第三話 私が殺すまで
ホームズがモリアーティの養子になって一ヶ月。
モリアーティは書斎で新聞を眺めてため息を吐いた。
不意に扉が開いて、ホームズが入ってくる。
「ジェームズ」
「ああ、どうかしたかい?」
笑顔で答えながら、新聞を引き出しにしまう。
「なに隠したの?」
「いや、隠したわけじゃないがね」
「放火犯のことなら知っているよ」
「…そう」
年に似合わずひどく聡明なホームズらしい返答に、モリアーティは困った顔になって引き出しからはみ出したままの新聞に視線を向けた。
「…これで四件目だ。警察も捕まえようと躍起になってるみたいだけど、この放火犯はひどく手際が良い。頭も良いみたいだ。警察には荷が重いかな」
「心配した?
僕が、親や兄の仇だと思って探しに行かないか」
巷を賑わせている放火犯は確実に同一犯。ホームズはソファに腰掛けると、にこりと笑ってモリアーティを見上げた。
「…まあね」
「ふふ」
「なんで笑うんだい?」
苦々しい口調で肯定したモリアーティに、ホームズは満面の笑みだ。
「ジェームズが僕を心配してくれるから」
「ふうん?」
「大丈夫だよ。仮にこの犯人が両親や兄の仇でも、僕一人じゃ捕まえられない。
そんな無茶はしないよ」
「…だといいんだけどね」
そうは思えないんだよなあ、というニュアンスのにじんだ声に、ホームズは目を丸くする。
「信用がないなあ」
「君はとびきり行動力があると知っているからね。
この私のお墨付きだよ、シャーロック」
「ふふ」
ホームズはまた笑う。嬉しそうに。
モリアーティが太鼓判をくれるたび、それがなによりの褒美であるかのように。
モリアーティは立ち上がって、机の上に置かれていたクッキーの載った皿をソファの前のテーブルに置く。
「食べるかい?」
「食べる」
「どうぞ」
勧めながら、モリアーティは紅茶をカップに注ぐ。
「ミルクも入れるかい?」
「うん」
紅茶にミルクを注いで、混ぜるとホームズの前に置いて向かいのソファに腰を下ろした。
「ねえ、ジェームズ。ジェームズは結婚しないの?」
「なんだい急に」
「今朝、ジェームズの親族が来てただろう?」
「まあ、一応こんなんでも伯爵家次男だからねえ。
厳密には爵位は兄が継いだから、私は伯爵ではないんだが」
内心見ていたか、と舌打ちしたくなる。迂闊な親族に対してだ。
養子を迎えたモリアーティの元に縁談を持ってくるということは、その養子を手放せと言っているようなものだからだ。
「モリアーティ家は資産が潤沢だから、狙ってくるご令嬢は沢山いるというわけさ」
「…そう」
「言っておくけど、君を私の養子にすることに反対した親族のことは気にしなくていいからね」
ミルクティーの入ったカップを手に取って一口飲むと、柔らかい甘さが咥内に広がる。
ホームズは目を瞬いて、モリアーティを見上げた。
「わかるの? 僕の考えたこと」
「わかるよ。私がどれだけ君を見ていると思っているのさ。
君のことなら、なんだってわかる」
そう、わかるんだ。魂の双子のように。
それくらい長い間、ずっと君を見て来た。
憎くて憎らしくて、疎ましくて、ずっと君を見ていた。
そんな自分の憎悪も知らず、屈託なくはにかむ顔がすぐそばにあって、絆されたわけでもないはずなのに、手を伸ばして髪を撫でる。
それだけでまた、その表情が弾けた。
「ジェームズ」
「なんだい? シャーロック」
「なんでもない。呼んでみただけ」
「そう」
憎くて憎らしくて、ずっと君を見ていた。
なのにくすぐったそうに笑う、目の前の子どもを突き放せない。
しっかりしろ。ジェームズ・モリアーティ。お前は犯罪王だろう。
そうだ。ホームズを育てているのは万全な状態で勝ちたいから。
今度こそ、ホームズを負かし、殺したいから。
それ以外の理由なんて、ないはずだ。
そうだろう? ジェームズ・モリアーティ。
その数日後だ。別邸を訪れたモランは、真っ直ぐ書斎にやってきた。
「なにかな、モラン大佐」
「おや、あの坊やは?」
「部屋で勉強中さ」
「なるほど」
顎に手を当てる、そんな仕草すら様になる王子様のような色男だ。
今はまだ18歳ほどだが、大人になった彼の色気は凄まじいとよく知っている。
女性関係のトラブルが絶えなかった。本当に。
「なにがなるほどだい?」
「前に偶然会った時に言っていたんですよ。
早くもっと賢くなって、ジェームズの隣に立つんだって」
微笑ましそうにモランは話して、モリアーティを横目で見やる。
「本当に好かれましたねえ、教授」
「黙りなさい」
一言低く言い放って、紅茶を口に運ぶ。ダージリンの香りが少し気分を鎮めた。
「で、調べた結果は?」
「お察しの通り、ホームズ家の放火犯とは別人ですね。
手口が異なります。ホームズ家の放火はガス灯の爆発。
今話題の放火犯の手口はオイルを使った放火。
もし同一犯なら、手口を変える理由がわからない」
モランは懐のポケットから手帳を取り出し、確認しながら説明する。
「そもそも、ホームズ家の放火は犯人が誰かすらわかっていない。
使用人の誰か、のはずですが、少なくとも内部犯。
夜、屋敷の中で自由に動き回れる人物のはず。
なのに使用人は全員顔を潰され、その上で焼かれている。
使用人の誰なのかすらわからない。犯行が計画的であり、極めて綿密だ。
それに対し、三件の放火は手口がかなりずさん。
目撃者さえいれば、すぐに捕まるでしょう。
その姿を見せないあたりは相応に頭が良いのでしょうが…」
そこで一旦言葉を切って、モランは瞳を細めた。
「そこまで調べさせて、なにがしたいんです? 教授」
「なにを? 馬鹿なことを聞く。
私はなにもしないよ。そんな小悪党、どうでもいいからね」
素っ気なく答えたモリアーティに、モランはテーブルに手を突いて顔を寄せる。
「教授の嘘つき」
そう耳元で囁いて。
「ホームズが危ないことをする前に、その犯人を捕まえたいからでしょう?
ホームズに罪を犯させたくない。危険な目にも遭わせたくない。
自分の宿命のライバルだからと、正しい名探偵シャーロック・ホームズでいて欲しいと。
あなたのそれは、本当にただの憎悪ですか? ねえ、教授」
「なにが言いたいのかね?」
じろりと睨み付けたモリアーティの視線を間近で受けて、モランは軽く身を引いた。
「いいえ? ただね、私はあなたを心底崇拝している。心酔している。
あなたが、この世界の全てだ。
あなたはご存じない。ホームズにあなたが殺された後、遺された私の慟哭を。
あなたは、なにも知らないで仇敵を守る。
それが少し、憎たらしい」
それはモランの本心だろう。そう声ににじんでいたのだから。
「面倒だなあ、君のそれ」
「はは、私もそう思います。私も大概、馬鹿ですからね」
先ほどまでの傾倒と執着の情念をさらりと隠して、モランは軽やかに笑う。
「あなたの頭脳に虜になった馬鹿。
ホームズもでしょう?
あなたを宿敵と睨みながら、あなたの頭脳に、あなたの生み出す謎に虜になっていた。
私もホームズも、同じ馬鹿です」
「…そうかね」
モリアーティは小さく息を吐き、それからモランから受け取った手帳の紙面を眺めて、ふとなにかに気づいたように口元に手をやる。
それだけで、モランも気づいたようだ。
「教授。ホームズは部屋に?」
「ああ、自室にいるはずだが」
その会話から、すぐに二人は書斎を出てホームズの部屋に向かう。
ノックをしたが返事がない。扉を開け放つと、窓が開いていた。
中はもぬけの殻だ。
「…まずいかもしれません」
モランは気配に聡い。会話を聞かれたということはないはずだ。
ならば、最初からホームズは勉強するふりで、放火犯を捜しに。
人気の無い道。そこに佇む少年が、ある家の裏手に立っていた男を指さした。
「見つけた。あなたが放火犯だ」
その言葉に男が息を呑む。
「な、なにをいきなり」
「あなたは、五芒星を描くように放火を行っていた。
犯行現場の家の焼け跡から、五芒星のような血の跡が発見されましたよ。
そして犯行も五日置き。気づくなと言う方が無理だ」
言うなりホームズは身を低くして男の足の間をすり抜け、男のジャケットのポケットを引っ張る。
そこから着火剤とオイルがばらっと落ちて来た。
「ほら、動かぬ証拠だ」
「この…っ!」
にっと笑ったホームズに向けて、男がナイフを取り出し振り上げる。
「シャーロック!」
すぐその場に響いたのは焦ったようなモリアーティの声だ。
一瞬で男の間近まで接近したモランが、男の腹を蹴っ飛ばした。
男は吹っ飛ばされて地面に倒れる。動かないから意識を失ったのだろう。
「大丈夫か!? シャーロック!」
「う、うん」
ホームズの目の前にしゃがみ込んだモリアーティがその小さな肩を掴んで余裕の欠片もない声で安否を確認した。
驚いたように頷いたホームズの頬を、モリアーティが平手で一発叩く。
じん、と痛んだ頬に手を当て茫然としたホームズに、モリアーティは切羽詰まった顔で怒鳴る。
「馬鹿者が! 死にたいのか!
相手は何人も殺している犯人だぞ! お前だって殺される可能性があったんだ!
なんて馬鹿な真似を…っ」
そう詰って、声を途切れさせてモリアーティは自身の顔に手を当てる。
「…馬鹿な、真似を」
その声が擦れた。
「…はあ、」
脱力したようにホームズを抱きしめたモリアーティに、ホームズは戸惑っている。
「ジェームズ…? …震えてる」
「驚いたからね…」
「心臓の音、うるさいよ」
「びっくりしたから」
「腕の力、痛くて苦しい」
「…だから、驚いて」
「教授、もう認めたらどうですかね」
苦笑したモランの声が頭上で降る。
「心配したんだって」
その言葉にホームズは目を限界まで見開いた。
「しん、ぱい。…ジェームズが、僕を」
心配したと聞いた。それを、どこか冗談だと思っていたのかもしれない。
「…ああ、そう、そうなのかな。
…そうなんだろうかな」
ホームズの小さな肩に顔を埋めたまま、モリアーティは曖昧に呟く。
「私にも、よくわかんないや」
「…ジェームズにも、わかんないことがあるんだ」
「あるみたいだよ。シャーロック」
まるで他人事のような返答に、ホームズはくすくすと笑った。
「お前といると、わからないことが増えていく」
「嬉しい。僕も、ジェームズといるとわからないことが増えていくんだ。
ジェームズと一緒にいると嬉しくて楽しくてくすぐったくて、わからない不思議な気持ちが増えていく」
その笑いが崩れて、泣きそうに、くすぐったそうにはにかんだ。
「ジェームズも、一緒なんだ」
ゆっくりと顔を上げたモリアーティの頬に小さな手を添えて、ホームズは破顔する。
「僕と、おんなじだ」
「ああ、そうだね。…おんなじだ」
(お前に、死なれたら困るんだ)
そう心の中で呟いて、目の前の身体をもう一度抱きしめる。
彼の暖かい体温を感じた最初は、あの滝の上。
それから何度、感じる時があるだろうか。
憎くて憎らしくて、疎ましくてずっとお前を見ていた。
だから死ぬな。まだ死ぬなシャーロック・ホームズ。
お前を殺すのはこの私だ。だからまだ死ぬな。
誰にも殺されるな。どうか、
(私に殺されるそのときまで、どうか生きていろ)
あの、滝の上で決着をつけた、その日までは。




