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「……あ」
佐橋朋久は立ち停まった。
中学校の二階の廊下だ。朋久は学級日誌を持っていた。さっきまで教室で書いていて、今は職員室へそれを持っていく途中だ。朋久は学級委員で、この学校ではクラスの日誌は日直ではなく学級委員がつけることになっている。
もうひとりの学級委員である藤咲舞は、もう帰った筈だ。朋久はひとと、特に女子と話すのは苦手で、舞も口数の多いタイプではない。初日に「日誌は交互に書く」と決めて以降、分散登校が数回はさまったのもあって、もう二学期なのにほとんど会話していなかった。
さいわい、というべきか、このところはイベントもなく、従って学級委員が動員されるのは提出物についてか、日誌についてか、教室内での細々した雑事についてくらいだった。その程度なら、片方でも対応できる。このご時世で、必要以上にぺらぺら喋ることもない。
朋久が日誌を持ってかたまっているのは、どこからか綺麗な音が聴こえたからだ。弦楽器の音、と、朋久は思う。ヴァイオリンか、名前を知らないなにか別のものか。
どこから聴こえるんだろう?
四辺を見る。すると、窓がひとつ開いていた。朋久はそこへ近付いて、そうすると音が大きくなると気付いた。外から聴こえるのだろうか。
朋久は窓から顔を出す。どこから聴こえるのかわからない音は、不思議にやわらかい響きを持っていた。ゆるやかで、伸びやかで、豊かな気持ちにさせられる。
朋久はしばらくそれに聴きいっていたが、日誌を持っていることを思い出し、少々残念に思いながらその場をはなれた。誰なんだろう? 吹奏楽部……かなあ。
もともと、朋久は好きで学級委員になったのではない。立候補者がおらず、朋久とは違う小学校出身の生徒が朋久を推したのだ。同学年よりも頭ひとつかふたつ背が高く、成績がいいらしいから、という理由で。
実際のところ、朋久は成績はいいが、背が高いばかりで気は弱い。気が弱いから、学級委員を任されても断れなかった。
舞も似たようなものだった。彼女は同じ小学校出身者が、藤咲さんはずっと学級委員だったから、と推したのだ。舞はいやがらなかったが、朋久のように断れないだけらしく、かすかに不快そうにしていた。ほかの生徒達はそれに気付かないのか気付かないふりなのか、なにも云わなかったし、朋久もなにも云えなかった。
朋久は日誌を、職員室前の机に置かれた箱に置いて、踵を返した。鞄は持ってきていたのだが、図書室で借りた本を机にいれたままだったことを思いだしたのだ。
このところ、部活動は全部中止だし、友達と遊びに行くことも少ない。そもそも朋久は友達が多いほうではないが、それでも以前は、友達と隣町のショッピングモールまで自転車を走らせたり、ファミレスで宿題をしたりしていた。
今はそれが一切ない。
周囲の目が気になるから、友達をどこかへ誘う気にもなれない。朋久はひとり親家庭で、その母親が看護師をしているので尚更、そういうことが気になった。小学校の最後の年は、母の職場で感染者が出たと家から出られなくなり、学校で感染者が出たと家から出られなくなり……学校以外へ外出したかどうか、あやふやだ。
なんだか、箱のなかにいれられてぴっちりと蓋を閉められてしまったような息苦しさがある。
朋久は立ち停まる。先程と同じ廊下だ。窓はまだ開いている。
音が増えていた。弦楽器だけでなく、誰かの声が聴こえる。
朋久は窓から身をのりだした。弦楽器の音は大きくなったが、声は小さくなった。体をひっこめると、細くて霧のような甘い声が大きくなる。
弦楽器は外。歌は内。
朋久は目をしばたたく。この声は、歌は、どこから聴こえるんだろう……。
この校舎の問題なのか、音は反響していて、出所は掴めなかった。朋久はきょろきょろしながら、ゆっくりと教室へ向かう。
そうして、教室の手前で気付いた。僕のクラスから聴こえる、と。
とても綺麗な歌声だった。高音にひっかかりがなく、低音によどみがない。朋久はしらずしらず、笑顔になっていた。こんなに歌がうまい子が、クラスに居たんだ。
教室の扉を開けると、窓際の机に腰掛けた舞が、息をのんで口を閉じた。