皓亮と亜衣
時間は深夜の十二時を過ぎている。君も僕も程よく酔っていた。赤みの差した君の頬が、いつになく色っぽい。
長い時間、二人で色んなことを話した。だけど君は決して彼のことを口にしない。惚気られるのかとも覚悟していたのに、君はずっと会社の愚痴と僕らの思い出話に必死だった。
ふと君の手を見ると、その指に指輪は見えなかった。
「もうすこし強いお酒飲みたい、オススメは?」
「じゃあそれで最後な、無理すんなよ」
最後にオーダーするカクテル。それは君と交わす最後のカクテルとなる。
彼女には白ワインベースの『キール』を、僕自身はジンベースの『ギムレット』をオーダーする。
煙草に火を点ける。六本目になる、もう君は何も注意しない。
オーダー後、しばしの沈黙が流れる。まばらな客の会話、しっとりと流れるジャズ、どれもさり気なく僕らの間の沈黙を埋めるように入り込んでこようとする。でも僕らが纏った空気だけはその場に留まり続け、まるで時間までもが止まったかのようだった。
このままずっと二人でいられたのなら。
今、君への想いを打ち明けたらどうなるだろう。君はなんて思うかな。
窓の外を見つめる君、テーブルに置かれた左手。華奢なその指を、その手を、本当は握りしめたい。いっそ君を抱きしめてしまいたい。
いずれ時間は無情にもやって来ては過ぎ去る。僕から君という最も大切な人を一緒に連れ去って。
こんなにも、僕は心を押し殺す必要があるのだろうか。たとえ君が誰かのものであっても……今夜は、今だけは、君は僕のもの。そう、信じたい――
「良い夜ね。ほら、月があんなに綺麗だよ」
「――え?」
彼女の言葉に、ふと我に返り月を見た。月はもう高く登っていて、小さかったけど確かに綺麗だった。
彼女に視線を戻すとテーブルの上に彼女の左手はもう無く、目を擦っていた。いや、それは涙を拭いていた仕草に近いものであった。
「亜衣……」
僕が口を開いたとき、僕らのラストオーダーが運ばれた。彼女に運ばれたのはシャンパングラスに注がれた深いガーネットに染まったキール。僕にはカクテルグラスに注がれたショートタイプのギムレット。
彼女はグラスを持ち、くんくんとキールの匂いを嗅ぐ。
「とっても赤いねぇ、カクテルなんだよね? 匂いはワインみたい」
「そうだよ、それはワインベースのカクテルだからね。ただ、赤ワインじゃなく白ワイン」
「え、そうなの? すっごい不思議だね!」
それはカシスリキュールが、などと言ったところで彼女に今大事なのはきっと美味しいかどうかだろう。彼女はキールをそっと一口、口に運ぶ。
「うん、美味しい。ワインのジュースみたい。だけどほんのちょっとだけ強いかな」
「大体度数は十四度前後、ワインと変わらないけどね」
終盤の十四度なのに、彼女はどんどん飲んでいく。
僕もギムレットを一口飲む。さっぱりとした口当たりだが、強いアルコール感が喉を突き抜ける。
「皓亮くんのは美味しい? 一口ちょうだい」
「良いけど、強いよ?」
僕のギムレットを半ば無理矢理奪い取り、彼女は普通の飲み物と変わらない勢いで一口飲む。それはちょっと、と止めようとする僕にお構いなしの彼女は案の定、表情を歪めて舌を出した。
「うわっ、何これ! 苦~い」
「だから言ったろ。三十度くらいあるんだから」
「男の人ってこういうの好きねぇ」
彼女が僕の前にグラスを戻す。口直しのように自分のキールを飲み直す。
「このカクテル美味しいんだけど、どうしてこれを最後に選んだの?」
彼女は素朴に質問したのだろう。しかし、僕は最後はこのカクテルでと決めていた。
君に贈る、僕からの最後の言葉として。
「最高のめぐり合い」
「え?」
「そのカクテルが意味する言葉、最高のめぐり合いって言うんだ。君が、結婚する今の彼との出逢いはきっと最高のめぐり合いになると信じて、僕から君に贈る言葉だよ」
「そうなんだ、何だか恥ずかしいなぁ」
恥ずかしがる君をよそに、僕は違うことを考えていた。
カクテル言葉と言われる言葉。確かにそういう意味を込めてもいるけど、もう一つ、僕にとって君との出逢いは最高のめぐり合いそのものだったと……
偏った想いかもしれないけど、受け取って欲しかった。僕にとってかけがえのない君だから。
「最高のめぐり合い、ね」
君は虚ろな目で揺れるキャンドルライトを見つめている。
君が思う最高のめぐり合いに、僕はいるのだろうか。たとえいたとしても、これから君の隣に、君の側にいるのは僕じゃない。それはもう分かっている。
君には言わないけど、本当は僕のオーダーしたギムレットにももちろんカクテル言葉がある。
それは『長いお別れ』だ。
僕自身の心もけじめをつける必要がある。だからこそ、お互いの最後のカクテルにキールとギムレットを選んだ。
君との夜はもうすぐ終わる、君が近くに感じられた二十五年以上の月日の軌跡がもうすぐ。未練なんて無いわけない、願わくば今この夜が永遠に終わって欲しくないとも考えてしまう。
だけどそれは君が選んだ幸せではない、僕は君がいつも笑顔で生きていて欲しいと願っている。今僕は君に出来る最後の優しさをもって、笑顔で送り出したい。
あとほんの少し、お互いのグラスに残ったカクテルは中々減らない。僕がそうであるように、彼女からも今この時間を終わらせることに躊躇いを感じ取れた。
「皓亮くんの……」
「なに?」
彼女が静かに言葉した。
「――いや、何でもない。本当に今までずっと、ありがとうね」
「僕の方こそ、ずっと楽しかった。兄さんは嬉しいぞ、本当におめでとう」
「またそうやってからかって」
最後に彼女の頭を少し強めに、ぐしぐしと撫でた。
本当の兄妹のように、お互い笑いながら、寂しさを紛らわすように。
時間だね、とお互いに残ったカクテルを飲み干してグラスを置いた。
ギムレットは少し強すぎた、立ち上がるとともに足下がふらついた。
三話完結、次話で完結となります。
次話は11月3日、21時投稿となります。どうぞお楽しみに。