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バス停にて雨宿り

 かなり甘めで、ご都合主義的な展開が鼻につくかもしれません。登場人物が二人しかいないうえ、バス停の中という限られた空間のため、似たような表現がしつこく出ているような気がします。

 後半の展開が個人的にあまり気に入らないのですが、残念ながらこれが限界でした。もしできたら、何かご意見などをいただけたら幸いです。

 それでは、よろしくお願いします。

バス停にて雨宿り



「わーっ。雨がどんどん強くなってきてる~。どうしよ、どうしよ~!」

 路面の水たまりをばしゃばしゃと走りながら、少女が今にも泣きそうな声をあげる。屋根になるようなものが何もない、田舎の開けた道。鉛色に染まった空から、膨大な雨の滴が無慈悲に降り落ちていた。

「あ~ん、もう。家を出る前に、ちゃんと天気予報見ておけばよかったぁー!」

 後悔先に立たずという。少女の泣き言は、むなしく響くばかりだ。せっかくの休みだからと街まで遠出した結果がこれである。雨具なんて用意してきていないから、せっかくの買い物も水を差された格好だ。せめてもの傘代わりにしている買い物袋は、その中も雨でぐっしょりと濡れていた。

 最初は雨足が弱く、気になるほどでもなかったのだが、数分も経たないうちにあっさりと本降りになってしまった。駅から家までの帰り道は何もなく、雨宿りをしようにも雨をしのげる場所すらない有様だった。

 少女は懸命に走り続けた。何か明確な目的があってのことではない。傘が無い状態で雨に降られたら、自然に足が走り出すのが人間である。少女が走っているのは、その習性に従っているだけのことだ。誰だって、のそのそと歩きながらひたすら雨に打たれたくはないだろう。

「ぜえっ、ぜえっ。もうやだ~、つかれたよぉ。でも濡れるのイヤだし、どうしたらいいのっ!?」

 最終的には怒り口調になって、少女が天に唾する。だが分厚い雲に覆われた空は、そんな少女を嘲笑うかのように、さらに雨の量を増やした。

「ひゃあ~っ!? ごめんなさい、ごめんなさい! 謝ります! 謝りますからもうこれ以上は降らないでくださいー!」

 耳にうるさい雨音に脅えたかのように、少女は哀れにも助けを乞うた。しかし、すでに機嫌を損ねてしまった天のつむじは、そう簡単に元通りにはならない。泥混じりの水たまりから跳ねた飛沫が、少女の足や太ももを汚す。靴はもう中まで水が染みこんでいて、踏みしめるたびに、じゅくじゅくと嫌な音がしていた。

 少女の家には、まだそれなりの距離がある。この田んぼのあぜ道のような区画を抜けてしまえば、ちょっとした住宅地に入るので、そこなら十分に雨をやり過ごすことができるだろう。  

「もうムリ~。走って疲れたし、何より雨で体が濡れちゃって気持ちが悪い。どこかでひと休みがしたいよ」

 それ以前に、少女の気持ちが問題だった。心が折れかけているというより、すでに折れてしまっている。雨濡れでわからないが、もしかしたら泣いているのかもしれなかった。

「……あれ? 確かあの先に、バス停がなかったっけ?」

 雨でべったりとした長い髪を振りほどいた際、左手に見えてきた山の景色に、少女はふと思い出していた。子供の頃、親に連れられて何度か行ったことがあるバス停。記憶はあやふやだが、山の木々が多く連なり、その停留所には屋根があったはず。

 少女の目に光が戻った。少女は生き生きとした顔で、あぜ道のさらに細い道に方向転換をすると、そのまま山に向かって全速力で駆けだした。

「雨宿り、雨宿り……!」

 必死の形相で走る少女の頭には、『雨宿り』の一言しか存在していない。頭の中を、無数の『雨宿り』がぐるぐると駆けめぐっていた。

 ろくに舗装が行き届いていない道は、足元がぬかるんでいて、途中何度も足を滑らせかけた。泥の汚れも半端じゃなくなっていたが、それに構っている暇も余裕もない。今の少女にできることは、屋根のある場所をひたすらに目指すだけだった。

「……あった! わーい、やっぱりあった~! よかったぁ」

 その甲斐あってか、前方に小さなバス停が見えてきた。記憶の中のものより古く、くたびれているようだったが、ちゃんと屋根もある。山道に入ったことで、木々の枝葉が雨を多少は遮ってくれていたが、もうこれ以上濡れるのはご免だった。少女はラストスパートをかけて、一目散にバス停を駆けこむのだった。

「着いたー! あーっ、もう疲れたあ。もう走れない~」

 ぜえはあと息を切らせながら、少女は大きな声を出した。ぼろくなった椅子の上に手荷物を乗せると、そのまま両膝に手をついて、弾む呼吸を落ち着けるべく何度も深呼吸をした。

 雨から逃れたことで、その雨足の強さを再確認できた。屋根を打つ雨音は強く、ひっきりなしに続いている。路面で跳ねる雨の滴も間断なく降り注ぎ、すぐには収まりそうもなかった。

「う~……せっかくお買い物したのに、全滅だぁ。ハンカチ、も濡れてるし。これじゃ体も拭けないよ」

 雨宿りができても、身の回りの状況が最悪なことに変わりはない。少女は買い物袋の中身をのぞきこんでは落胆し、水浸しのバッグを眺めては泣きそうな声を出した。

「とりあえず、上は脱いじゃおう。このままでいても、重くて冷たいだけだし」

 少女は濡れて脱ぎにくくなった薄手の上着を脱ぐと、シャツだけの姿になった。当然ながら、そちらもばっちり濡れてしまっている。雨でぴったりと張りついた白地のシャツが、少女の意外に豊かなボディラインをくっきりと浮かび上がらせている。下着も透けてしまっているが、どうせ誰にも見られる心配はないからと、少女は大胆になっていた。

「思いきって、これも脱いじゃおうかな。……いやでも、さすがにそれはマズいよね。いくらここがさびれてるとは言っても、いつ誰が来るかわからないんだし」

 シャツを胸のあたりまでたくし上げたところで、少女はそのままの格好で思い直した。コバルトブルーのブラジャーの下半分が見えてしまっているが、固まることしばし。

「でも、これだけ濡れてると、水が絞れそうな気がするなあ」

 ふとした好奇心に駆られると、少女はシャツの裾を両手で持って、ぎゅっと絞ってみた。するとまるで雑巾のように、見事に水を絞り出すことができた。これには少女もおかしくなって、楽しそうに笑いだした。

「わ~、すごーい! いっぱい降られたもんねぇ。だったらあれかな? スカートも同じように絞れたりして……」

 シャツを絞りきった少女は、膝上10センチほどの空色のスカートをたくし上げると、そのまま同じように両手で絞ろうとした。

 その時である。少女がずっと背を向けていた方から、ガタッという物音が聞こえた。びっくりした少女は、そのまま後ろを振り返ってしまった。スカートの中にあった、コバルトブルーの下着は丸見えである。

「えっ……!?」

「……あ」

 少女の声に重なったのは、太い男の声。バス停のイスに座ったまま、唖然として少女を見上げていたのは、見知らぬ若い男だった。彼はむなしく口を開閉させながら、あられもない少女の姿を凝視していた。

 ぼんっ、という音が聞こえたかどうか。ようやく自分以外に誰か、しかも男がいたことに気がついた少女は、瞬時に耳まで真っ赤にして、反対側のイスに小さく縮こまってしまった。そのまま青年の方を見ようとはせず、できるだけ体を背けるのだった。

(なんで? なんでなんでなんでーッ!? どうしてこんなところに人が、しかも若い男の人がいるの? ありえないよ、そんなの!)

 悲鳴を上げなかったのが不思議なくらい、少女は激しく動揺していた。心の中でわけもわからず叫びまくり、気が動転してしまいそうになるのを、懸命に抑えこもうとする。しかしすぐに、この中に入ってからの出来事が、少女の脳裏を残酷によぎるのだった。

(うあー! わたし、思いっきりお腹見せてた。最近太ってきてたのに、ショック~。足だって少しむくんでるし……最悪だよ)

 いささかピントのずれた後悔に、少女はぶんぶかと頭を振り乱した。雨濡れでしっとりとした長い黒髪から、ばちばちと水飛沫が飛ぶ。頭を抱えながら、少女はなおも自己嫌悪に陥った。

(雨に降られるわ、買い物をダメにするわ、とうていお見せできないものを見せてしまうわで、もう本当に最悪! 今日は厄日だぁ)

 ひとしきり後悔すると、少女の中にわずかだが冷静さが戻ってきた。両手で顔の辺りを多いながら、気づかれないように青年を盗み見る。見ると彼は、気まずそうではあったが、自分のことを見てはいない。退屈そうに雨の景色を見やっているようだった。

(……この人、誰なんだろう? 見た目の雰囲気からして、絶対に地元民じゃないよね。なんか洗練されてる感じがするし、ひょっとして都会から来たのかなぁ?)

 疑心から一転、青年に対して興味を覚える少女だった。そのままさりげなさを装いながら、彼のことを調べてみる。

(見た感じ、わたしより少しお兄さんなのかな? 二十歳……くらい? うん、きっとそうだよ。クラスの男子は、少なくともこんなに落ち着ついてないもん)

 何かと騒がしく、やかましいクラスメートの男子を思い描くと、少女はうんうんと頷いた。服装はカジュアルだが、着こなしがうまいというか、全く無理をしていないという、そういった余裕が随所に見受けられた。

(それと、ちょっと格好いいかも。明るすぎない髪と、シャープな顔立ちがすごくよく似合ってるなあ。あと何気にスタイルもいい。もしかしたら、わたしよりお尻とか小さいかも……)

 少女は自身の体型と青年とを照らし合わせると、羨望の溜息をついた。とはいうものの、少女のスタイルは決して悪くはない。出るところは出ているし、引っこむべきところはちゃんと引っこんでいる。隣の家の芝生は青いというのと同じで、思春期特有の病気に翻弄されているだけに過ぎないのだが。

「……ひっ!?」

 少女が変な声を出したのは、青年と目が合ってしまったからだった。喉が引きつったような声に、青年が困惑の目を向ける。少女はどうしたらいいかわからず、あわあわと顔を赤くするばかりだった。

(……どうしよー! もしかして、さっきからずっと観察してたのバレちゃったのかな!? 変なこと要求されたりしたらどうしよう? 走って逃げようにも、もう体力が……)

 短い時間の間に、思考がとめどなく荒れ狂う。そうこうしている間にも、青年はバッグの中を何やらごそごそと探している。あの中からカメラが出てきて、「今までの無礼を許してほしければ、これから恥ずかしいポーズをとってもらうぞうえへへへ」と言われたらどうしようと、本気で脅える少女だった。

 が、しかし。少女の妄想が現実になることはなかった。当然といえば当然だが、様々なハプニングが重なった少女に、正常な思考を働かせようという方が難しい。それに加えて、彼女は多分に天然の素養があったのだから。

「これ、よかったら使う?」

「……はへ?」

 遠慮がちに青年が差し出してきたのは、大きめのタオルだった。それと青年の顔を見比べながら戸惑う少女に対し、青年はさらに言葉を続けた。

「いや、濡れてるでしょ? 早く拭いた方がいいよ。さっき俺が使ったばっかで申しわけないんだけど、何もしないでいるよりはマシでしょ」

 そう言って青年はイスから立ち上がると、あまり少女を見ないようにしながら、タオルを空いた席に置いてくれた。少女は少し手を伸ばしてそれを受け取ると、元の場所に戻った青年にお礼を言った。

「ありがとう……ございます」

「別にいいよ。こういう時はお互い様だから」

 少女は清潔そうなタオルを手に取ると、そのままばふっと顔を埋めた。ほんの少しだけ湿っていたが、余計な水分を大量に吸い取ってくれる感覚がありがたかった。

(いい人だ! いい人だよ~! 変な風に疑ってゴメンなさい、見知らぬお兄さん!)

 生き返ったような気分で、少女は顔と言わず、髪や手足、お腹の中までばっちりと拭いて回った。さすがに服を脱ぐわけにはいかなくなったが、それでもだいぶ不快感が消えた。残すところは。

「そうだ。お尻も拭いておかないと……んしょっと」

 思わず口をついて出たことに、少女は気がつかなかった。青年を気にしながら、ごそごそとタオルを持った手をスカートの中に入れる少女には、ひたすら前だけを見続ける青年の顔が、何やら言いたげだったことに気づく由もなかった。

 雨の大合唱は止まない。そればかりか、まだ第一楽章が始まったばかりと言わんばかりに、さらにその勢いを強めるのだった。



 山間の道にひっそりと建つ小さなバス停。トタン板で組まれた粗末な小屋は、今にも崩れ落ちそうだが、おそらく何十年も前からそういう風に思われていたに違いない。だが結果としては今なお健在であるから、見た目に反して頑丈であったということだろう。

 そんなバス停に、二人の男女がぽつんと佇んでいる。六脚並んだイスの端と端に腰掛けた二人は、知り合いでも何でもない。もっと言うなら、三時間に一本しか出ていないバスの利用客でもない。突如として大雨に見舞われたため、心ならずもこのおんぼろなバス停のお世話になっている身だった。

「ふぁ~……。ヒマだなあ」

 やることが何もないので、少女は眠そうに大きなあくびをした。先ほど貸してもらったタオルで体を拭くことができたので、だいぶすっきりとした顔をしている。使ったタオルは綺麗に畳んで隣のイスに置いてあるのだが、このまま返していいものかどうか迷う少女であった。

(どうしよう? やっぱり洗って返すべきだよね。でも、このお兄さんが地元の人じゃなかったら返してあげられなくなっちゃうし。それに……)

 次なるあくびをかみころしながら、少女は遠い場所に座る青年を、横目でちらりと見やった。

(声をかけづらいんだよなぁ。さっきからずっと黙ってるし。あ、もしかしたら雨の景色が好きだったりして。それに見とれてて……)

 少女がそう思った矢先、青年は明らかに苛立たしげな溜息をついた。恨めしそうに雨空を見上げる姿からは、雨が好きだとはとても思えない。

(……まあ、いらいらもするよね。あーあ。わたしもいつになったらお家に帰れるんだろ。宿題もあるし、服が濡れてて気持ち悪いし、早く帰りたいな)

 少女は心の中でぼやきながら、小さく溜息をついた。バッグの中から携帯電話を取りだすと、それをかちかちといじりだす。今や老若男女問わず、必携のアイテムと化した携帯電話だが、少女はいまいちこれを使いこなせていなかった。せいぜいメールのやり取りをするぐらいで、アプリや各種サービスなどには疎く、学校の友人から「宝の持ち腐れだね」と、よく笑われている。

「あ、メールが来てた。メグちゃんからだ、なになに……」

 友人から送られてきたメールを読み、それに対する返信文を打つ。少女はこの作業さえ苦手で、ひとつの文章を打つのさえ一苦労だった。ぽちぽちと一所懸命にボタンを押して、誤変換だらけのメールを作成、それを返信する。

「ふーっ。メールって難しい。けど、こんなにしんどい思いをするぐらいなら、最初から電話で話しちゃった方が楽な気がするなぁ」

 携帯をぱたんと閉じると、少女はしみじみと述懐した。友人からは笑われるが、それが少女の偽らざる本音だ。これまでに誰からも賛同を受けたことがないから、ごく少数の意見なのは間違いない。

 メールをチェックし終わると、本格的に暇になってしまった。屋根の外では、今だ激しい雨が降り続いている。ここで雨宿りを始めてからというもの、人はもちろん、車の一台すら通っていない。顔見知りが通ったら、それに便乗できるかもと淡い期待を抱いているのだが、今のところその機会にすら預かれていないというのが実情だった。

「ヒマだなあ。どうしよう、思いきって寝ちゃおうかな?」

 半ば本気で少女がそう思った時、端っこに座っていた青年は、何かに夢中になっているようだった。それに気がついた少女は、体ごと青年の方に向けた。こちらを全く気にしていないらしく、青年は無反応だった。

「……何してるのかな?」

 それまでの眠そうな表情はどこへやら、興味津々に瞳を輝かせた少女は、食い入るように青年の挙動を見つめていた。どうやら彼は、携帯に夢中になっているようだった。手に持っていたそれを見て、少女の目が見開かれる。

「わあ……スマホだ。いいなあ。わたしのは『ぱかぱか』だもん」

 スマホといえば、急速に広がっている次世代型の携帯電話だ。電話としての機能より、他のサービスにより重点が置かれていて、それ一台あれば様々な利用ができるという優れものだ。

「わたしもほしいなあ。けど、お母さんがダメだって言うし……」

 クラスメートのほとんどがスマホに乗り換えている昨今、少女は母親の真っ向からの反対を受けて、旧式で頑張ることを余儀なくされていた。昔気質な母親は、携帯を持つこと自体にいい顔をしなかったのだから、これ以上の譲歩は望むべくもないだろう。

「何やってるんだろ?」

 気になって気になって仕方がない少女は、こっそりとひとつ隣の席に座り直した。そこでまたちらりと様子を見る。詳しいことはわからない。それならばと、もうひとつ隣に移動する。様子を見る。あとはそれの繰り返しであった。

 気がつくと、少女は青年のすぐ隣にまで来ていた。だが、お互いが自分のしていることに夢中になっているため、その事実に思い至らない。青年はスマホの画面を睨みながら、忙しなく指をスライドさせ、少女はそれを邪魔しないように上からのぞきこんでいた。

「……あーっ! くそっ。あと少しだったのに」

 青年の口から悔しそうな呟きが漏れた。見ると、スマホの画面にスコアが表示されていた。何かのゲームをプレイしていたのだろう。ゲームをしている最中は、他のことに全く目が向かない者がいるが、青年もその類の人間なのだろう。

 ということはつまり、ゲームから解放されてしまえば、普通に戻るということだ。当然のことながら、視界も注意力も元の性能を取り戻す。肩口にまで近づいた少女に気づくのに、そうたいした時間はかからなかった。

「うわあッ!? な、なんだよアンタ! いつからそこにいた!?」

「きゃあ! ごご、ごめんなさい! ついさっきです!」

 仰天して体を仰け反らせる青年と、その驚きっぷりに驚いた少女が律儀に質問に答える様子は、第三者が見たら非常に滑稽であっただろう。青年は、未だ驚愕から立ち直れない顔で文句を言った。

「……何なんだよ、本当に。ここに入ってきた時から思ってたけど、普通じゃないぞ」

「す、すみません。それ、よく言われるんですけど、直しかたがわからなくてどうにも……」

 申し訳なさそうに頭を下げる少女を、青年は胡散臭そうに見やったが、すぐにあることに気がついて目を逸らした。濡れた薄手のシャツがもたらす威力は、尋常ではなかった。

「あ、あの。もしかして、怒らせちゃいましたか? もしそうだったらごめんなさい。この通り、謝りますから!」

「……別に、気にしてないから……って!? わかったもういい! わかったから、もう謝んなくていいよ!」

 すごい勢いで頭を下げ始めた少女を、青年は慌てて止めさせた。顔が紅潮しているのは、少女が頭を下げた途端、大きく開いた胸元から、そのふくよかな胸が丸見えになってしまったからだった。仰天に次ぐ仰天で、青年はもはやたじたじとなっていた。

「はあ。それじゃ、もう怒ってないってことでいいんですね?」

「……最初から怒ってなんかないよ。とりあえず、まずは落ち着いて話そう。な?」

 青年の申し出に、少女は素直に頷いた。どこに座ろうか、きょろきょろと迷ったようだったが、青年のすぐ隣にお尻をすとんと落とした。青年が顔を歪めるのとは対照的に、少女はお日様のような笑顔を浮かべるのだった。

「はい! よかったぁ。わたし、することなくて、ずぅ~っとヒマだったんです」

「ああそう。それはよかったね……」

 無感動に返す青年だったが、少女の笑顔は全然崩れない。初めてのタイプの少女に、青年はかなり面食らっているようだった。相手がそうなっていることなど露知らず、少女はマイペースに自分の好奇心を消化していく。

「さっき、それで何してたんですか? スマホですよね、それ」

 言われて、青年は手に持っていたスマホを見て頷いた。そのまま笑顔で何も言わないので、青年は仕方なく言葉を続けた。

「アプリのゲームをやってたんだよ。君の言う通り、俺もヒマだったからさ」

 画面を開いてみせると、青年はぎょっとした。少女の顔が、これまで以上にまぶしく輝いて見えたからだ。

「うわー! すごい、カワイイですね! これ、どういうゲームなんですか!?」

「簡単なパズルゲームだよ。同じ絵柄を三つ合わせたら消えて、それで点を稼ぐってやつ。コンボを決めれば、より高得点が狙えて……」

 青年はチュートリアルを開いて説明しようとしたが、すぐにそれを思い直した。ゲーム画面に戻すと、スマホを少女に差し出した。

「もしよかったら、やってみる?」

 青年の申し出に、少女は大きく息をのんだ。その分、少女の大きな胸がより大きく見えて、青年は目のやり場に困った。

「いいんですか!? やる、やります、やらせてください!」

「あ、あんまり興奮するなよ。はい、落とさないように気をつけて」

 どこか心配そうな青年をよそに、スマホを握りしめた少女は、沸き上がる興奮を抑えるのに必死だった。ただ、ほとんど使い方がわからないので、青年は軽く操作を説明してやった。

「それでは……いきます!」

 妙な気合いを入れながら、少女は嬉々としてゲームを始めた。青年はそんな少女を呆れたように見やる。だが、ゲームに集中している少女には、それがわからなかった。

 やがてゲームが終わる。スコアの表示がされると、そこには『最高得点の記録更新!』という文字が踊っていた。少女が思わず喝采をあげる。

「やったー! やりましたよ、記録更新ですって!」

「えっ? ウソ!? ……本当だ。俺のスコアより二十万点も高い……?」

 少女からスマホを奪うようにした青年が、愕然とした呟きをもらす。画面上では、ゲームのキャラが記録更新を祝福してくれているのだが、それは青年に向けたものではなかった。青年は少女をひと睨みすると、スマホの画面に集中した。

「次は俺がやる」

「じゃあ、その次にもう一回やらせてください。すごく簡単で、面白いゲームですね、それ!」

 無邪気な少女の声が、青年の反骨心を刺激する。こめかみがひくつくのを感じながら、青年は塗り替えられた記録を塗り替えすべく、ゲームに挑むのだった。


※※※


「……あっ。充電してください、ってなってますよ」

「ええ? 本当だ。しまった、少し熱が入りすぎたな……」

 少女に言われて、青年が痛恨の表情でぼやいた。あれから何度も何度もゲームをプレイして、最終的には百万点近い点を叩き出すまでに至った。どちらが打ち立てた記録なのか、当事者である二人もわからなくなっていたが、もうそんなことはどうでもよくなっていた。

「あー、楽しかったですね! こんなに楽しかったの、初めてかもしれません」

「俺もだよ。ただのアプリゲーだとバカにしてたけど、いざ本気でやってみるとなかなかに面白いもんだな」

 青年がスマホをしまいながら答えると、少女はきょとんとした顔をした。

「違いますよ。お兄さんと一緒に遊んだから楽しかったんですよ」

 少女の純真な瞳に見つめられて、青年は思わずたじろいでしまった。臆面もなく、思ったことを口にした少女に圧倒されたのかもしれない。青年が知る世界では、こんな風に直接的に会話をする者などいなかったのだから。

「あっ、そういえば自己紹介がまだでしたね」

 本当にころころと表情が変わる少女である。両手をぽんと叩いたかと思うと、茶目っ気たっぷりに頭を小突いてみせた。そして、折り目正しく頭を下げると、にっこりと微笑んだ。

「わたしは陽多ひなたっていいます。太陽がいっぱいで陽多。高校二年生です。お兄さんは?」

「さっきから思ってたけど、お兄さんって……」

「あれ? もしかしてわたしより年下だったりしますか?」

 不思議そうに小首を傾げる少女、陽多はとても可愛らしかった。青年は照れたようにそっぽを向くと、頭を掻きながら答えた。

「……俺はとおる。都内の大学に通う二年生だ」

「それじゃ、やっぱりお兄さんですね。透さんでいいですか?」

「もう好きにしてくれ」

「わたしのことは、陽多でいいですからね!」

 にこにこと笑う陽多と、どんな顔をしたらいいかわからない透。二人がそれぞれの思いで見つめ合う中、外では変わらず雨が降り続いていた。



 篠つく豪雨ではないが、気にならない程度の降りでもない。いわゆる本降りというやつで、ざあざあと雨音が鳴り続けている。せっかくの休日だというのに、神様もむごい仕打ちをする。街で恨めしそうに空を見上げる人々の表情には、そんな恨み節がありありと見てとれた。

「へえー。それじゃ、裸一貫男一匹ぶらり紀行の真っ最中っていうことなんですか?」

「……その解釈の仕方はどうかと思うけど、まあそんなところか。金も無いし、独りなのに間違いはないもんな」

 普段は人気がほとんどない、山の斜面に沿うように建っている小さなバス停。風が吹けば倒れてしまいそうな装いだが、その健在ぶりをしぶとく世に示している。その中には二人の男女がいて、雨宿りをしながらもっぱら雑談をして過ごしていた。

「いいなあ、うらやましいなあ。わたしもひとりで旅行とか行きたいなあ。でも、絶対にお母さんは反対するだろうなぁ」

 前半は嬉々として、後半はしょぼんと沈みこんでしまった少女は、陽多という名の女子高生だ。長い黒髪と愛らしい顔立ち、女子高生の平均を超すスタイルを有する彼女は、どことなく清楚可憐な雰囲気を醸し出している。が、口を開くと無邪気で奔放な発言がいくつも飛び出し、それが青年、透を多少なりとも困惑させるのだった。

「お母さん、厳しいんだ?」

「そうなんですよぉ! それにまつわるエピソードを上げていったらキリがないんですけど、とにかく厳しいんです。ううん、あれは厳しいんじゃなくて、締めつけです! わたしをこうやって、ギュ~ッ! って締めつけてるんです!」

 鼻息荒く憤慨してみせると、陽多はたまった鬱憤を晴らすかのように身悶えをした。その際、薄手のシャツに包まれた大きなバストが強調されたため、透はまたもや視線を宙に泳がされてしまった。

「そっか。それは大変だな……」

「やっぱりそう思います!? 透さんもそう思いますよね? もうヒドいんですよ、とにかく!」

 透の生返事に食いついた陽多が、ずいと彼の方に身を乗り出した。その剣幕と、間近に迫った悩ましげな肢体が、透をさらに動揺させた。

 結局のところ、雑談とはいうものの、陽多が一方的に話をして、透はその聞き役に回るというのがほとんどだった。一向にしゃべりが止まらない少女に、透はいくらか辟易した様子だったが、そのおかげで退屈から免れた格好となり、だいぶ打ち解けた雰囲気をみせるようになった。

(まあ何というか、こういうのもアリか。俺の周りには、こういう感じの子はいなかったからな)

 ころころと表情を変えつつも、楽しそうな感じを常に維持する陽多は、透にとって新鮮な存在だった。今も隣で一生懸命に話している少女は、いきいきと輝いて見えた。自分とは違う、そんな風に思った透は、ふと自嘲めいた笑みを口の端に乗せていた。

「……? どうしたんですか、透さん? わたし、何か変なこと言ってました?」

 それに気づいた陽多が、不安そうに眉を寄せながら、あわあわと口ごもる。その仕草がまるで小動物のそれだったので、透の中には愛しさとおかしさが同時に込みあげてきてしまった。

「ぷっ……くふふ。はははははっ!」

 慌てふためく陽多をよそに、透は笑った。腹を抱えながら大きな声で笑ったのは、久しぶりのことだった。それがいつのことだったか、思い出そうとしてもすぐに思い至らない。それぐらい笑いの感情が押し寄せていたのだった。

「え? あの、透……さん?」

 その一方で、陽多は困惑するばかりだった。これまでクールな人だと思っていた透が、まるで人が変わってしまったかのように笑いだしたのだから、無理もない。

「どうしたんですか? もしかして、何か変なものを食べちゃったりしたんですか? この山に生えてるきのこは全部危険だから、食べちゃダメなんですよ?」

「……や、やめて。これ以上……俺を笑い地獄に落とさないでくれ……!」

 泡を食った陽多が素っ頓狂な心配をしたため、透はさらなる笑いの渦に巻きこまれてしまった。こうなってしまうと、ひとり取り残されてしまった陽多は、もはやなす術がなかった。さすがに機嫌が悪くなったのか、陽多は憮然とした面持ちになったが、それすら愛らしく見えてしまう。

「ははは……。悪い悪い。つい笑いが止まらなくなっちゃってさ」

 ようやく落ち着いてきた透は、謝りながら陽多の方を見上げた。そこにはぷうっと頬を膨らませた彼女がいて、どうやら懸命に怒って見せているようだった。

「本当ですよ。もうっ、何もそんなに笑わなくたっていいじゃないですか。いくらわたしがヘンな子だからって……」

「そうだな。君は変わってるな。それもものすごく」

「ひどいッ!? わたし、すっごく気にしてるのに~!」

 自分で言っておいてこれである。陽多は目に涙を浮かべながら、透のことをぽかぽかとたたき始めた。いわゆる『駄々っ子パンチ』だが、透はそれを甘んじて受け入れた。

「……君は、変わってるよ」

 そう言って、透は陽多の艶やかな黒髪の上に手を置いた。しっとりと濡れた感触が手に優しい。急に頭を撫でられた陽多は、それまでの大騒ぎが嘘だったかのように、一瞬にして静まり返ってしまった。

「ひゃっ!? ……あ、あの、透さん?」

「君はいい子だ。それもこの上なく、ね」

 透は心情を吐露するかのように言葉を漏らすと、陽多の頭をそのまま撫で続けた。こうしているだけで、心が安らいでいくようだった。撫でられる側の陽多も、最初は嫌がる素振りを見せたが、今ではぽーっとなって、ほんのりと頬を上気させていた。

「……俺の話を少し聞いてもらっていいかな?」

 撫でる手を止めて、透が囁くように言った。陽多は上目遣いに彼を見やると、こくりと小さく頷いた。素直な反応に透は微笑むと、雨に煙る山の景色に思いを馳せながら、ゆっくりと語り出した。

「俺は都内の大学に通ってるけど、生まれは地方の片田舎なんだ。子供の頃、といっても、小学生に上がる前までだけどね。ちょうどこの辺みたいな場所で育ったんだよ」

 透はそう言うも、詳しいことは憶えていない。親に聞いた話や、当時の写真を見て知っていることが全てだった。豊かな自然に抱かれながら育った幼少期の記憶は、心の奥底にしまいこまれたまま日の目を見ることはない。

「その後は父親の仕事の関係で街に引っ越して、賑やかだけど騒がしい、明るいけど暗い都会で成長していった」

 透の冷めた言い方に、陽多は軽く困惑していた。彼女にしてみれば、都会は憧れの場所である。そこで成長して、今も暮らしている透のことをうらやましいと思っていたのだから、無理もない話だ。

「もちろん、それがつまらなかったわけじゃない。友達はいたし、遊ぶ場所がたくさんあって、楽しかったんだ。高校を卒業するまではさ、本当に楽しかったんだよ……」

 そこまで語ると、透の顔に暗い影が落ちた。心配そうに見上げてくる陽多に苦笑すると、透は言葉を選びながら話を続けた。

「親元を離れて、大学に通いながら都会でひとりぼっちになった時に思ったんだ。……俺って、何のために生きてるのかな? って」

 はた目にも明らかな嘲笑を浮かべながら、透は自分自身を鼻で笑った。

「義務教育が終わって、実家から晴れて飛び出したところで、ようやくそれに思い至ったってわけさ。笑っちゃうよな。これからはひとりで考えて、将来やら何やらを決めていかなくちゃいけないっていうのに、何一つとしてそういうビジョンがなかったんだから」

 透がこんな事を人に話すのは、初めてのことだった。両親にはもちろん、親しい友人にも相談したことがない。それなのに、たまたま訪れた場所で、たまたま出会った年下の女の子に悩みを打ち明けるなんてどうかしている。そうした思いがあったから、透の心はどんどん卑屈になっているようだった。

「今行ってる大学だって、何か目的があって進学したわけじゃないんだ。用意されたレールの上をなぞっただけ。そこに俺は在るけど、過ぎていく景色は空虚なだけで、何の彩りもない。そのことに、ふと気がついちゃってさ……」

 そこで透は、陽多に顔を向けた。自分は笑っているに違いない。だがそれが、今にも霞んで消えてしまいそうなものだということはわかっていた。泣きたいとは違う、何かにすがりつきたい一心が、透を突き動かしていた。

「その結果、俺が取った行動は自己啓発という名の現実逃避だよ。大学をサボって、都会から遠く離れた場所にわざわざやって来た。見つからない答えを探しにね。……それが無駄な行為だというのをわかったうえで」

 当てのないひとり旅を始めてから、もうそろそろ一週間が経とうとしている。単位のことを考えると、これ以上休むことはできないだろう。それが現実だ。しかし透は、まだ帰ろうという気分にさえなれないでいた。

「……このまま、人生ドロップアップするのも一興かな、なんて思ったりもするんだ。どうせ俺ひとりいなくなったところで、この広い世界に何の影響もない。だったら別に、このまま消えてしまっても……」

 自虐的に笑う透だったが、見つめてくる陽多の視線に気がついて、それを歪に固まらせた。透の目が、陽多の顔から離れない。陽多は泣いていた。大きく開いた瞳から、大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら、それでも真摯に透を見つめていたのだ。そしてその顔は、心の底から真剣に怒っているようだった。

「陽多、ちゃん? 何で君が泣いて……」

「知ったような口を利かないでくださいッ!」

 ぴしゃりと言い放った陽多の迫力に、透は思わず体をすくませる。陽多は怒っていた。泣きながら、透のことを想いながら怒っていた。唖然として何も言えないでいる透に、陽多は思いの丈をぶちまけていった。

「何でそんなに卑屈になってるんですか!? まだまだこれからじゃないですか! 周りいる人達だって、世界中の人達だって、自分の今後なんてまるでわかりませんよ! それなのに、どうして透さんは諦めようとするんですか!」

 陽多の純粋すぎる思いが、透の胸に深く突き刺さる。無垢なる魂の叫びがこうまで響くものだとは、知らなかった。陽多は透の胸ぐらをつかむと、ぐいぐいと引っ張りながら続けた。

「わたしだってそうです! 将来なんてわからない! でも、それでいいじゃないですか! わたしは学校でみんなと勉強したり遊んだりするのが楽しい! たまのお休みに、街で遊ぶのが楽しい! お母さんには怒られてばかりだけど、そんな毎日が楽しいんです! それだけじゃダメなんですか!?」

 陽多の泣き声は、後半はもう号泣に変わっていた。泣きすぎでえづいてしまい、言葉にならなくなってしまった陽多の叫びに、透の心は強く揺り動かされた。それまで頑なだった自分の考えが、雨に溶かされるかのように流れ落ちていく。それを感じた時、透の目からひと筋の涙が頬を伝った。

 陽多の頭が透の胸に押しつけられる。そこに伝わった熱い感触が、透の心を溶かしつくした。もはや言い訳も何もない。波立つ感情に逆らうことなく、透は陽多の細い体を力いっぱい抱きしめた。

「……ごめん。でも、ありがとう。こんな俺のために泣いて、怒ってくれて……」

 こんなにも他人を愛おしいと思ったことはない。透は感情の赴くままに、陽多を抱きしめた。自分の腕の中にいるのが、今日出会ったばかりの少女であっても、そんなことは全く気にならなかった。

 降り続く雨が、二人の泣き声を小さなバス停の中に収めてくれていた。



 胸に抱く小さな温もりは、かけがえのないもののように思えた。しかしそれは永遠のものでないことはわかっている。たとえ手放したくないと思っても、自分は異邦人なのだ。断腸の思いでその体をそっと離す。でも大丈夫、その温もりは失われなかった。

「……ちょっと、泣きすぎちゃいました。恥ずかしいですね」

 そう言って、涙でぐずぐずの顔を笑顔にする陽多。指で左右の目を拭い、鼻をちーんと吸い上げる。可愛い子なのにこういう仕草は残念だが、それも含めたのが陽多の魅力なのだろう。

「俺なんて、男のくせにこれだ。こんな事、知ってる連中には絶対バラせないな」

 ばつが悪そうに言う透だったが、その実、気分はそれほど悪くなかった。むしろもやもやが吹っ切れたので、かえって気分が良くなったほどだ。完全な解決というわけにはいかないが、大事な一歩を歩めたのは間違いない。そのことをまずは感謝すべきだろう。

「君のおかげだよ、陽多ちゃん。これでどうにか、都会に帰れそうだ。またへこたれるかもしれないけどね」

「その時は、またわたしが怒ってあげますよ。こう見えてわたし、強い子なんですよ」

 むんっ、と可愛らしく力こぶを作るふりをする陽多。もちろん、華奢な体からはそんな力強さは感じられない。透は笑って、陽多の頭を撫でた。

「……そうだな。その時はまたよろしく頼むよ」

「まかせてください! わたしは嘘をつかないことで有名なんですから」

 陽多の自信満々の笑みに、透はこのうえない安堵感を覚えていた。冷静に考えると、年下の女の子に慰められ、たきつけられるというのは、かなり格好悪い気がする。しかしそれは、何も恥じるべきものではない。人生にいろいろあるように、人との関わりや繋がりは、その数だけ種類があるのだろうから。

「雨が止んできたかな……?」

 バス停の外に目をやった透が言う。確かに、屋根を打つ雨音はかなり緩くなっていた。路面を叩く雨の滴もまばらだ。何より、空の向こうが明るくなってきている。陽多が振り返った頃には、それまで分厚い雲に覆われていた太陽が、うっすらとその姿を現しつつあった。

「本当だ! よかったぁ、これでようやく家に帰れる」

「そうだな。俺も身動きが取れる……って、ちょっと待てよ?」

 陽多が万歳するのを受けて、透もほっと息をつきかけたが、すぐにある事実に思い当たる。嫌な予感に襲われながらスマホで時刻を確認する透。陽多が不思議そうにそれを見ていると、青年はがっくりと肩を落としながら溜息をついた。

「どうしたんですか?」

「……帰りの電車に間に合わなくなった。まいったな」

 まるで絶望の淵に立たされたように透が言うので、陽多はひどく心配そうな顔をした。がすぐに明るい声を出した。

「だったら、ホテルで一泊して、明日帰ればいいんじゃないですか? 何も今日じゃなくても……」

「手持ちはもう旅費しか残ってないんだ。一泊したら帰れなくなる。かといって、今からじゃ絶対に間に合わない」

「そ、そうなん、ですか……」

 透の重苦しい雰囲気に、さすがの陽多もそれ以上何も言えなかった。お金を出そうにも、買い物をしてきたばかりの陽多に余裕はなかった。どうするべきか、二人が重い沈黙に沈みかけた時だった。

「……そうだ! こうすれば万事解決しますよ、透さん!」

 唐突に輝きを取り戻した陽多が、そのままの勢いで透の手を取る。思案にくれていた透の反応は鈍かったが、そんなことには構わず、陽多はとんでもないことを無邪気に提案してきた。

「今夜はわたしの家に泊まればいいんですよ! お金もかからないし、明日はお母さんに駅まで車で送ってもらえばいいし、わたしも透さんと一緒にいられるし、一石三鳥じゃないですか!」

「ええっ!? さ、さすがにそれは、ちょっとマズいんじゃ……」

「大丈夫です。これから家に電話しますから、ちょっと待っててくださいね。……あ、もしもしお母さん? 今仕事中? ごめんね、実は……」

 透の困惑を知ってか知らずか、陽多はさっさと母親に電話をかけてしまう。それを止めようとした透の手は、むなしく宙を泳ぐばかりだった。まるで針のむしろに座らされているような感覚に囚われることしばし、陽多の電話は終わったようだった。

 くるりと振り返った陽多に、すっかり顔を出した太陽が重なった。まぶしさのあまり、顔に手をかざした透が見たもの。それは太陽のように明るくて、ぽかぽかと暖かな陽多の笑顔だった。

「透さん、喜んで! お母さんからオーケーいただきましたぁ! そうと決まれば、早速我が家にゴー! ですよ」

「……は? あ、ああ、そうなの? えっ、本当に?」

 陽多に見とれていた透は反射的に頷いたものの、にわかに信じがたい展開の連続についていけなかった。自分の荷物をまとめに、ぱたぱたと遠ざかった少女の後ろ姿を、ぽかんと眺めやるばかりだった。

「ほらっ、何をぐずぐずしてるんですか? 早く行きましょうよ!」

 荷物を持って戻って来るなり、陽多はぐいぐいと透の腕を引っ張った。もはや抵抗するだけ無駄のようで、透はやや釈然としない面持ちながらも、イスから立ち上がった。

「でも、まだ雨は降ってるみたいだぞ。さっきまでと比べれば、全然弱くなってはいるけどさ」

「へーきですって。この程度の雨ならへっちゃらです。むしろこれぐらいの方が気持ちいいんですよ」

「そうなの?」

「そうです。わたしが言うんだから、間違いありません」

 途端に、透の顔は疑わしいものになった。そんなこととは露知らず、陽多は意気揚々と胸を張る始末だ。間近で見るそれは、えらく迫力があるのだった。

「だから行きますよ! わたしの家、ここから歩いて三十分ほどだから、すぐですよ」

「三十分の徒歩行がすぐ……。やっぱりここは田舎だなあ」

 自分と陽多の感覚の違いに、透はげんなりと肩をすくめた。なんだかんだで都会っ子の彼には、長い距離と時間を歩く習慣がなかった。これがそのまま、心身のたくましさに繋がっているのかと思うと、自戒せざるをえなかった。

「田舎の景色を楽しみながら行きましょう! 雄大な自然に比べたら、わたし達の悩みなんてたいしたことないって気づかされますよ」

 得意げにそう言うと、陽多はバス停から軽くジャンプをした。路上に立った少女が、透に向かって手を差し伸べる。

「透さんも! ほら、早く!」

 急かされた透は、苦笑するとともに溜息をついた。重い溜息ではない。迷いを吹っ切るためのものだ。小さな手をしっかり握ると、来る時はひとりだったバス停を、二人で出ていった。


※※※


「そういえば、透さんって彼女さんはいるんですか?」

「いたらこんな所にひとりで来てないし、うだうだ迷ったりしないだろうさ」

「……そっか。そうですよね。……よかったぁ」

「ん? 何か言った?」

「い、いいえ!? 何も言ってませんよ。あ、そうだ。携帯のメアド交換しませんか?」

「いいけど、一期一会の俺から聞いてどうする……」

「いいから教えてください!」

「なんで怒るんだよ……? ほら、赤外線で送るから」

「せき、がいせん? あの、わたしよくわからないんですけど」

「なら、ちょっと貸して。俺が二つ操作した方が早い」

「……へえ~。そうやってデータの送信ができるんですね。便利だなあ」

「君は本当に携帯所有者なのか? そこらの爺さん婆さんの方がマシなレベルだぞ、それじゃ」

「ひどい! だったら透さんが使い方を教えてくださいよぅ。これを機会にマスターしてやるんだから」

「そんなの友達に聞けばいいじゃないか。それかその、彼氏、とかさ」

「へっ? ……や、やだなあ、透さん! そんな彼氏だなんて、そんなのいるわけないじゃないですかぁ」

「……そう。いない、のか」

「はい……すみません」

「いや、別に謝ることじゃないでしょ。……むしろよかったぐらいだ」

「はい? 何か言いました?」

「何も言ってないよ。それよりほら、ついに雨が上がったぞ」

 気まずくなった雰囲気を晴らすかのように、青空と太陽がそろって顔を出した。緑の田園地帯に降り注ぐ、熱い陽光。肌にじりじりとした熱さを感じて、夏が近いことを悟る透と陽多だった。

「透さんは、夏休みはどうするんですか?」

「そうだな。バイトして遊んで、バイトして遊んでの繰り返しかな。陽多ちゃんは?」

「わたしは……行きたいところがあるんです」

「へえ? どこに行きたいの?」

 気になった透が聞くと、陽多は嬉しそうにはにかみながら、そっと透の腕に抱きついてきた。思わずどきっとした透は、陽多を直視することができなかった。

「わたしが好きな人が暮らしてる街に行きたいです。……かまわないですか?」

「……まあ、今回は俺が君のところに厄介になるんだし、いいんじゃないか?」

「本当? 本当にいいんですか!? わたし、本当に行きますからね。来られてから後悔しても遅いですよ?」

「後悔なんてしないよ。むしろ、来てくれた方が嬉しい。なんといっても……」

 そこで言葉を句切った透は、陽多をぎゅっと抱きしめた。さっきのような感情にまかせたものではなく、愛おしいものを押し抱くような抱擁に、陽多は一瞬にしてのぼせ上がってしまった。

「俺も君のことが好きになったみたいだから、しょうがないだろ」

「と、透さん。ものすごく恥ずかしいですぅ~……」

「そう? 一応、誰もいないことを確認したんだけどな」

「そ、そういうことを言ってるんじゃなくて……んう!?」

 声を荒げかけた陽多だったが、最後までそれを言うことはかなわなかった。なぜなら、開きかけた陽多の唇を、透の口がおもむろに塞いだからである。

 有り体に言う、キスというやつだった。燦々とした陽光に照らされる中、二人の男女は長らくひとつになっていた。

「……君の家に行ったら、こういうことはできないだろうしね。ちょっと強引だったかな?」

 照れくささと申し訳なさとが同居した表情で、透は陽多に謝った。陽多はうつむいたまま何も言わない。小刻みに震えている肩を見るに、もしかしたら怒らせてしまったのかもしれない。焦燥に駆られた透が、慌てて陽多の顔をのぞきこもうとした時だった。

「むっ……!?」

 今度は陽多が透の唇を奪う番だった。しかし勢いがつきすぎていたのか、がちんとぶつかってお互いが痛そうに顔を歪めた。とはいえ、それで顔を離そうとはせず、むしろそのまま密着の度合いを強めるのだった。

「これでおあいこです。でも、いきなりはひどいです。その前に何か一言あるべきじゃないですか?」

 顔を赤くして頬を膨らませる陽多は、やはり怒っているようだった。いや、拗ねているといった方が正しいか。いずれにせよ、彼女のご機嫌をとらなければならない。透は考えた。

「一言……ごめんなさい、とか?」

「なんで謝る必要があるんですか?」

「じゃあ、キスしていい? とか」

「デリカシーがなさすぎです」

 なかなか答えに行き着かない透に、陽多はぷるぷると震えだした。大きな瞳に涙が滲み出ている。これ以上からかうのもかわいそうだ。透は力を抜いたように笑うと、涙を堪える少女の目線に合わせて、自分の想いを告げた。

「陽多のことが好きだ。俺と付き合ってくれないか? ……でいいんだろ?」

「……最後の一言が余計です」

「じゃあ、どうすれば陽多は許してくれる?」

「決まってるじゃないですか……!」

 嬉し涙で顔をくしゃくしゃにしながら、陽多は透に抱きついた。それをしっかりと受け止めてやる透。今や雨雲は完全に晴れて、見渡す限りの青空が広がっていた。

 ひとつのバス停での出会いが生んだ、ひとつの小さな奇跡。その行く末を知っているのは、他ならぬこの青空だけなのかもしれなかった。

 このお話は、以前に大雪に見舞われ、駅の外でひたすら待ちぼうけを食った時に考えました。現実には陽多のような可愛い女子高生には巡り会えませんでしたが、寄り添える相手がいるというのは、すごく幸せなことだと思います。

 このお話を読んで、そういう気分に浸れるかどうかわかりませんが、少しでも気持ちが動いてくれたら嬉しいなと思います。

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