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第七話 フレッド・ポーロックの恭順

「みんな難しいこと考えすぎじゃない?」

 ある酒場の窓際の席で、あっさり言ったのはフレッド・ポーロックだった。

「フレッド、君はまたそういう」

 相席していたモランが難色を示し、ヘルダーは退屈そうに頬杖をついた。

「だってそうじゃないか。ヘルダーもモランも。

 教授がどうするかなんて、そんなの俺たちが気にすることじゃない」

 フレッドはそう答えて、ひらりとAのカードを手に取る。

「俺たちは変わらず、教授の手足になるだけさ」

 その顔には食えない笑みが浮かんでいた。




「教授~っと」

 モリアーティ家別邸、書斎で論文を執筆中だったモリアーティはしれっと入室してきたフレッドを見上げて半眼になった。

「全く、君たち我が物顔で入ってくるね」

「はは、すみません。

 手の怪我、いかがですか?」

 へらりと笑ったフレッドに、モリアーティは包帯が巻かれた右手を見やる。

 かすり傷なのは嘘じゃない。手の際をかすめただけだ。

「ヘルダーから聞いたかい?」

「ええ。モラン大佐からも。

 みんな気にしすぎだと思うんですけどね」

 軽い口調でフレッドは笑う。それだけ見れば人の良い普通の庶民だ。

「教授がホームズをどう思おうが、いいじゃないですか」

「君はそう思うのか」

「だって、最後はきっと変わらないんですよ?」

 フレッドはいっそご機嫌な風に見える笑顔で首をかしげて、瞳を細めると顔から笑みを消した。

「すみません。教授、俺は残酷なことを考えています」

 そう謝罪して、モリアーティの座る机の前まで近寄った。

「あなたはまた、ホームズに殺される。

 あのライヘンバッハの滝で。

 その運命は不可逆だ」

 とん、とその荒れた手のひらが、机の上に突いた。

 少し上からモリアーティの顔を見下ろして、冷たく囁く。

「絶対に、誰にも変えられない」

 そう語りながらも確かに温度のあるその瞳を見上げて、モリアーティは手に持っていたペンを手放した。

「君は、私を裏切ったからね」

「恨んでます?」

「いいや、全く」

 あっさりしたモリアーティの口調に、フレッドはまた食えない笑みを浮かべて机から手を退かし、身を離した。

「さすが、教授ならそう言うと思った」

 疑ってもいない態度に、本当に食えない男だ、と思う。

 聡明であり狡知に長けた、それでいて感情の読めない男。

 フレッドに比べたら、一心にモリアーティを慕うモランやヘルダーのほうが遙かに読みやすい。

「…運命は変わらない、か。

 なら、私がしていることも無意味かね?」

 立ち上がって呟くと、フレッドはわざとらしく首をかしげる。

「じゃあ、教授はその目的のためだけにホームズを育てているんですか?」

「…………」

 その問いかけに、言葉を失うしかなかった。

 じゃあ、自分は一体、なんのために彼を。

「即答出来ないなら、教授の負けですよ」

「君は、止めないねえ」

「だって、止めたってどうにかなります?」

 フレッドは机から少し離れた位置に置かれたソファの背もたれに寄りかかって、試すように話しかけた。

「ホームズはもう、あなたを慕っている。あなたが悪だと、薄々勘づきながら。

 ホームズの正義の天秤が正しくあることを、望んだのは誰でした?」

 そう言われたなら、返答に窮するしかないのだ。

 そう望んだのは、他ならぬ私だ。

「だからね、変わらないんですよ」

 にこりと笑んで、フレッドは扉へと足を向けてふと立ち止まる。

「ああ、そうだ。伝えようと思っていたことを思い出しました」

 手に持っていた鞄をあさって、数枚の紙をモリアーティの前に置く。

「これ、リストです。

 俺が覚えている限りの名前を書きました。

 あとはわかるはずですよ。教授なら」

 そこに記されているのは名前だ。人の名前の、羅列。

 それを見て一瞬で察したように、モリアーティが顔をわずかに歪める。

「…全く、残酷なことだ」

「ええ、全く」

 その独白に、フレッドは静かに恭順するだけだった。




 モリアーティとホームズの寝室は当然別だ。

 だがその日の夜、ホームズがモリアーティの寝室を訪れたのでベッドの上で本を読んでいたモリアーティは顔を上げる。

「ジェームズ」

「どうした?」

「眠れない」

「…ホットミルクでも入れようか」

 歩み寄ってきた小さな身体を抱き上げ、ベッドの上に載せると髪を撫でる。

 そしてキッチンに向かい、牛乳を温めてすぐ戻った。

 ポッドに入ったミルクをカップに注いでホームズに渡すと、ふうふうと息を吹きかけている。

「蜂蜜は入れるかい?」

「うん」

 その返答に、蜂蜜をミルクに垂らしてかき混ぜてやると、ポッドをベッドの脇のテーブルに置いてベッドの縁に腰掛けた。

「ねえ、ジェームズ」

「なんだい?」

「本当に、そう思ってる?」

「なにを?」

 ホームズは聡明だ。モリアーティにも同等の頭脳がある。

 だからかたまに、主語を端折る時がある。

 すぐ理解出来る時もあるが、感情の問題になるとわからないことも多い。

「僕を、マイボーイって言った。それは、ジェームズの本心?」

「さあ、どうだろう」

「じゃあ、ジェームズは、悪人?」

「それもどうだろう」

 曖昧な返答に、ホームズはカップを抱えたまま拗ねた顔になる。

「どうして誤魔化すの?」

「誤魔化していないよ。

 ただ、私から答えを提示しても意味がないからだ」

 モリアーティの言葉にホームズは目を瞠る。

「それは、お前が自分で導き出すべきものだよ」

 そう、知りたいならその闇の中、探りにおいで。

 張り巡らされた蜘蛛の糸をたぐって、ここまでおいで。

「僕が自分で……」

「そうだ」

 然りと頷いて、モリアーティはホームズの胸に人差し指を当てる。

「お前の正義の天秤は、正しくあらねばならない。

 そのために、私はここにいる」

「ジェームズは、それを望むの?」

「…そうだね。それを望むよ」

 だから早く大きくおなり。

 正しくおなり。


(誰より正しい名探偵シャーロック・ホームズ。

 お前の挑戦を待っている)




 ホットミルクを飲んで身体が温まったからか、モリアーティと話せて安心したのか、程なく眠ってしまったホームズを自分のベッドに寝かせて毛布をかけてやる。

 不意に聞こえた物音に、視線も向けずに構えた銃の引き金を引いた。

 この銃はヘルダーの特別製だ。音は鳴らない。

 代わりに呻く音と膝を突く音が響いた。

「悪いけどね、この子を殺させるつもりはないんだ」

「…なぜ」

 扉のそば、座り込んでいるのは年若い青年だ。その腕が傷ついている。

「どうして」

「フレッドのリストにあった。君はかつての私の部下だね?

 そして、ホームズ家を燃やした犯人だ。

 私のためのつもりかい?」

 ゆらりと立ち上がって、モリアーティは銃口を男に向けた。

「大きなお世話だよ。

 お前さえいなければ、私は万全な状態のシャーロック・ホームズとやり合えた」

「わたしはあなたのために!」

「それが大きなお世話だと言うんだ!」

 男以上のモリアーティの激高に、男は怯んだように息を呑んだ。

「私は私の手でシャーロック・ホームズを殺す。

 部外者は一昨日おいで。

 邪魔者は、一人たりとも要らないんだよ」

 絶対零度のまなざしを向け、引き金に指を掛けた瞬間だ。

「…ジェームズ」

 背後で響いた声にハッとして、一瞬振り返ってしまった。

 瞬間、男がバッと身を翻す。

 即座に銃を向け、続けて撃ったがどれも当たらなかったようだ。

 追うか迷ったが、ホームズを置いてはいけない。単独犯だという保証がないからだ。

「鈍っているな。鍛え直すか」

 そう呟いて、銃をテーブルの上に置くとホームズの顔を見下ろす。

 先ほどのは寝言だったらしい。寝息も安らかに眠っている。

「いいのかい? そんなに安心して私のそばにいて」

 そう、もの悲しげに呟いてそっと手を伸ばす。

「馬鹿なシャーロック・ホームズ」

 その細い首に手を当てて、力を込めた。

「私は、お前を」

 世界で一番忌々しいお前。

 憎くて憎らしくて、疎ましくてずっとお前を見ていた。

 ああ、いっそこのままこの首を折ってしまえたなら。


『ジェームズ』


 なのに頭をよぎった笑顔が、声が、温もりがそれを許さない。

 我に返って手を離すと、ホームズが咳き込み始めた。

「けほっ、こほっ」

 小さく咳を繰り返して、そのまま何度か瞬きを繰り返す。

「あれ、溺れる夢見た…。ジェームズ?」

 起き上がって、モリアーティの顔を見て彼は不思議そうにする。

「どうして泣いてるの?」

 言われて始めて気がついた。頬を伝う暖かいものの正体を。

「知らないよ」

 両手で顔を覆って目を背けた。

「わからないんだ……」

 迷子になっていく。自分の心がわからない。


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