10
翌週になっても、舞は入院していた。かわりみたいにこよみが退院して、厳重にマスクをした状態でだが、登校してきた。
こよみは、入院前と違い、よく翔哉と居るようになった。峯田もまざって、三人で楽しそうにすごしていることが多い。舞が戻ったら、そこに彼女も加わるのだろう。
「佐橋くん」
「うん。なに? 御厨さん」
放課後、日誌を書いていると、こよみがやってきた。帰ったと思ったのだが、違ったらしい。
その後ろには翔哉も居て、ふたりともヴァイオリンのケースを持っていた。
屋上は空気が甘く、すがすがしい。マスクは必要なかった。日誌を職員室へ届けた朋久は、マスクを外して屋上へ出る。
そこには舞が居た。左目に眼帯をつけて、車椅子に座って。
「朋くん」
「舞」
舞は、傍に居る和佐と峯田にすがって立つと、とことこと、朋久の傍までやってくる。それから、困った顔になった。朋久が両腕を軽くひろげると、彼女は安心した様子で朋久の胸に飛び込んでくる。
和佐が小さく口笛を吹いた。「和佐くん」
「ごめん」
こよみが和佐くんと云ったので、朋久は目をしばたたいた。和佐はばつが悪そうだ。「いやあ。母さんと同じ棟で、何回か御厨さんも見舞ったんだ」
「なんだよ。僕にも教えろよ」
「お前だって藤咲さんのこと隠してたじゃないか」
それを云われると返す言葉はない。朋久は黙る。
こよみと翔哉がヴァイオリンケースを開いた。準備している間、峯田が譜面台を組み立て、楽譜をセットする。
朋久は舞を抱え、車椅子へ戻した。彼女は網膜剥離に、脳震盪を起こしていて、外出許可はおりたが運動やなにかはまだだめだそうだ。ここまで、峯田と和佐が運び上げたらしい。
「透くんは、お父さんがヴァイオリン教室をやってて、翔哉が通ってたんだ。それで、仲が好いの」
朋久は舞の言葉で、峯田の下の名前が透だと思い出した。
峯田透が譜面台から離れ、翔哉とこよみがそこへ立つ。ふたりは丁寧なお辞儀をした後、ヴァイオリンを顎の下にはさんだ。
演奏がはじまる。初めて、あの演奏を聴いた時と、同じ曲だ。細かい音が続いて、鳥のさえずりを絶え間なく聴いているみたいに思う。数羽の小鳥が楽しそうにはねまわり、虫をついばみ、合間々々に鳴く。そういう印象の曲だ。
舞は目を閉じてそれを聴いている。透は目を細め、和佐はわくわくした顔で、演奏を楽しんでいた。
僕はどんな顔をしてるだろう?
「わたしね、夢を見るんだ」
ヴァイオリンを丁寧に手入れしてケースへ戻しながら、こよみは目を伏せる。「入院してると、いつもそう。三時くらいから気分が悪くなってきて、うとうとするの。完全に眠れてはいないんだけど。そういう時、わたしは夢のなかで、ヴァイオリンを弾いてる」
弓を拭き、ゆるめる。切れていないかたしかめる。
「とても楽しくて、目が覚めなくてもいいなって思う。立っていても苦しくなくて、腕を動かしても変な音がしなくて、空気は甘くておいしいから」
ケースの蓋が閉まった。「……でもしばらくすると、誰かが同じ曲を弾いてくれる。一緒に弾いてると、もっと気分がよくなってくる。でもね、誰が弾いてくれてるか、わからなくて、目が覚めたらわかるような気がして、元気になりたいな、はやく退院したいなって思う。今度はそれに、素敵な歌声までついたんだ」
舞が息をのんだ。
こよみは譜面台を解体し、袋へしまう。そうしてから、翔哉を見た。
「翔哉だったんだね。わたしと、一緒にひいてくれたのは」
翔哉はかすかに、苦笑いらしいものをうかべた。「あのラジオ、電池をいれてないのに、こよみが入院する度になるんだ。こよみの演奏そっくりに」
こよみは頷いて、朋久を見る。
「舞を助けてくれて、ありがとう、佐橋くん」
「いや、僕はなにも」
「ううん。あの時、佐橋くんの声も、舞の悲鳴も、聴こえた。翔哉の心配そうな声も」
透が翔哉の肩を軽く叩いた。翔哉は苦笑している。
「佐橋くんが、正しかったよ」
「え?」
「わたし達、舞が大変なのに、なにもしなかった。警察に云うっていう簡単な筈のことができなかった」
「あたしがいやがったからでしょ」舞の声は湿っている。「あたしが、大丈夫だって云ったから」
こよみは頭を振る。翔哉も、透もだ。
「佐橋くん、ありがとう。これからは、わたし達もできるだけのことはします」
「あ……うん。わかった」
「だから舞のこと、宜しくね」
「こよみ」
舞が焦ったような声を出す。朋久は頷いて、和佐に頭を叩かれた。