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秋雨好感度

作者: 昼乃春空

甘々のラブコメです。

自分で読み返すのも一苦労なほどに。

今日も雨が降るらしい。

夏も終わり、すっかり寒くなったこの頃は雨の降る日が続いている。

朝の天気予報ではほぼ毎日、笑顔の素敵なお姉さんが傘の持参を促している。

僕は雨が嫌いでは無いのだけれど、こうも傘の手放せない日が続くとさすがに鬱陶しく思ってしまう。

朝食を済ませ、歯を磨いている今も窓ガラスを弾く雨音が嫌味ったらしく耳に入って来る。

雨音を無視しつつ、寝起きのせいか覚束ない手つきでコップを持ち、蛇口を捻って水を注いだ。

そして、コップに入った水を口に含み、濯いで吐き出す。

それを数回繰り返してから、両手で顔を洗う。

眠気が引き、さっぱりして鏡を見るとなんだか気だるそうな顔が映っていた。

もしかして僕は自分が思っている以上に雨が好きでは無いのかもしれない、と疑ってしまう顔だった。

しかし、だからと言って外に出ない訳にはいかないのが現実だ。

渋々、洗面所を後にし着替えを始めた。

うちの高校の制服は学ランで、黒一色のシンプルなものだ。

服に五月蝿い連中はデザインが古いとか、ブレザーがよかったとか、様々な不満をこぼしているが、僕としてはこのシンプルな学ランが一番しっくりくる。

そんな学ランへの着替えをさっさと済ませ、通学用鞄を手に取り、予備の折り畳み傘が入っているか確認する。

僕は何かあった時のために、雨の日は普通の傘と折り畳み傘の二本を常備するよう心掛けているのだ。

僕が鞄を探っていると、テレビを見ていた母が思い出したかのように呟いた。

「そういえばさっき、お父さんが鞄から折り畳み傘持って行ってたわ」

道理で見当たらないと思ったら、父さんのせいか。

まぁ、持って行ってしまったものは仕方ない、今日一日くらい無くても困りはしないだろう。

「母さん、父さんには勝手に持って行かないでくれって言っておいて」

僕が呆れたようにそう言ってカバンを閉じると、母さんは「分かったわ、いってらっしゃい」と優しく言い、手を振った。

僕も合わせるように手を振って「いってきます」と言い、玄関に出て学校指定の革靴を履いた。

そして、掛けてあった傘を手に取り、ゆっくりと扉を開けて、嫌いでは無いはずの雨降る通学路へと足を進めた。



僕の通う高校は私立であり、そこそこの進学校である。

そこそこ、と言うのは県内一とは言えないが、名ばかり進学校と言う訳でも無い、そんな程度のことを指している。

そして、そこそこ進学校であるこの高校は、校舎の外観や設備もそこそこだ。

期間限定新商品が大好きなミーハー高校生には、堅苦しい制服同様に物足りないであろう高校だが、平凡な僕にはお似合いだ。

現に、僕は過ごしやすくて気に入っている。

しかし、花の高校生なら、もう少し流行り廃りを敏感に受け止めなくはならないのかもしれない。

元々、積極的な性格では無いせいか、昔から友達の少ない僕はそういうことに疎いのだ。

僕は歩みを進めていくたびに視界を占領していく校舎を見ながら、そんな雨の日特有の軽くネガティブな考えを巡せていた。

もしかしたら、僕が雨を嫌いなのかも、と疑う要因はこの気分の落ち具合なのかもしれない。

足を動かしながらも、再び自分なりの雨に対する好感度の基準を考えていたが、結局ちゃんとした答えを出すことが出来ないまま、校門をくぐった。

「おっはよっ!」

玄関に入り、傘を閉じつつ水滴を払っていると、元気が有り余っているような挨拶と共に、背中に衝撃を感じた。

「……毎回言ってるよな、いきなり背中を叩くのはやめてくれって」

振り向きながら眉を顰めると、声の主はへらへらと笑っていた。

「すまんすまん、今度なんか奢るから!」

「お前が僕に奢ったことなんて一度も無いだろ」

「あれ? そうだっけ?」

この無邪気なお調子者には、雨がどうとかまったく関係無いのだろう。

我ながら、僕の数少ない友人と言えるこいつが、ここまで僕と正反対な性格なのが不思議でたまらない。

「今日はやけに機嫌が良いな」

「お? やっぱり分かっちゃう?」

こいつが僕の背中を叩くときは、大体何か良いことがあった時だ。

大方、また好きな人でも出来たのだろう。

「いやー実は昨日、運命の出会いしちゃってさ~」

まったく、相変わらずの惚れ性だ。

「つい先週も同じこと言ってなかったか?」

「いやいや、先週のあの子にはもう振られちゃったんだよ。俺は新たな恋に走り出したんだ!」

「スタートダッシュが速過ぎだ」

こいつは基本的に明るくて良い奴なのだが、女運の無さと、振られた時の切り替えが早すぎる、というのが玉に瑕だ。

このあまりの挫けなさが学校中に知れ渡り、「あいつは誰でも良いらしい」という噂が立ってしまったのが運の尽き。

その結果、惚れては振られの悪循環から抜け出せなくなっている。

まぁ、こいつ自身は「恋に障害は付き物!」とか豪語していることだし、放って置いていいのかもしれない。

僕は隣でペラペラと運命的出会いの詳細を話しているのを無視しつつ、下駄箱を空けて靴を履き替えた。

隣のお調子者も口を休めずに靴を履き替え、足早に教室へと向かう僕の肩に腕を回し、逃げられないようにしながら話しを続けていた。

こいつは僕が嫌な顔をしていても、お構いなく笑って話してくる。

誰にでも笑顔で接することができるのは良いことだが、さすがにここまでくると少し面倒臭い。

階段を上り、二階にある教室の扉を開けるまで話しは続いたが、そこでようやく口が止まった。

「……ちゃんと聞いてたか?」

どうやら僕が話を右から左へ聞き流していたのに気が付いたらしい。

僕は適当に「あー聞いてたぞー」と返事すると、むっとして肩に回していた腕を下ろした。

「物凄い奇跡的な出合いだったんだぜ! ちょっとは興味持ってくれよー」

まるで駄々をこねる子どものようだ。

「はいはい、昼休みにでもゆっくり聞くよ」

僕が論すようにそう言うと、すぐに笑顔が戻った。

「それならいいけどー、てかお前はどうなんだよ、好きな人とかいるのか?」

「……いる。名前は言わないけど」

そう小さく言うと、こいつは驚きのせいか一拍置いてから叫ぶように言った。

「え!? お前好きな人いたのかよ! もっと早く教えろよ~」

僕があえて小さな声で言ったのにも関わらず、こいつはクラス全員に聞こえるようなボリュームで反応した。

そろそろ空気を読むってことを覚えてほしいものだ。

聞かれたら言うつもりだったけど、やっぱり言わないほうが良かっただろうか……面倒臭いことになりそうだ。

まぁ、そう言うことには縁のなさそうな僕に、想い人がいるのは意外だったのだろう。

「そうか……お前はそう言うことには興味無いのかと思ってたよ」

感慨深そうにそう言ったこいつは、なんだか嬉しそうだった。

「まぁ、頑張れよ!」

きっと根掘り葉掘り聞かれるのだろうと身構えていた僕だったが、意外にもその一言だけで、それ以上はなにも言われなかった。

いつものこいつなら、ここから質問攻めの嵐になるはずなのだが……。

「……何も聞かなくて良いのか?」

「ん? まぁ、色々聞きたいのは山々だけど、俺がガッツリ関わったら失敗しそうだしな。お前には成功してほしい!」

恋バナ好きの失恋マスターは自虐気味にそう言って、笑顔を浮かべた。

いつもは空気が読めないくせに、たまにこういうことを言うから嫌いになれない。

「――ああ、頑張るよ」

僕はそう呟き、見計らったかのように鳴ったチャイムを聞いて、席に着いた。



教室の外では結局、朝から止むことの無かった雨が降り続いていた。

「今日はこの辺にしとくか」

本日最後の授業というのもあってか、先生の声は少し気だるそうだった。

クラスメイト達は、その言葉を待ってましたと言わんばかりの顔で、手早く号令を済ませた。

疲れ切った顔で皆が帰って行くのを横目に、僕はのんびりと帰り支度を整える。

ちなみに噂の失恋マスターは、運命の出会いをした女の子に告白してくる! と言って走り去っていった。

恐らく、無残に振られるだろう。

教室に残っている人も疎らになってから、ようやく帰り支度が済んだ僕は教室の扉を開けて下駄箱へと向かった。

廊下を渡り、階段を下りて下駄箱に着くと、内履きのまま傘も持たずに外を見つめているクラスメイトが目に入った。

華奢で小柄な体に後ろで一つに結んだ綺麗な黒髪、その後ろ姿はあまり特徴の無いものだったが見間違えることのない後ろ姿だった。

この頃、彼女のことを気付けば目で追ってしまっていたから、後ろ姿を覚えてしまったのだろう。

しかし、今日は朝から生憎の天気なのに傘を持っていないのは何故だろうか。

もしかして、傘を忘れてしまったのか?

たしかに、朝の天気予報では三時頃から雨は弱くなると言っていたが、朝は土砂降りだったし、傘を忘れることはないと思うのだが。

何か事情でもあるのだろうか……。

僕は靴を履き替えながら、彼女が傘を持ってない理由を考えていた。

まあ、理由がどうであれ、傘を持たずに棒立ちしている彼女に僕は手元の傘を差し出すべきだろうか……。

会話のきっかけにもなるし、仲を深める良い機会かもしれない。

しかし、いくら僕が一方的に好意を寄せている相手だとしても、両手で数えられるほどしか話したことの無いクラスメイトからいきなり傘を差し出されても困るだけではないか?

僕にとって彼女は想い人だが、彼女にとって僕はただのクラスメイトなのだから。

だが、今朝あいつに背中を押された手前、ここで何もしないのも男が廃るというものだ。

彼女の後ろ姿を見つめながら逡巡していると、人の気配に気づいたのか不意に彼女が振り返った。

そして――僕と彼女の目が合った。

僕の考えはまとまっていなかったが、ここで目を反らしてしまってはせっかくのチャンスを手放してしまう。

何とか言葉を絞り出さなくては……!

「――山田さん、もしかして傘、忘れた?」

なんとか喉の奥から絞り出した言葉はあまりにも率直な物だった。

「え? あ、えと……うん、ついうっかりしちゃって。こんな日に傘忘れちゃうのなんて私ぐらいだよね! 行きはお母さんに送ってもらったんだけど、三時頃からは雨降らないって天気予報で言ってたから油断しちゃって……」

彼女は照れ隠しのためか早口で答えていた。

しまった……これでは不用意な質問で彼女に要らぬ恥をかかせてしまっただけではないか。

このまま引くわけにはいかない、なんとか挽回しなくては。

「それなら、僕の傘を貸そうか?」

僕が傘を持った手を差し出すと、彼女は驚いたような表情で顔を上げた。

「いや! そんなの悪いよ、佐藤君も今から帰りなんでしょ? 私はお母さんが仕事終わるまで待ってるから大丈夫だよ!」

両手をぶんぶん振って慌てる彼女はやはり愛らしかった。

「僕は折り畳み傘があるから遠慮しなくていいよ、ほら」

僕は差し出した手をさらに前に突き出した。

「……いいの?」

「もちろん」

彼女は申し訳なさそうに、そして何処か嬉しそうに傘を受け取った。

これでさっきの失態は取り消せただろうか。

「それじゃあ、また明日。気をつけて」

「あの、ありがとう、このお礼はまた今度するから」

僕が別れの挨拶を言うと、彼女はそう言い残し小さく一礼して帰っていった。

欲を言えば肩を並べて一緒に帰りたかったが仕方ない。

僕は名残惜しさを感じながら、常備している折り畳み傘を取り出すために鞄を開けた。

しかし、いくら探しても鞄の中に折り畳み傘の姿はなかった。

しまった……今朝、父さんに奪われていたのを忘れていた。

山田さんの後ろ姿はもう見えず、知り合いや友達はもう帰ってしまった。

家族に連絡を取ったところで、両親はどちらも仕事中だ。

これは、もうどうしようもないな。

雨が弱まるまでひたすら待機するか、それとも濡れながら走って帰るか、さっきまでの余裕が嘘だったように苦渋の選択を迫られることになってしまった。

自分の爪の甘さを恨みながら途方にくれていると、見覚えのある傘をさして小走りでこちらに向かってくる人影が見えた。

「あれ、山田さん?」

さっき帰っていったはずの山田さんが何故か戻ってきた。

「あっ、佐藤君」

田中さんも僕の存在に気づいたようで、こちらに近づいてきた。

「内ばきのまま帰っちゃってた……」

僕の前まで来て、彼女は恥ずかしそうに頬を染めて笑顔を浮かべた。

僕はつい、にやけてしまいそうになるのを耐えてポーカーフェイスを作るのに必死だった。

「佐藤君は帰らないの? 誰かと待ち合わせ?」

痛いところを突かれてしまった。

まあ、ここで格好つけても仕方ないだろう。

「恥ずかしながら、折り畳み傘を忘れていたみたいで」

「え!? そうなの? じゃあ、傘返した方がいいよね……」

彼女は傘を閉じて、申し訳なさそうに差し出した。

「いや、いいよ。山田さんが帰れなくなっちゃうし」

一度傘を貸した以上、ここは引けないところである。

「え、でも……」

僕が傘の返却を拒んだせいで、彼女は戸惑ってしまっていた。

しかし、ここで素直に受け取ってしまってはあまりにも情けない男になってしまう……。

数秒間、どちらも代替案を出せないが故の沈黙が続いた。

そんな中、口火を切ったのは彼女の方だった。

「あの、じゃあ……佐藤君がよかったらなんだけど、一つの傘で一緒に帰るとか……だめ、かな?」

彼女の出した代替案は、願ってもいなかった相合傘のお誘いだった。

しかし、いいのだろうか……彼女からすれば、ただのクラスメイトと帰っているだけなのに、誰かに見られて僕たちが付き合ってるなどといった噂を立てられてしまっては、彼女に迷惑が掛かってしまう。

だが、僕にとっては不意に舞い込んで来た絶好の機会だ……。

「――僕は良いけど、山田さんは大丈夫? 変な噂が立ったら困るだろうし」

頭の中で考えていてもどうしようもないと悟り、素直に意見を聞くことにした。

「わ、私は大丈夫……むしろ佐藤君との噂なら……」

彼女の声は小さく、さらに俯いて言っていたせいか、後半はほとんど聞き取れなかった。

だが、どうやら山田さんは気にしないでくれるらしい。

なんと心の広いことだろうか。

「えっと、山田さんが良いなら早速行こうか。最近暗くなるのも早いからね」

僕がそう言うと、彼女は急ぎ気味に下駄箱で靴を履き替えて、僕のそばに駆け寄った。

そして、僕は彼女の手から徐に傘を取った。

「僕が持つよ」

元々は僕の傘なわけだから、僕が持つのが礼儀だろう。

「え? あ、ありがと……」

すると、彼女は急に顔を真っ赤にした。

やはり、ただのクラスメイトだとしても、異性との相合傘というのは恥ずかしいものなのだろうか。

「そういえば、山田さんの家ってどの辺りだっけ?」

一緒に帰る上で、知っておかなくてはならないことを聞き忘れていた。

「えっと、佐藤君がいつも使うバス停の近くだよ」

僕の方を見た彼女の顔は、まだ少し熱を持ってるようだった。

恥ずかしいにしても、さっきからやけに赤くなりっぱなしだ。

もしかしたら風邪気味なのかもしれない……クラスでも風邪が流行っていたし。

彼女に雨が当たらないよう、僕は傘を差してから少し傾けた。

「それじゃあ、取り敢えずバス停の近くまで行こうか」

僕はそう言ってから、彼女の歩幅に合わせて歩き出した。

学校からバス停まではゆっくり歩いても十五分ほどで着く。

校門を右に出て、そのまま大通りを真っ直ぐ歩き、三つ目の信号を右に曲がると見えてくる。

この僅かな時間で、なんとか互いの距離を縮めたいところだ。

しかし、緊張のせいか、歩き出してから口が思うように動いてくれない。

会話がなければ相合い傘をしていても何の意味もない……どうにかして口火を切らなくては。

もちろん、相合傘と言えば、男性が車道側を位置取ることも忘れてはならない。

運悪く今は山田さんが車道側だが、頃合いを見計らって変わらなくては……。

もう暫くすれば、学校のすぐ近くにある一番目の信号に着く。

目線を少し上げると信号は青、と言うよりかは緑がチカチカと点滅していた。

このまま行けば信号で一時停止することになる、その瞬間がチャンスだ。

これを逃せば、きっと言い出せなくなるだろう……。

信号へと一歩、また一歩と足を進めるたびに心臓がボリュームを上げていく。

自分でも信じられない位に鳴り響く鼓動が、彼女に聞こえてしまっていないか心配になるほどに。

ここできっかけを作ることができれば、会話に繋げるチャンスにもなる。

横断歩道の手前まで着くと、点滅していた信号が赤に変わり、僕たちは足を止めた。

僕は開こうとしない口を無理やりこじ開けて、言葉を絞り出し、鉛が付いているのかと感じるくらい重い両足を動かした。

「――山田さん、場所変わるよ」

あまりにストレートな言葉と共に、車道側へと移動した。

本来ならばもっとさり気なくするべきことなのだろうが、今の僕にはこれが限界だった。

心臓はさっきよりも激しく鳴り響き、体温はぐっと上がった気がする。

照れ隠しのポーカーフェイスは、出来ているのかすら危うい。

山田さんはいきなりの行動に戸惑っているようだった。

だが、この行動の意図はちゃんと伝わっているのだろうか?

いや、伝わっているからこそ戸惑っているのだろう。

このまま沈黙が続けば心臓が爆発してしまう……こうなったらやけくそだ、何でもいいから話題を出そう。

「最近、寒くなってきたね、風邪とか引いてない?」

動揺のあまり、何の広がりもない話題を振ってしまった。

数秒前の自分を投げ飛ばしたくなってくる。

「え? あ、えっと……実はちょっと風邪気味で、この時期は体調崩しやすいから気をつけなきゃね」

山田さんは僕の唐突な問いかけにも、微笑みながら返してくれた。

そういえば、玄関で話している時も風邪気味っぽく見えたし、話題選びは正解だったのかもしれない。

数秒前の自分を投げ飛ばすのはやめておいてやろう。

それから僕たちは、風邪の話題を皮切りに色々なことを話した。

風邪には生姜がいいとか、いやいやネギも捨て難いとか、そういえば今日の小テストは難しかったとか、そんなたわいもない話をした。

いつの間にか、けたたましく鳴っていた鼓動は落ち着きを取り戻し、スローモーションで進む穏やかな時間を楽しむことができていた。

このまま家につかなければいいのに……そんな使い古された少女漫画の定型区が頭に浮かんでくるほど、ゆっくりと時間が過ぎていった。

気が付くと、もう三番目の信号が目の前に来ていた。

この交差点を右に曲がれば、すぐにバス停が見える。

幸せな白昼夢を見れる時間が残り僅かだと実感すると、少し寂しくなってきた。

この短いようで長かった帰り道が僕たちの距離を少しでも縮めてくれたことを祈ろう。

ついに、信号の手前を右に曲がり、バス停が視界に入った。

「そろそろバス停だけと、山田さんの家ってどの辺り?」

僕は寂しさが顔に出ないよう、笑顔を作った。

「バス停を過ぎてからちょっと行ったところを右に曲がったら見えるよ」

山田さんはバス停の先を指で差してそう言った。

「そっか、じゃあもうちょっとで着くね」

名残惜しさを感じつつも、歩みを進め、バス停を通り過ぎた。

ふと、山田さんを見ると、さっきまでの可愛らしい笑顔が無くなっていた。

山田さんも寂しさを感じてくれているのだろうか……そう思ってしまうのは、僕の都合の良い勘違いのせいだろう。

だけど、万が一にでもそう思ってくれていたら良いな、と考えてしまう。

しかし、たった一度、肩を並べて帰っただけだ、そんな風に思ってくれてはいないだろう。

これからこんな機会はめったに無いのだ、明日からはもう少し積極的になっても良いのかもしれない。

どうせなら連絡先でも聞いておこう、そうすればきっかけを作りやすくなる。

善は急げだ、言い出しにくくなるまえに聞いてしまおう。

「山田さん、良かったら連絡先を――」

そう言いかけた瞬間、明らかにスピード違反の車が僕の横を通り過ぎたと同時に、左半身が一気に熱を失った。

簡単に言うと、車に水を掛けられた。

見事に太ももの辺りから肋の上辺りまでがびしょびしょになった……。

「だ、大丈夫!?」

山田さんはあたふたしながらそう言うが、見ての通り大丈夫ではない。

「ははは……これはやられちゃった、ついてないね」

ここまで見事にやられてしまったら、もう笑うしかない。

神様は人の恋路を邪魔するのがよっぽど好きなようだ。

「どどど、どうしよう……佐藤君タオルとか持ってない!?」

しかし、いきなりのことでパニックになる山田さんは可愛かった。

暫くパニック状態の山田さんを眺めていても良かったが、さすがにそれは可哀想だ。

「タオルは持ってないかな……まあ、帰ってすぐ洗濯するよ」

「でも、このままじゃ風邪引いちゃうかも……」

ここまで心配してくれると少し嬉しくなる。

「ええと……どうしよう……あ、そうだ! すぐ近くだし家でタオル貸すよ!」

――その唐突なお誘いは、本日二度目の願っても無いものだった。



「タオル取ってくるからちょっと待っててね」

山田さんはそう言って、リビングの方へ急ぎ気味に歩いて行った。

玄関で靴を履いたまま一人ぽつんと立つ僕の内心は、正直お祭り騒ぎだった。

たとえ玄関までだとしても、家にあげてもらえるほど距離が縮まっていたのなら万々歳だ。

そわそわしながら待っていると、二分も経たないうちにタオルを持った山田さんが戻ってきた。

「はいこれ、お客さん用だから遠慮しないで使って」

「ありがとう、遠慮なく使わせてもらうよ」

僕は山田さんの手から無地のタオルを受け取って、左半身に残る水分を拭き取った。

タオルで服を拭き終ったら帰らなくてはならないことに気づき、少しゆっくり拭いてしまった。

「タオルは明日にでも洗って返すよ、帰りにまた濡らされるかもしれないし」

粘ったはいいものの、一緒にいられる時間はあまり延びなかった。

「うん、わかった。今日はありがとね」

「こちらこそ、じゃあまた明日」

本日二度目の別れの言葉を交わすと、山田さんは何故だか少し俯いたようだった。

僕としては名残惜しさこそあったが、タオルのおかげで明日のきっかけ作りができたと思うと悪い気分ではなかった。

僕はタオルを鞄に掛けて後ろを向き、ドアノブを掴んだ。

ドアノブを捻り、一人の帰り道に続く扉を開けようとしたその時に――

「――待って、佐藤君に言わなきゃって思ってたことがあって……いい、かな……?」

僕の背中に向けて放たれた呼び止めの言葉は、僅かに震えていた。

僕はドアノブを掴んでいた手を離し、振り返ると山田さんは今日一番に真っ赤な顔をしていた。

「……大丈夫?」

あまりにも真っ赤だったから、つい聞いてしまった。

「だ、大丈夫! ちゃんと……ちゃんと言えるから……!」

僕の目を見て、自分に言い聞かすように言った言葉はやっぱり震えているようで、少し様子がおかしかった。

よく見ると、手先も震えている。

視線は泳ぎ、まるで極度の緊張状態だ。

そして、山田さんは大きく深呼吸してから、意を決したように口を開いた。

「実は……ずっと前から――」

「――待って」

僕は山田さんの言葉を無理やり遮った。

手早く靴を脱ぎ、山田さんに一歩近づく。

山田さんと僕の距離は、肩を並べて歩いていた時より近かった。

「えっ、なっ」

「動かないで」

困惑する山田さんを一言で止めて、動かないよう左手で肩を掴む。

山田さんはやっぱり真っ赤な顔をしていて、掴んだ肩は熱を持っているように暖かかった。

徐に僕の左腕を掴んだ小さな手は、小刻みに震えている。

僕が右手をゆっくりと顔に近づけると、山田さんはキュと目を閉じて、身構えていた。

そして、右手を――おでこに当てた。

「やっぱり……すごい熱じゃないか!」

「……へ?」

さっきまでの様子から鑑みるに、もしかしたら風邪を悪化させているのだと思って熱を測ってみれば……予想通り、おでこは火傷するほどの熱さだった。

手先の震えや目の泳ぎ方からみるに、相当悪化しているとみていいだろう。

玄関で話していた時も、帰り道で話していた時も風邪気味だと言っていたし……大丈夫だろうか。

僕はおでこに触れていた右手と肩を掴んでいた左手を離し、半歩下がった。

「頭は痛くない? 咳とか鼻水は……あっ、風邪薬はある? 無かったら買ってこようか?」

だんだん心配になって来て、矢継ぎ早に問いかけてしまった。

山田さんは暫くぼーっとしていたが、すぐに我を取り戻して答えてくれた。

「えっと、頭は痛くないし、咳も鼻水も大丈夫……風邪薬もあるから心配しなくていいよ」

複雑な表情でそう言った山田さんはさっきまでと違い、なんだか落ち着いていた。

僕の心配は杞憂だったのだろうか。

「そっか……でも、今日は一応、暖かくして早めに寝た方がいいよ」

僕がそう言うと、複雑な表情は消えて柔らかな笑顔で言葉を返した。

「うん、ありがとう、今日は早めに寝ることにする」

まだ心配は残るが、これで取り敢えず一安心だ。

……そういえば、さっき山田さんの言葉を遮ってしまったことを思い出した。

遮ってしまった手前、もう一度聞くのは申し訳ないが、少し気になるし今のうちに聞いておこう。

「そういえば、さっき言いかけてたことって何?」

素直にそう聞くと、山田さんは申し訳なさそうな表情を作った。

「それは……今は言えそうにないから、また明日、放課後に言ってもいいかな……?」

そんな申し訳なさそうに言われてしまったら頷くしかない。

「わかった、また明日聞くことにするよ」

気になるところではあるが明日、確実に会える口実ができたと思えば好都合だろう。

何だか明日が待ち遠しくなって来た。

「……それじゃあ、また明日」

「うん、また明日」

本日三度目になる別れの言葉を交わして、僕は後ろを向き、靴を履いてから再びドアノブを掴んで、ゆっくりと開けた。

二度目の呼び止めはなく、そのまま外に出ると扉は静かに閉まった。

何時間にも感じた、山田さんとの時間が静かに終わりを告げた。

勿論、名残惜しさはあるが、今はそれよりも充実感の方が上回っていた。

バス停への歩みを進めるたびに、明日への期待が高まっていくのが分かる。

今までちゃんと話もしたこともなかったのに明日、放課後に会う約束までしてしまったのだ、心踊らない訳が無い。

鬱陶しく感じていた雨音も、祝福のファンファーレに聞こえて来るほどだ。

今朝、あんなにも億劫な気持ちで登校していたのが嘘のようだ……。

それにしても、今日は密度の高い一日だった。

親友に背中を押され、好きな人と相合傘をし、そのまま家にまで行った。

さらには明日会う約束まで……。

これも全て、相合傘をするきっかけを作ってくれた雨のおかげと言えるだろう。

僕の雨に対する好感度は今朝と打って変わって鰻登りだ。

僕が心の中で雨への感謝の念を唱えていると、ふと気になることを思い出した。

そういえば、山田さんの言いたかったこととは何だったのだろうか。

実は……ずっと前から――、その続きはもしかしたら……いや、そんな都合の良い話は無いだろうな。

でも、もしこの続きが僕の想像するものと同じであったのなら、こちらからも同じ言葉を返さなくてはならないだろう。

そう心に決めて、バス停に着いたと同時に傘を閉じた。

――そうだ、明日はもっと大きな傘を持っていこう。

だって――きっと明日も雨が振るのだから。

ありがとうございました。

少しでも甘味を実感していだたけていれば幸いです。

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