第六話 フォン・ヘルダーの試験
「はあ~~~~~」
「ジェームズ」
「ん? なんだい?」
別邸のリビング、ソファに腰掛けて背もたれに寄りかかったモリアーティの特大のため息に、隣に座っていたホームズが覗き込んできた。
「どうしたの? なんかすごい不機嫌だよ?」
「不機嫌っていうか、疲れてるね」
「どうして?」
「…断れない用事が出来た」
胡乱な目つきでそう答えたモリアーティに、ホームズは首をかしげる。
「? ジェームズにだって断れない用事の一つや二つあるでしょ?
僕を置いて出かけた時だってあったじゃない」
「そうなんだけど、今回のはそれとは違うって言うか」
「なに?」
「…夜会の招待」
また特大のため息を吐いて、モリアーティは肩を落とす。
「夜会」
「そう。まあ平たく言うと、お嫁さん探して来いって話だよね」
起き上がっていた身体をまたソファの上に横たえてうんざりと口にする。
「兄の、伯爵の命令だから逆らいにくいしさあ。
まして勝手に養子を迎えた手前…あ、違うよ? お前のせいじゃないからね?」
精神的疲労のあまり言わなくていいことを口にしてしまい、慌てて顔を上げる。
だがホームズは涼しい顔をしていた。
「僕、そんなこともわからないほど子どもじゃないよ
ジェームズのお兄さんは、僕も結婚しないジェームズも駄目なんだよね?」
「………うん、まあ、そう」
ホームズはちゃんとモリアーティはモリアーティ、兄は兄と割って考えられているようでひとまず安心する。
「ジェームズはどうして結婚したくないの?」
そんなの、結婚なんかしていたら犯罪コンサルタントが出来ないし、お前を手放すことになるからじゃないか。
とは言わないけど。
時間が巻き戻る前だって自分は結婚しなかったんだから。
「…興味ないからかな」
「興味ない」
「そう、興味がない。
だから、なんていうかさ、ちゃんと愛せないと思うんだよね。
結婚しても」
別に相手の女性の幸福なんてどうでもいい。それでも、結婚しなかった理由の一つはそれだったかもしれない。
「私は、人を愛せるように生まれついていないから」
自分は誰かを愛せない。そういう風に生まれついていない。
だから、結婚なんて煩わしいだけだ。
「人を愛せるように…」
ホームズはその言葉を反芻する。その幼い顔になにか言いたげな感情を浮かべて。
「まあ、だから夜会の日はお留守番してもらうことになるけど、なにかあったら使用人に言いなさい」
「……」
「シャーロック?」
返事のないホームズを訝しんで起き上がったモリアーティに、ホームズはハッとして、
「あ、うん、わかった」
と答えた。
そして夜会当日の夜、正装姿に着替えたモリアーティを眺めて、ホームズはしみじみ呟いた。
「そういう姿のジェームズ初めて」
「まあそうだね。お前には見せてなかったかも。
じゃあ、大人しく良い子にしてるんだよ」
「違うよ。ジェームズ」
玄関の前で足を止めて振り返ったモリアーティに、ホームズは真面目な顔で言う。
「うん?」
「行ってきますの挨拶、そうじゃない」
これは、親が子にする挨拶を求められているんだろうか。
頬にキスとか。
でもそういうのを、自分が彼にするのはなにか違うよな。
迷って手を伸ばして、そっとホームズの頭を撫でる。
「はい、行ってきます」
「うん」
ホームズは笑って頷いたから、まあ、合ってたのかな?と思う。
そのまま屋敷を出て馬車に乗り込んだ。
モリアーティが乗った馬車が走り出すのを眺めていたホームズは、不意に聞こえた足音に振り返る。瞬間、
「ばあ!」
と大仰な声と動作で飛び出して来た赤い髪の青年に、びくっと肩を跳ねさせた。
「っ」
「やあ、変なお兄ちゃんだヨ~」
そう胡散臭い笑顔で言ったのはヘルダーだ。その格好も正装である。
「な、なんですか」
「おや、乗ってくれない。寂しいネ」
ヘルダーはそう大仰に肩をすくめると、すぐににやりと笑った。
「まあいいや。ねえ、教授のことが心配じゃなイ?」
「僕は、べつに」
「そんなこと言って、教授がお嫁さんを連れてきたら嫌でしょう?
そうなったら君は邪魔者だヨ?
『ジェームズ』の一番ではなくなるヨ?」
「………やだ」
ヘルダーの言葉に想像したのか、ホームズの口から本心がこぼれ落ちる。
本当は嫌だった。ジェームズが結婚するのが。
自分以外の家族を迎えるのが。
「じゃあ行こうか」
「って、どこに」
「シンデレラはご存じかな? ワタシが魔法使いになってあげよう」
ヘルダーはそう言って、芝居がかった動作で一礼した。
パーティ会場は
着飾った貴族の婦人や子女が集まっている。
その中でも群がられているのはモリアーティ伯爵家の次男だ。
「ジェームズ様、どうか一曲」
「ジェームズ様はいらっしゃらないかと思いましたわ。
会いたかったんですのよ」
「そうですか。申し訳ない」
そう心にも思っていない言葉を並べ立てるモリアーティの内心は「早く終わらないかな」だ。
「聞きましたわよ。養子をお迎えになったとか」
そんなことを考えていたら、周囲に集まる令嬢たちの話題がホームズのことにシフトした。内心苦い思いが湧く。
「下層ではなくミドルクラスの子どもだそうですけど、伯爵家には相応しくありませんわ」
「そうですわ。孤児院にお戻しになっては?」
そっと握られた手を、そのまま振りほどいた。
「それを決めるのは君じゃない」
驚くほど冷淡な声が出た。自分でもびっくりするほどに。
その瞬間湧き上がった激情を、言葉では表せなかった。
息を呑んだ令嬢に取り繕った微笑を向ける。
「なんて、失礼。私は、自分の責任はきちんと果たしたい主義でして。
我が子として迎え入れた以上、あの子は私の子です」
それだけ答えて一礼し、輪の中から出ていく。
自分自身を詰る声が胸中で飽和する。
嘘つき。我が子だなんて思っていないくせに。
愛してなんかいないくせに。
「ジェームズ」
だが不意に聞こえたこの場にいるはずのない幼い声に、視線を向けて息を呑む。
「シャ、シャーロック? なんでここに」
叫ばなかったのが奇跡だ。本当は大声で呼んでしまいそうだった。
「連れてきてもらった」
そう話すホームズの背後で、ヘルダーがにこにこと擬音がつきそうな笑顔で手を振る。
「ヘルダー! なにを勝手な真似を」
「まあいいじゃないカ。お嫁さんってことは、彼の母親だヨ?
選ぶ権利はあると思わない?」
「君は、口だけは達者なんだから…」
はあ、と深いため息を吐きながら零す。
「ジェームズ、邪魔だった?」
「……邪魔じゃないよ。正直、辟易していたところだ。
四阿に行こうか」
ホームズの手を取ってホールを出る。庭の四阿まで来ると音楽も喧噪も遠くなった。
夜風が心地よい。
「寒くないかい?」
「平気だよ」
「嘘は吐くもんじゃない」
大人びたことを言う幼子に、上着を脱いで掛けてあげる。
そうするとすぐ笑顔になった。
「ありがとう、ジェームズ」
親のつもりはない? 本当に?
この笑顔に、温まる胸を知っていて?
「ジェームズは寒くない?
ほら、こうするとあったかい」
しゃがんでいたモリアーティの身体に、ぎゅっとホームズが抱きついた。
「私は、平気だよ」
けれど、触れる温かな身体が、心臓をすりおろす。
真綿で首を絞めるように。
「でも、ああ、そうだね。
暖かいね……」
そう呟いてホームズの背に片手を回したモリアーティを、頭上でヘルダーは冷たい双眸で見下ろした。
その頃、カツカツと落ち着きなくホールを行き来するドレスを纏った令嬢がいた。
「本当に、あの子ども邪魔だわ。
せっかくジェームズ様にお会い出来たのに」
彼女の目当てはモリアーティだ。だからこそホームズが忌々しい。
そんな心理を読んだように、声がかかる。
「そこのお嬢さん」
その声に反応して視線を向けると、バルコニーに腰掛けてこちらを見ている赤い髪の美青年と目が合った。
実際にはその青年は盲目で、目が合った、というのは令嬢の錯覚だったが。
「あの邪魔な子どもを、どうにかしたくはないかイ?」
彼はそう、ドイツ訛りのある口調で悪魔のように唆した。
四阿の椅子に腰掛けて、遠くから聞こえる音楽を耳にしていたモリアーティだったが、不意にこちらに歩いてくる令嬢の姿を見とがめて、わずかに警戒する。
「ジェームズ様」
彼女は袖の長いドレスを纏って、モリアーティの前で微笑んだ。
「わたしとワルツを踊っていただけませんこと?」
「申し訳ないが、」
「いいんですのよ。その子が一緒でも。
わたし、寛容な心で受け入れようと思います」
立ち上がり、ホームズを背後に庇って断ろうとしたモリアーティに、彼女はまた一歩近づいて媚びたらしい声音で囁く。
「だから、ね? ジェームズ様……」
そっとその手がモリアーティの背中を抱き寄せる。
その指先に嵌まった指当てのような銃が、ホームズに向けられた。
発砲音は響かなかった。その指先を、掴むようにして防いだのがモリアーティだった。
「な」
「残念だけどね、あいつの手口は見え透いているんだよ」
擦れた声を漏らした令嬢を見据える、モリアーティの瞳に温度はない。
「シャーロックを害する人間を、生憎私は許す気がないんだ」
ひどく低い声で言うなり、モリアーティは令嬢の頭を掴んで四阿の柱に叩きつける。
そのまま気を失った令嬢の身体が地面に倒れた。
「いるんだろう? 出ておいで」
「やあ、わかっちゃったカ」
モリアーティの声に反応して、ひょこり、と四阿のそばの茂みからヘルダーが顔を出した。
「わかるよ。モラン大佐もわかりやすかったしね。
あんな指先で撃てる改造銃、作れるのは君しかいない」
「まあそうだねえ」
「で、シャーロックが邪魔だから殺すのかい?」
そう尋ねながらヘルダーを見据えるモリアーティのまなざしには血が通っていない。
返答次第ではいつでも殺す、という感情すら覗いたものだったが、それを察知した上でヘルダーはへらりと笑った。
「いいや?」
「は?」
「ワタシは教授の気持ちを確かめたかっただけだヨ。
わかったからもういいのサ」
あっけらかんとしたヘルダーに、モリアーティは絶句してしまう。
そんなモリアーティに身を寄せて、ヘルダーは耳元で囁く。
「教授、ホームズを失うのは恐ろしいダロウ?」
その言葉にどくりと心臓が音を鳴らした。
一瞬でも、血に染まったホームズの姿を想像したからだ。
「その感情、忘れてはならないヨ」
ぱっと身を離したヘルダーは、相変わらず胡散臭い笑顔のまま、
「じゃあ、ワタシはこれで失礼するヨ~」
と手を振って去って行った。
「全く、嵐のような奴だな」
「…ジェームズ」
思わず嘆息を吐いたが、不意に背後で聞こえた震えた声に気づく。
自分の手袋を嵌めた手から伝う鮮血にも。
「ああ、気にするんじゃない。かすり傷だよ」
そう答えて背後のホームズを振り返る。
「で、でも、また僕のせいで」
「お前のせいじゃないからね」
今にも泣きそうなホームズを見やって、内心動揺はした。
お前はいつからこんなに人間らしくなったんだ。
そんなすぐに一喜一憂して、泣きそうになって、そんなお前は、私は知らない。
「だから、ああ、そうだ。私の問題にお前を巻き込んでしまっただけだ。
だからお前はちっとも悪くないんだよ」
「ジェームズはずるい」
震えた声が自分を詰る。それも、自分が知らなかった彼の断片。
「そうやって、全部自分のものにしてしまう。
罪も罰も、全部ジェームズのものにしてしまう。
僕にも背負わせてくれないんだ。
同じ地平に立ってるって言ったじゃないか」
「そうだね」
そうだ。私とお前は同じ地平に立っている。
けれどね、見ている方向は逆方向だ。そうでなければならないんだよ。
そう、言えたなら楽なのに。
「でも、この罪は私のものなんだよ。シャーロック。
お前は、こちらに来てはいけないんだよ。
いいね?」
迷って、傷ついていないほうの手を伸ばして頭を撫で、抱き寄せた。
「マイボーイ」
『なんか、違う。
違う、けど、今はこれでいい。
これでいいよ』
お前が欲していた言葉を、こんな形で口にする。
狡いのは私だ。
抱きついたまま、また涙を零す幼子の髪を優しく撫でた。
「狡い、ジェームズ」
「ああ、そうだよ。私は狡いんだ。
わかったかい? シャーロック。
わかったら、悪党との付き合い方をちゃんと学ぶんだよ」
自分で自分を悪党と呼んで、ホームズと線を引いた。
お前は正義。だからこちらに来ちゃいけない。
「出来るね? マイボーイ」
夜風が吹く。声もなく涙する幼子を抱いて、ただ夜空を見上げる。
傷ついた手のひらから流れる血の温さがやけに鮮明で、痛みはどこか余所の世界のもののようだった。




