月夜の鷹
「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の
朧月夜に如しくものぞなき」
女は歌い、歩く男の袖を引いた。
「そこの兄さん、わっちを買っておくんなし」
「夜鷹か。廓落ちだな」
月は雲に隠れその男に女の姿はよく見えない。
風に擦れる布の音が、女が剥き出しの肌に薄い着物を羽織るだけであることを教えていた。
「女郎にもなりきれず、布一枚で春を売るにまで落ちた女が、気位の高いものだ」
「落ちたんじゃありんせん」
女は男に後ろから腕を絡ませた。
「廓の狭い鳥籠じゃ、ちと狭すぎたのサ」
「それに」
するりと男の羽織に手を滑り込ませる。
「脛に傷を負ったぬしに言われるとは面白うない」
女は冷たい指で男の胸をなぞった。
「あんた、人を斬ったろう」
「命知らずな女め。雉も鳴かずば討たれまいに」
男は女の手を払い、刀の柄に指を掛けた。
「わっちは夜鷹じゃ。アッアッと鳴かねば生きてはいけぬ」
女は恐れることもなく、柄に乗せた男の手に自分の手を重ねた。
「伊達にここで抱かれちゃいない。ここに来る男はみんなそう。拭い切れぬ嫌悪を快楽でごまかし、より深い悔恨に沈んでいく。ぬしもその口じゃろう」
男は女の問いには答えず「いくらだ」とだけ聞いた。
「百文、と言いたいところじゃが、六文でいい」
「もう長くないのか」
男は驚いた顔をした。
「さぁてね。そねえな気分でありんすよ」
「よかろう、買ってやる」
「ありがとうござんす」
雲が途切れた。男は月明かりに照らされた女の顔をはっきりと見た。男は少し動揺した表情を浮かべた。
「お前、生まれはどこだ」
「昔のことなど忘れてしまいんした」
「雪を見たことはあるか」
「あったかねえ」
「未練はないのか」
「この世は苦界サ。売り飛ばされた娘の末路なんざこんなもの」
雲は再び月を覆った。男は闇に溶けた女をそっと抱きしめた
「ただ一つ心残りがあったとするならば」
女はポツリと呟いた。
「もう一度弟に会いたかった」
「わっちの身一つで飢えた弟を救うことが出来たのか、それが知りたかった」
男は女に自分の羽織をかけ、その手に六文銭を握らせた。
「気が失せた。帰らせてもらう」
「ふふ、抱かぬのか」
「人を斬らねば生き延びることさえ出来ない。救わた弟の行く末などそんなもの」
「冥土でまた会おう、姉さん」
月が欠けまた満ちる頃、ある人斬りの首が河原に晒された。風に舞う鷹の羽が、その虚ろに開いた瞼をそっと閉じた。