第九話 最後の罰
「学校の準備ですか?」
ある日のことだ。モリアーティ家の別邸に足を運んだモランは、モリアーティの言葉を聞いて目を瞬いた。
「ああ、そろそろ喪が明ける。
シャーロックも小学校に通って良い頃だろう」
「本当に、お父さんが板に付きましたね」
「そうかねえ」
「ええ、本当に」
くす、と笑ってモランは頷く。
「いいお父さんですよ。教授」
それを額面通りに受け取れるほどモリアーティも、モランも素直ではない。
「それは皮肉だね」
「ええ、皮肉です」
これは皮肉だ。すっかり犯罪王らしくなくなったモリアーティへの。
「モラン大佐は、親を愛しているかい?」
「それなりには。でも、それが犯罪の抑止にはならない。
だから私も結局は人でなしなんでしょう」
客観的事実として、モランは語る。その人形じみた顔に浮かぶのは柔らかな微笑だ。
「ヘルダーたちもでしょうね」
「人でなし、か」
「教授はどう思いますか? 今の自分を」
モランはモリアーティの返答を予期したように尋ねる。
「人でなしだと思いますか?
昔のあなたは、間違いなく人でなしだったのに」
そしてモリアーティは予想通り、ただ黙っていたのだ。
その日、モリアーティは一人で百貨店を訪れていた。
ホームズはモランに任せてある。
店の中を歩いて探して、ある棚の前で足を止める。
棚の上には、船の模型が飾られている。
「あいつ、こういう玩具欲しがるかねえ」
手に取って見たが、喜ぶ顔が全く浮かばない。
不意にドン、と足になにかがぶつかった。
「おっと、ごめんよ」
「ごめんなさい!」
ぶつかってきた子どもが謝る。
利発そうな十歳頃の少年だ。
「おや、坊や。一人かい?」
「はい、迷子になっちゃって」
「その割に悲壮感がないなあ」
普通迷子って泣いてるものじゃないかな、とモリアーティは想ったが少年は笑顔で、
「だって、楽しいから」
と答える。
「楽しい? 迷子は寂しいものだろう?」
「だって、お父さんってば手を繋ぎなさい見えないところに行くんじゃないってうるさくて」
「それは、君を心配してのことだよ。邪険にするもんじゃない」
「それはあなたが大人だからそう言うんです」
少年はツンとしてそっぽを向いて反論する。
「こまっしゃくれた子どもだなあ。…まあ、あいつほどじゃないか」
そう呟いた声を聞きつけたのか、少年が目を丸くする。
「もしかして、息子さんですか?」
「ああ、贈り物を探しているんだけどね」
「いいなあ。誕生日ですか?」
言われて気づく。そういえばもうすぐホームズの誕生日か。
ただ、なにか贈ってやりたくて探しに来ていた。
「ああ」
「じゃあ、この模型とかどうです?
僕だったら嬉しいな」
少年が指さしたのは塔の模型だ。
「あいつ、こういうのより難しい本を欲しがると思うんだよねえ」
「何歳くらいですか?」
「八歳になる」
「僕とそんなに変わりませんね」
少年は屈託なく笑っている。頭の良い子なのかな、と想った。
「あ、でも僕も医学書だったら嬉しいかも」
「君、お医者さんになりたいのかい?」
「はい」
「ふうん」
それでも大して興味は惹かれなかった。
ただ医者を志すなら、それなりに裕福な家の出なのだろうと思ったが。
「でも、良いお父さんですね」
急に意外すぎることを言われてモリアーティは目を見開いた。
「良いお父さん? 私が?」
「だって、こんなに息子さんのために悩んでるんでしょう?
それって、愛ですよ」
その言葉にひどく衝撃を受けた。
愛? これが?
違う。自分のこれは、ただのまねごとだ。
愛なんてものじゃ、断じてない。
そう繰り返し唱えて呟いて、心臓がすりおろされたように苦しい。
「ジョン!」
「あ、やばい。お父さんだ」
不意に少年を呼ぶ大人の男の声に、少年がまずそうな表情になる。
「ジョン! どこ行っていたんだ!」
駆け寄ってきたのはそれなりに背の高い男性だ。
彼は少年の手を繋いで引きよせると、モリアーティを見て頭を下げた。
貴族だと一目で理解したからだろう。
「すみません。うちの息子がとんだご迷惑を」
「いや、話し相手になってもらっただけさ。気にしないでいいよ」
「そうですか? ありがとうございます」
モリアーティがひらり、と手を振って笑うと、男は恐縮しながらも微笑んだ。
「ええと、あなたは医者?」
「一応軍医をしています。ワトソンと言います」
「ワトソン…」
その覚えのある響きにモリアーティが目を丸くした矢先だ。
男は時計を見て、慌て出す。
「あ、すみません! もう行かないと妻が待っていて!」
「ああ、じゃあ、さようなら」
「はい、ありがとうございました! ジョン、行くぞ!」
「はい」
慌ただしく少年の手を引いて去って行く男に対し、少年はこちらを見てひらひらと手を振って笑った。
モリアーティはその場に残され、ただ彼の姿を見送ってしくりと痛む胸を自覚する。
「…そうか。あれが、ワトソン君か」
急に、運命に頭を殴られた気がした。
戻さなければ、シャーロックを元の道に。
彼と組んで、正義の名探偵となる未来に。
帰さなければと思うのに、触れた温もりが、向けられた言葉が、注がれた気持ちが、真綿で首を絞めるように絡み付く。
こんな感情を、誰が知りたいと望んだ。
これが神の仕業なら、これは罰か。
私という大罪人への、これが罰か。
帰宅すると、屋敷の中はやけに静かだった。
「シャーロック?」
ホームズの姿を探すと、彼はモリアーティの寝室のベッドの上で横になって目を閉じていた。
「眠ってるのか…」
使用人は三階で休んでいるだろう。呼ばない限り来ない。
ベッドの縁に腰掛けて、そっとその丸い頭を撫でる。
「ねえ、シャーロック。私はお前の宿敵なんだよ」
そう、小さな声で語りかける。もう、押し殺しておけなくて。
口を塞ぐほどに、呑み込もうとするほどに焼けただれた感情があふれ出して。
もう、一杯で。
「お前が私を殺すんだ。私が、お前を殺すために」
(お前には生きていてもらわなければ困るのに)
どうしてこんなに苦しい。
ホームズから手を離し、顔を手で覆った矢先だ。
カチャ、と音がして視線を戻し、息を呑む。
「シャー…」
ホームズは起き上がってこちらを見ている。その手に銃を握って、銃口をこちらに向けて。
「シャーロック」
「…ジェームズ」
ホームズの声は震えていたのに、自分のこえはやけに静かだった。
まるで、こうなることをわかりきっていたように。
「ジェームズが、命令したの?」
泣きそうな声が訴えるように問いかけた。
「ジェームズが、僕の家族を殺したの?
ジェームズが望んだの?
答えて、ジェームズ!」
ああ、モランとの会話を聞いていたのか。
なんてミスだ。
「違う。私は」
(いいや、違わない)
なにを弁解する気だ。なにも違わないじゃないか。
私は心底、お前を殺したがっていた。だからあの男はホームズ家に火を放った。
全部私のせいだ。
「……ふ、はは」
想わずあふれ出したのは、苦しいばかりの笑いだった。
茫然とした顔のホームズが、自分を見上げて瞳を揺らす。
「…なんで、笑うの」
「可笑しいからだよ。シャーロック。やっと、私たちに相応しい関係になったね」
笑え、昔のように。宿敵に相対するように。
「私はずっと、お前を殺したかったんだ。
やっと気づいたかい?」
「うそ」
こちらに向けられた銃口が震えている。見開かれた瞳が信じたくないと訴えていた。
「嘘じゃないんだ。だから、シャーロック」
向けられた銃口がますます大きく震えていた。ああ、駄目じゃないか。そんなのじゃ当たらない。
「駄目だよ」
銃をそっと上から掴む。ホームズの肩が震えた。
「それじゃ当たらない。こうして、ここを狙うんだ」
そう言って銃を握ったホームズの手を引きよせて、自分の心臓の上に押し当てる。
「いいね。ちゃんと銃口を引くんだよ。
シャーロック。出来るね?」
「…ジェームズ?」
信じられないと、ホームズが自分を呼ぶ。
何度も何度も、自分を呼んだあの声で。
「私を殺しなさい。シャーロック」
それにひどく、安心している自分がいた。
なんたる失態。なんたる無様。なんたる愚か。
犯罪王モリアーティとしてあるまじき行いだ。
かつてなにより憎悪した宿敵に対し、こんな感情を芽吹かせるなど、愚かの極みでしかない。
再びの決着を、決着のやり直しを、それに執着して、見落としていた。
自分の胸の中で降り積もる雪のように音もなく育っていた彼への憎悪以外の感情に。
屈託のない笑顔、名を呼ぶ声、触れる小さな手の体温。自分に向けられるその全てが、何一つ自分の知らないシャーロック・ホームズの断片だった。
わかっている。こんな感情、今からでも切り捨てて、決着のやり直しへの執着も捨てて、彼を殺すべきだと。
そうあることが犯罪王ジェームズ・モリアーティとしてもっとも相応しいと。
わかっているのに、その銃口は彼ではなく自分自身の胸に向いた。
「殺しなさい。シャーロック」
いっそ無感情に言葉を放つのは、彼ではなく自分自身の感情をそぎ落とすためだ。
悟られてはならない。この感情だけは。
この幕引きを回避出来ないならば、せめて彼にこの感情が最期まで気づかれることのないように。
復讐を遂げられないならば、再戦が叶わないならば、せめてお前の中で最期まで私を「恐ろしい犯罪王ジェームズ・モリアーティ」でいさせて欲しい。
決して、間違っても、私の姿にお前の亡き親の姿など重ねるな。
頼むから、お願いだから、シャーロック・ホームズ。我が宿敵よ。
私からの最初で最後の願いだ。
(どうか私を憎んだまま、私を犯罪王ジェームズ・モリアーティとして終わらせてくれ)
あのライヘンバッハの滝で相まみえた時のように、私を許されざる犯罪者として終わらせろ。
「シャーロック、さあ」
引き金に指をかける。お前が引けないならば、幕引きは私がやろう。
「っ」
ふる、とホームズが首を横に振った。
瞳が潤んでいる。
『行ってきますの挨拶、そうじゃない』
ふと脳裏をよぎったのは、いつかのねだる声で。
「…ごめんね」
そっと、顔を寄せてその頬にキスを贈る。親が子にしてあげるように。
「マイボーイ」
ありったけの感情を込めて囁いた瞬間、全力で力を込めたホームズが銃を投げ飛ばしていた。カツン、と銃が床に転がる。
「うわあああああああああ!」
大声で泣き叫んだホームズがモリアーティの胸にしがみつく。
「シャーロック…?」
「なんで、なんで殺せなんて言うの! どうして抵抗しないの!
ジェームズの馬鹿!」
泣きじゃくって、ホームズはひたすらにモリアーティを詰った。
幼子そのものの、迷子になって寄る辺を探すように。
「殺したかったなら、どうして優しくしたの!
どうして、最後の最後にそんなことするの!」
どん、どん、と小さな手が胸を殴る。痛いのに、もっと、締め付けられる胸が痛い。
「ジェームズの馬鹿!」
涙が散る。ぽたぽた、と茫然としたままのモリアーティの手にも落ちて、なにかを溶かしていくのがわかった。
「僕だって好きなのに! 僕だってジェームズが好きなのに!
愛してるのに!」
熱い涙が、胸の中のなにかを溶かしていく。
「ねえ、ジェームズ…っ」
自分を見上げた澄んだ瞳が、涙を一杯溜めて、縋る。
「もういっかい、愛してるって言ってよ…」
「……………お前は、馬鹿だなあ」
やっとのことで言葉に出来たのは、そんな陳腐なものだった。
「私は犯罪者だよ」
「…うん」
「悪人だ」
「うん」
「何人も殺して来た」
「うん」
「いつか、お前が裁く悪になる」
「そのときは」
ぎゅうっとモリアーティの服を掴んで、ホームズは涙で頬を濡らしながら笑ってみせた。
「そのときは、真っ向から立ちはだかって戦うから」
その表情が崩れて、親を恋しがる幼子の顔になった。
「だから、今は僕のジェームズでいて」
「…………はあ」
それを聞いたらひどく安堵して、まるで世界の全てに許されたような錯覚に陥って、肩の力が抜ける。
「私は、結局お前には勝てないんだなあ」
そう、呟いた声はわずかに震える。
それが涙なのか、多幸感なのか、再戦が叶うことへの歓喜なのかはもうどうでもよかった。
「シャーロック」
腕を伸ばしてその小さな身体を力一杯抱きしめる。
「愛しているよ、マイボーイ」
この先に待つ結末がなんであれ、紛れもなく、それが真実だったのだから。




