こえてきた。どちらも自然と微笑んでしまうような音だ。朋久は、見ないで、と云っていた舞に従い、その場で立ち停まる。

 それから、窓へぶらぶらと近付いていって、肘をかけた。背の高い朋久がやると、せなかがまるまる。

 そして、おやっと思った。今日は、ヴァイオリンがひとつじゃない。


 不思議な感覚だった。ひとつの音はあまりはっきりしないのだが、もうひとつはとても響いている。五分くらいすると、はっきりしない音をよく響く音がまねているのではないか、と思えてきた。

 ひとつの曲を、何度も何度も練習している。もしかしたら、姿の見えないヴァイオリン弾きさんに、仲間ができたんだろうか。それとも練習用の音源があって、それにあわせて弾いているんだろうか。

 どちらにしても、厚みのある音、それに重なる舞の歌声は心地よく、朋久は目を瞑って贅沢な時間をすごした。明日、藤咲さんに、綺麗だったよと云おうか。云ったら、またはずかしがってしまうだろうか……。




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