第五話 セバスチャン・モランの胸懐
「よく放っておくネ?」
ある日の午後だ。ロンドンにあるカフェテリアのテラス席に座ったモランは、相席していた相手の台詞に目を瞬いた。
「なんの話だい?」
「シャーロック・ホームズだヨ。頭の悪いふりしないで欲しいナ」
答えたのはヘルダーだ。彼はドイツ訛りのある英語で、自身の目立つ赤髪を指先でいじって手放す。
「あのままで、本当に教授の害にならないと言えるかイ?」
「どうかな…。
君だって、情が芽生えたらいいと言っていたじゃないか」
「それはホームズから教授へだヨ。教授からは別問題だ。
ワタシはあの方に限ってないと思っているけどね」
その言葉にモランははち、と瞬きをした。
「ヘルダーはそう思うのか?」
「ああ、だってあの方はホームズを倒したいんだ。
だからホームズがあのときの年齢になるのを待っている。
そのときまでホームズに生きていてもらわないと困る。それだけダロウ?」
「…そうだね。それだけだ」
そう、それだけのはずだ。そうわかっていたから揶揄ったりしていたのに。
「ほら」
「え?」
不意に指摘のように言われ、顔を上げる。
「昏い顔をしているよ。本当は邪魔なんだろう?
シャーロック・ホームズが」
そう語るヘルダーの瞳も、見えないくせに鋭い、獰猛な猛禽のようなまなざしで。
その瞳に映る自分も似たようなものだった。
「あの方を煩わせる全てが。君は目障りだと思ってる。違う?」
「っふ」
だからつい笑ってしまった。笑うしかなかった。
「君は凄いな。ヘルダー。見えないのによくわかるものだ」
「気配でなんとなくね。わかるヨ」
ヘルダーは冷淡な声音で返す。認めてしまえば簡単だった。
「ああ、そうだ。目障りなんだ。私にとっては、彼は目障りだ。
だって彼は、ホームズは、」
忘れるはずがない。あの日の悲しみを、慟哭を。
「私からモリアーティ教授を奪ったのだから」
忘れられるはずがない。あの仇敵。怨敵。お前だけは赦さないと誓った相手。
「そして教授の恐ろしさを、最小限しか遺さなかった。
教授の影響力。悪のカリスマは強大だ。それが本として残るとなれば、影響を更に広げるようなもの。避けるのは当然だろうけどね」
「ああ、ホームズシリーズの教授への言及はひどく少なかったナ。
後生への影響力を嫌ったか」
「それもあるが、純粋に今生きる人々への、だ。
悪のカリスマは強大であればあるほど人を惹きつける。
特に、正義で救われなかった者がわらをもつかむ先として、なにより魅力的に映るだろう。そう、教授は魅力的な存在だ。そして今のホームズは復讐を望む者でもある」
そう、今のホームズは復讐を望んでいるはずだ。
そんなホームズにとって、モリアーティがどれほど魅力的に映ることか。
「だからこそ、本当は邪魔なんだよ」
赦さない。お前だけは、あの方の頭脳を利用することは赦さない。
そう胸の内、騒ぐ怨念の声があるから。
「やあ、坊や。教授は書斎かな」
カフェテリアでヘルダーと別れた帰り道、モリアーティ家の別邸に立ち寄ったモランは庭でホームズを見つけて「ちょうど良い」と口の端をつり上げた。
「なにか用事ですか?」
「今日は君にね」
「僕に?」
「ああ」
この場所は、書斎からは見えない。ならば、今なら気づかれずに事を運べる。
「私の大切な人がね、いつも気にしている人がいる。
私はその相手が邪魔なんだ。
だってそうだろう? あの聡明な頭脳を悩ませる存在など、いないほうがいいに決まっている」
「時期尚早ですね。あなたがそう判断していい問題ですか?」
さすが聡明だ。それが己のことだとすぐ察したか。
「それでも、君にとって教授は必要な存在だろう?」
そう返せば、ホームズがぐっと言葉に詰まったのがわかった。
「教授が必要ならばおいで。そうすれば」
「そうすれば?」
疑心暗鬼をにじませたホームズに、指を立てて唇に当てる。
「私は君が教授のそばにいることを容認しよう」
ホームズを連れてきたのは酒場だった。
「子どもを呼びつける場所じゃないですね」
「そう言いながら来たくせに」
もう空が暗くなる。酒場にも人が増えてきた。
窓辺の席に座って待っていると、酒場の女性がビールの入ったグラスとミルクの入ったグラスを運んできた。
「どうぞ」
「これ、毒入りでしょう?」
一口も飲まずに言い当てたホームズに内心舌を巻いた。
自分はホームズから見て、好かれてはいなかったが危険な存在ではなかったはずだ。
「どうしてわかったか?
簡単ですよ。あなたの僕を見る目はいつも憎悪に満ちている。
殺意に満ちているんですよ、モランさん」
毒入りなのは本当だ。酒場の女性を抱き込んで、渡した毒を入れてもらった。
だけど、完璧に隠せていたはずの憎悪を、殺意を、こんなにも簡単に見抜かれるなんて。
「それほど、僕が邪魔?」
「…勝負をしよう」
モランはホームズの問いに答えず、ポケットから取り出した六枚のカードをテーブルの上に置いた。
「ここから一枚選んでくれ」
置かれたカードの柄はAが三枚、K、8、Q。
それを一瞥し、ホームズは微笑んだ。
「先にあなたの推理方法を当てましょう」
「ほう?」
「まず僕が一枚引いたら、Aを三枚除外する。
そうだな。偏っているほうに魅力を感じるのはひねくれ者で、君はひねくれ者だろう、と言って。そして残りの三枚からQを選ぶ」
「その理由は?」
「殺しを示唆した関係で、刃物を持った男は好ましく見れないでしょう?
血が散っているように見える8も除外です」
その観察眼、聡明さに息を呑んだ。そして臆さず堂々と自分に殺意を見せた大人の男と向かい合う胆力も。
モリアーティのそばにいるときの彼は親を恋しがる子どもそのものだった。
あれは正しかった。
モリアーティの存在こそが、ホームズを「ただの子ども」にしているのだ。
「ふっ、はっはっは。さすがの頭脳だ。いいだろう。表に出よう」
思わず笑ってしまったのは、それがあまりに不愉快で、そしてどこかで安堵したからだ。
店を出ると、霧が出始めていた。
橋の前まで来てモランは足を止める。そして振り返るなりホームズに銃口を向けた。
「なんの真似、だなんて聞くのは野暮なんでしょうね」
「聞かれたとして、答える義務はないよ」
ホームズは悠然と微笑んだまま、まるで怯えない。
「逃げないのかい? 今すぐにでも銃弾が心臓を撃ち抜くかもしれないよ」
「それはないです。
ジェームズが望まないことを、あなたがするとは思えない」
その言葉にぴく、と眉根が寄る。
「ジェームズは僕の死を望まない。だから、あなたは僕を殺さない」
「なにを、知った口を…!」
怒りと憎悪で目の前が真っ赤になる。
お前はそう言って、モリアーティを殺すんだ。
正義とか言う薄っぺらい動機で、モリアーティ教授を殺すくせに。
ぎり、と引き金にかけた指に力を込める。その瞬間だ。
パァン!とその場に響いた銃声にモランは息を呑んで硬直した。
今のは自分ではない。視線を巡らせて気づく。橋の上に、モリアーティが佇んでいて頭上に向けて銃を握っていた。
今のは空砲だろう。
「全く、なにをやっているのかね」
ため息を吐いて、モリアーティは銃を下ろす。
「…きょう、じゅ。あの、申し訳」
「いいから、帰るとしよう。人が集まってきた」
モリアーティに見限られる恐怖から身を震わせたモランを一瞥し、モリアーティは淡々と言うと片腕を広げた。
「おいで、シャーロック」
「うん」
ホームズは迷いなくモリアーティに駆け寄った。その身体をモリアーティは抱き上げる。
「あ、あの、教授」
「モラン大佐。私は君を信頼している。
だから今回だけは許すよ」
そう言いながらも、その声音は冷淡だ。
「だが次はない。わかっているね?」
それが事実なのだろう。きっと、次はない。
「…はい」
モランは小さく頷いて、拳をきつく握りしめた。
翌朝、別邸を訪れたモランをモリアーティはリビングで出迎えた。
モリアーティの目の前には紅茶のポッドとカップが置かれている。
「おはよう、大佐」
「新聞に、面白い記事はありましたか?」
「ないね。少なくとも火災事件の生き残りの少年、狙撃されて死亡なんて記事はない」
紅茶を一口飲んでから、モリアーティはカップをテーブルに置く。
そして細めた瞳でこちらを見上げた。
「そうなって欲しかったかい?」
「…どうでしょうね」
「わからないのかい」
「正直なところ」
そう、それが本音だ。
ホームズに憎悪を、殺意を抱きながらも殺せなかった。
「私は今のまま、ホームズがあなたを親と慕って、殺せなくなればいいとも思っています。
でも、怖いんです。またあなたを失うのが。
あなたを殺すホームズの存在が、私は怖い。恐ろしい」
あの日以来、押し殺してきた想いをさらけ出す。
唯一人の主人は、モランを静かに見上げている。
「あなたは、怖くないんですか。恐ろしくないんですか」
「当然だとも」
それは、一切の迷いのない即答だった。
「私は彼を恐れない。最期まで」
その言葉に思い知る。ああ、そうか。そうだったのか。
彼は、モリアーティは、ホームズを恐れたことなどなかった。
だから、彼は今こうしてホームズと一緒にいられるのだ。
「だから君は静観しなさい。
私は彼の死を望んでいない。…今はね」
そう付け足す。それも本心だろう。だからモランはもうこれ以上、言い募ることはなかった。
「これに懲りたら勝手な真似はしないことだ。セバスチャン・モラン大佐。
僕は君を失いたくないのでね」
「…はは」
乾いた笑いが口を吐く。泣き笑いのような表情になった。
「あなたは酷い人だ。全てご存じでそんなことを仰る」
「なんのことかな」
素知らぬふりで答えて、モリアーティはまた紅茶のカップを手に取り口を付ける。
「私がホームズに嫉妬していることも。
あなたの心をそんなに焦がす相手が妬ましい。羨ましい」
「私は君を信頼している」
迷いなく告げられた内容にモランははっと息を呑んだ。
「それ以上になにが必要かね。モラン大佐」
「…いいえ」
ああ、そうだった。本当は、それ以上は必要なかった。
「いいえ、なにも」
絡まっていた糸がほどけるように、顔に浮かんだのは穏やかな微笑だった。
「あなたは、狡い御方だ」
詰る声も、ひどく優しい響きになった。




