第3話 “陽気な彼”
遥か向こうにある別の建物への渡り廊下が米粒ほどに見えてしまう長い廊下を、別に何も感じずに歩いて行く姿がある。通い慣れた場所だから、逆に風景が変化していると不安に感じてしまう。
「俺たちは、もう1年ではないからな」
階段を昇ってすぐ左手にある第7講義室、通称7講を通り過ぎた時、その言葉が用意されていたかのようにリュークが口を開いた。クレアは苦笑する。
「私が教室を間違えると思ったの? からかいにもほどがあるよ」
「万が一、ということだろ? まあ、中から妙に騒がしい雰囲気を感じ取れるからありえないけどな」
かつて2人が住処にしていたこの講義室は、すでに新しい住人に引き渡されていた。毎年春にこういうことが起こると知ったのは最近のことで、当然今度は別の住人から住処を譲ってもらえるということも知らなかった。
7講の隣にある同じ大きさの教室―第6講義室・通称6講の前に立つと、リュークは少し感傷に浸る。
「なんだか新しい世界に入り込むような感覚だな。開けた先には何があるんだろう」
「歴史の本の読みすぎじゃない? リュークは熱中したらすぐそうなるんだから」
「人間、情熱が大事だって誰か言わなかったっけ」 「ん…私は言っていないことはな、ないかな。さっ、早く入ろうよ」
ゆっくりと、入口のドアを開ける。そこに広がっているであろう新しい世界に、慎重に入っていく旅人のように。
不意に、部屋の中から出てきた涼しい風がリューク達を迎える。ようこそ、と挨拶しているかのようだ。目に入ってきた光景に、感嘆の声を洩らす。
「ふーん…7講より悪くないな。気持ちよく1年間を過ごせそうだ、クレア」 「うん、私も気に入った。たった1年間だけど面白そうだね」
窓から出てくる朝日の光が、教室内を輝かせる。1年前は新天地への思いがあったのか、気持ちが高ぶっていたのをリュークは思い出す。
「7講の時もそんな事言って数えきれない体験をしただろ」
「指で数えられるよ? あなたに出会ったことや、友達との楽しい日々、そして…あれ?」
どうした、と彼がクレアの見ている方向を向くと、全体真ん中の前から三番目にある、数人が腰掛ける机に誰かが突っ伏しているのに気がついた。短い黒髪で、体格からすると男の人だ。入ったら人の姿があることなんてわかるはずだが、この時はなぜかわからなかった。
(お前、あの寝ている人知ってるのか?)
(ううん、留年した人…はふつうこんなに早く来ないよね)
サンクチュラスも学校で、ましてや王立の上級機関なので留年してやり直しになる魔術士はザラにいる。当然、休暇前はこの2人にも関係のないことではなかった。
ともすると、まさかこの熟睡中の人間が…。
(起こす?)
クレアが肩を叩くような仕草をした。気持ち良さそうにしている人を夢の世界から強引に連れ出すのは酷だと判断しかねている。でも、何かが起こりそうな日にリュークが行動しないわけがない。
(俺がやるから、下がってろ。お前が叩くと相手がいろいろとびっくりするかもしれない)
(意味が捉えきれないけど…お願いね)
彼は自分の方に指差し、それからそろりそろりと足音を立てずに近づいた。魔法で気配を消してもいいのだが、
「魔力探知」で魔術士が警報代わりに張っているかもしれないから無茶なことはしない。自分に眠りの魔法をかけて睡眠をするなんてのは常套手段だ。
少し心配するクレアが見守る中、リュークは人に話すくらいの声の大きさで叩き起そうとした。
「おい、起き…」
だが、その男性が顔をあげて声をかけた人間を見た瞬間、リュークが突然彼の首筋をつかんで顔を机の上に押し付けた。何事かとクレアも鞘から剣を少し抜き、動きがあろうものなら斬りつけようとして構えた。
じりじりと彼女が近づいてリュークの顔を見ると、ありえないというのと怒りにも似た感情が出ているのが分かった。こういう時、あるパターンが思い浮かぶ。
「彼、あなたがしゃくに触るような事をしたの?例えば、無駄に魔法を」
「使ってる、コイツは。しかも、何であの魔法を…おい、このまま動くなよ!」
2人が話している隙に、彼はもがいてつかまれている手だけでもほどこうとするが、リュークの腕っぷしが強いのかびくともしない。
周りはまだ時間が早いのか、何が起こったのか見に来る野次馬たちもなく、入学生も別に気に留めずに7講で話しているようである。これは好都合だ。
「今度は、本当の顔を見せろ。上の学年の学生だかどうか知らないが、そんな風に魔法を使われると俺は気分が悪いんだ」
首を固定されたままで数回小さくうなずく動きをした。よし、とリュークは万が一の為にクレアをそばにいさせ、彼の首筋を少しずつ上げていく。
「ゆっくり振り向けよ。俺も変なことで魔法を使いたくない」
すると、クレアが剣を片手に構え、いつでもいいように準備をするのに反応するかのように、小さいかすかな声が発せられた。
「わ、わかったって!誰か知らねーけど、やばい気配が出てきてる」
「!」
リュークは発信源が分かるらしく、ゆっくりと襟元から手を放してやる。数回せきをする音がした後、本当の彼が振り向いた。
「そこまで本気にすんなって。魔法に厳しくやってたら、まともに魔術士として生きていけないぜ」
「じゃあ、なんでさっきあの魔法を使った?」
「なんでって、あれが俺の得意魔法だったからさ」 その顔は、いたずら好きの少年かと間違えてしまいそうに元気な様子だ。緊張感が漂っていた中でも、冗談のようにふるまう彼は、いままで手を出そうとしていた2人を驚かせてしまった。
あっけに取られているリュークを尻目に、彼は子供っぽく笑顔を見せる。どうだ、まいったかという風だ。何に圧倒されたのかは本人のみぞ知るところだが、やられた相手は逆上することもできずにいた。
「俺、ラルフ=ウォルトっていうんだ。お前は?」 唐突に自己紹介をしたラルフは身軽に机の上に腰掛けると、リラックスした態勢でリューク達の名前を聞いた。さすがにここまでくると、拍子抜けをとっ越して笑うしかない。
「お前、俺の心の中でも覗けるようなことを…リューク=フィリオール、時々リューって呼ばれてる」
「へえ、リューってニックネーム、悪くないよ。で、そちらは?」
話題が自分に振られたことが分かると、何事もなかったように剣を鞘に素早く収め、彼女は控えめに挨拶をした。
「サンクチュラス2年、クレア=ギレンスといいます。剣士です」
すると、ラルフは眉をあげて彼女の姿を一通り見てみる。何かと照合しているような感じだったが、その後驚きの声を上げた。
「そうか、これが剣士っていうんだな。俺、話には聞いていたんだけど初めて見たからさ。なんか袴とかって衣装をなんとかって」 「会う人みんな、そう言うんです」
すこし照れるような笑みを浮かべ、クレアは笑みを返す。ラルフは敬語を使われるのがあまりなれていないらしく、すぐに手を顔の前で振って返す。
「あ、タメでいいよ! 見た感じ、19才だろ? 俺も19なんだ」
「え、そうなんだ!?」 「俺、てっきりそれ以下だと思っていたけど」
「おいっ! じゃあ、何で俺がここで寝てるんだよ」
驚きとわざとらしい冗談を受け止め、逆にリュークに振る。すると、彼はラルフの前に手を差し出した。握手しようっていうのか? と自分も手を前に出してみる。いつの間にか移り出していた光が、3人を照らす。それぞれの着ている服やアクセサリーの色が、鮮やかに映し出された。
「そんなもの、理由はないだろ。だって」
ギュッとリュークとラルフの手が堅く握られる。そして。
「お前みたいな単細胞というのは、単純にいたずらしたくて幻想魔法を使ったんだろうが!!」
リュークが握られた手を思いっきりひねり、ラルフの体ごと回転させる。しかし、彼も負けじと余計に体を回そうとしたものだから、見事に巻き込まれた。一緒に、当たると痛い固い床に倒れる。
「っ! お前、さては!」
「悪りぃ、拳闘術をマスターしてるんだ。こんな魔法だけじゃ生きていけないからさ」
そして、ラルフは身軽なこなしで立ち上がり、すぐにクレアの方に歩み寄り、顔を近づける。手の早い行動に、さすがの彼女も反応できないし、リュークも彼が大胆なことをしたのを見て声が出ない。
「クレアちゃんって、かっこ良くてきれいだな。その源、どこにあるの?」
「えっ、いや、その…」 さらに顔を近づけようとするラルフにたまりかねたリュークは、クレアのもとへ全力で駆け寄った。彼女には指一本触れさせないというような思いがほとばしる。
「おい、今度は本気で殴るぞ!?」
リュークは全力で彼を取り押さえようと飛び込んだ。それと同時に、クレアが反射的にビンタをしようと右手を振り上げる。
だが、どちらの攻撃も、ラルフには当たらなかった。その姿は、透明な体であるかのように2人の体の侵入を容易に許してしまったのだ。
本物の声が、リュークの後ろから聞こえた。
「わりぃ、先に謝っとく」
「ちょっ、それは冗談…!?」
「わっ!!」
気持ちが良いくらいの、すっきりした音が部屋中に響き渡る。リュークは、ラルフの笑ったその顔が屈託のないことに、どうしようもない気持ちを覚えて床に落ちていった。
学校全体が、遅刻と戦う学生たちで埋め尽くされ始める頃、リュークとクレアはこのどうにもならない、いたずら小僧を詰問していた。何よりも彼によって恥ずかしい思いをしたのは2人なのである。リュークは未だにヒリヒリする左頬を押さえながら、脅し口調で尋ねた。
「お前さ…。あんなことをして、本当に編入生なのか?」
「しょうがねーだろ! 実技で披露したら本当に受かっちまったんだから」
「『本当に』って、もともと入学する気なかったということなの?」
クレアの自分に対する疑問に、ラルフは少し考えながら答えた。単純なものではないらしい。
「んー、ちょっと違うな。まあ、サンクチュラスに行きたい意志があってもちろん受けたんだけど、1年前はそんなの無かったし」
「無かった? 『腕の立ちそうな』魔術士なのに?」
リュークが少し皮肉交じりにツッコむ。しかし、この時のラルフはいたずら少年の顔ではなく、しっかりとした大人の表情になっていた。
「お前、知ってるだろ? この国じゃ幻想魔法でメシ食ってける保証はないってウワサ」
「まあ、そりゃそうだ。人を惑わし、弱い心に付け入る力はこの時代では似合わないからな」
リュークの記憶の中では、昔の戦争期に策略などで幻想魔法を多用する魔術士たちがいたと何かの歴史書で書いてあったような気がする。でも、今はこの通り平和なご時世だし、いくらか魔法の文明も発達してそういった魔法を打ち破る方法も創り出された。つまるところ、現在では
「力のない魔術士が使う未熟な魔法」と捉えがちということだ。
「でもさ」
再び、ラルフは少年に戻った。
「その幻想魔法で、困っている人を助けたり、デカい規模でいえば世の中を救えたりできたらどんなに気持ちいいかわからねぇよな?」
リュークの眼が、少し鋭くなる。ラルフの変わらないままの顔をじっと見た。 「お前、本気でそんなこと言ってるのか? 大体、人生ってのは…」
彼が何かを語ろうとした瞬間、すばやく男らしい手が顔をさえぎる。そして、頼りがいのありそうな笑顔でこう切り出した。
「人生は、世界のルールに負けちまうほどカタいものか? それに、バカげたことでも成し遂げる奴らの力を『本気』っていうんだろ」 ラルフの頭の回転が加わったような言い回しに、リュークは口が閉じられず、ちょっとの間放心状態になった。
こんな奴、久しぶりに見る。自分の言いたいことをさらりと、しかも俺に邪魔されずにタイミングよく口に出せるなんて。こいつ、どこまで猫をかぶってるのかわからないが、少なくともさっきの発言だけは…。
そうしてもう一度彼の顔を見ると、幻想魔法のことを語りだしたときの、大人の目になっていた。どうやら、彼を裏の裏まで疑うことなく、上手くやっていけそうな感じがするな。
「ラルフ」
リュークは顔から堅い表情を無くして、彼の方を向いた。警戒心を解いたようである。
「俺は、幻想魔法で世界を変えてみせるというお前の意気込みを絶対に止めない。まあ、やめろと言われてもその前に聞く耳さえも持たないだろうけどな。ただし」
じっと、ラルフの目を見つめる。
「魔術士として間違ったことをしたら、即お前をぶちのめすからな」
彼はその宣言を聞いて目をパチクリしていたが、だんだん口元がゆがんできた。何かにこらえきれないらしく、ついには体をバタバタさせていった。
「アハハ、誰かに似ているかと思ったらお前、フィリオールの家系だよな? お前のじいさんは魔術士に厳格で『魔法の奴隷』にまでなった歴史学者だって聞いたことあるぜ」
「だろうな。だから、できるだけフルネームで答えたくなかったんだが」
「いいんじゃない? こういう縁でつながるのって、運命と思うよ」
3人はいつの間にか心を通じ合わせるようになっていた。何かはっきりしないものだが、お互いの心の霧を晴れさせる共通点はあるようである。
そうこうしているうちにさらに時間がたち、6講にも新しい住人が入ってくるようになった。つまり、リューク達の同級生だ。薄い茶色で癖のある髪をしたイケメンと、宝石のように長く黒い髪をなびかせる女の子の2人が近づいてくる。 「ちわーっす、リューク! 久し振り」
「あっ、クレアだ! 元気だった?」
「お、シオンにノエルか。というよりシオン、相変わらず廊下で騒ぎすぎ」
「お前も、相変わらず頭がカクカクしてたらもてないぜ、リューちゃん」
「うるせっ」
「あんたたち、朝からそんな感じ? クレア、私たちは女の子オンリーでおしゃべりしようか」
「うん」
遠くにいる見慣れた姿を発見したのか、それとも誰でも自由に学問が受けられるため、年齢の違いがある中でもやはり2人は目立つのか、入ってくる人みんなが挨拶をする。そして、それぞれの話の輪ができようとしていた。幸い、この時笑いをこらえているラルフは死角になっていて見えていない。リュークは、せっかくだからと彼を話のネタにしようと思い、目で通しをした。
(例のアレ、やってみたらどうだ?彼らなら、冗談でウケてくれるぞ)
了解! とラルフはウインクするといきなりわざとらしく音をたてて突っ伏す。これなら彼のことを気にせずにはいられまい。
「リューク、あれ誰? 見たことのない、なんかガキっぽいのがいるけど」
「ああ、あれ? いや、俺さ、クレアと一緒に今までいたんだけど、ずっとこのままだったんだよね。な、手も触れてないもんな」 うん、と彼女はあいづちを打つ。話にでしゃばることのないクレアはたいてい、これで流す。
「ふーん。でも、なんかほっとけない感じ?」
「ここはリュークが代表して起こしてやれよ。6講にいるってことは、俺たちと一緒に過ごす人なんだし」
「あ、そう? 分かった」
少し笑みを浮かべて、ラルフをやさしく起そうというふりをして合図を出した。
たぶん、今のあいつは誰かをからかいたくてたまらないんだろうな。初対面でそんなことをするなんてよっぽど確信犯か、それとも相手に遠慮がないのか…。 とにかく、こいつの顔がまっさらに目も鼻も、そして口もないと知った時どんな表情をするんだろう。彼がいつ顔をあげるんだろうと心待ちにするリュークは、やっぱり今日はツイていると感じた。