第二話 理解者
「それで養子として引き取っちゃったんですか」
やや呆れ気味の声に、モリアーティはつい半眼になる。
「なにか文句あるかね。セバスチャン・モラン大佐」
じとりと、書斎の机の前に腰掛けた自分の視界に佇む三人のうち、一番背の高い金髪碧眼のいかにも貴族然とした美しい青年に目を向けた。
「今はまだ大佐じゃありませんよ」
そうその貴族家の嫡男たるセバスチャン・モランは涼しい顔で答える。
婦女たちなら一目で夢中になるだろう眉目秀麗な顔立ちにため息を吐き、突いていた頬杖をやめた。
「仕方なくだよ。私は確かに奴を殺したいがね、私の敗北をなかったことにして満足はしないのだ。今度こそ真正面から奴と戦って、勝ちたいのだよ」
「なるほど。まあ、いいんじゃないですか?」
モリアーティの返答に肯定を返したのは黒髪にひょろりとした体格の青年だ。名をフレッド・ポーロックという。
「それに養親として育てていれば、あのホームズにも情が芽生えて教授を殺せなくなるかもしれませんしね」
「情、ねえ」
「半信半疑な口調だネ?」
怪訝な顔で首をかしげたモリアーティに、反対方向に首をかしげてみせたのは外国訛りのある声。長い赤い髪に糸目の胡散臭い風貌の青年、フォン・ヘルダー。
「そもそも私たち四人に時間が巻き戻る前の記憶があるのに、奴にはないんだよ?
おかしいと思わないか?」
「まあ、確かに」
現在モリアーティ家別邸の書斎に集まっているのはモリアーティのかつての部下だ。
セバスチャン・モラン。フレッド・ポーロック。フォン・ヘルダー。
彼らも記憶があったため、思い出してすぐコンタクトを取ってきた。
それぞれまだ十代後半の若者だ。
「そのうちに思い出したりして」
「そう、それだよ」
フレッドの冗談にモリアーティは据わった目で指さす。
「思い出したら私のことなんて、奴は殺す以外の選択肢など浮かばなくなるだろう」
「そうですかねえ」
今度半信半疑の声を上げたのはモランだった。
「私が見た限り、彼はかなりあなたに懐いていましたよ?
だからあなたに愛情が芽生えれば、彼はあなたを殺せなくなる」
「情なあ…」
「疑い深いなあ教授」
「だって奴、人の心なかったもん。人の心がない名探偵だったもん。
ワトソン君以外に情のないあの男に他人に対する愛情なんて」
ないよ、とぶっきらぼうに放ったモリアーティに、モランはにやにや笑って、
「そんなこと言って、まんざらでもないくせに」
と指摘すると机に手を突いて、モリアーティに身を寄せた。
「決してホームズ、という名を出そうとしないところ、万一彼に聞かれたらと心配しているのが丸わかりですよ。教授」
そう、万が一にも部屋の外に聞こえないよう耳元で囁いたモランにモリアーティはぐうの音も出ない表情で黙り込んだ。
不意にコンコン、と書斎の扉をノックする音が響く。
「おや、坊やが来たようだ。では私たちは失礼しますよ。教授」
「ではまたネ」
「じゃあまた」
それぞれに挨拶をして、彼らは扉に向かうと鍵を開けた。すぐ扉が外から開く。
ひょこ、とまだ背の低い少年が顔を覗かせた。
「やあ坊や、数学の授業のお時間かな」
「あなたたちには関係ありません」
身をかがめてにこりと微笑みかけたモランに少年、もといホームズはふいっと素っ気なく顔を背ける。
「そうだね。関係ないね」
「はい」
そのわかりやすい態度の差に、モリアーティは思わずため息を吐いた。
そして椅子から立ち上がり、机の前に立つ。
「おいで、シャーロック」
「ジェームズ」
モリアーティに呼ばれて、ホームズはぱあっと顔を輝かせると危機として駆け寄った。
それを眺めて、三人は書斎を出る。
「ほらご覧。わかりやすいことだ」
「だねエ。あれは相当教授に懐いているヨ」
「まだ親代わりとまでは行かないまでも、それも時間の問題だなあ。
それに肝心の教授が気づいていないわけだけど」
どこか楽しそうに話すモランに、ヘルダーも興味津々の様子だ。
「君は止めないんだネ? モラン大佐」
「だから今はまだ大佐じゃないって」
「君は、ホームズを一番憎んでいたはずダロウ?」
「そうだけどねえ」
ヘルダーらしい訛りのある声に言われて、モランは肩をすくめる。
「まあ今は様子見さ。もし奴が教授に牙を剥くなら、そのときは容赦なく殺す。
それだけだよ」
「まあ、それはワタシたちもだネ」
「そうだな」
美辞麗句がいかにも似合いそうな華やかな微笑で物騒なことを口にしたモランに、ヘルダーとフレッドも頷く。そのまま三人は廊下を歩いて行った。
「完璧だ! 素晴らしい理論だよジェームズ!」
「そう君に言ってもらえるのは有り難いね」
その一時間後の書斎、モリアーティの説明にソファに腰掛けたホームズは顔を紅潮させてモリアーティを賛美した。
「『小惑星の力学』。確かにこの理論なら惑星を破壊出来る。ジェームズは天才だ」
「ありがとう」
「なぜこれを学会で発表しないんだ?」
「したよ?」
心底不思議そうなホームズにモリアーティがあっけらかんと答える。
ホームズは間の抜けた顔になった。
「え」
「したけど鼻で笑われて終わりさ。俗人は、真に優れたものを受け入れられるようには出来ていないのだよ」
「そんな…。こんな完璧な理論だと、僕ですらわかるのに」
ホームズは自分が感銘を受けた完璧な理論が、一笑に付されたという事実が受け入れがたいようだ。だが世間から見て、希有なのは自分やホームズのほうだとモリアーティは知っている。
「君は私と同じだからわかるのだよ」
「同じ?」
モリアーティの言葉にホームズは目を瞬く。
「同じ地平に立てる天才だから、さ」
「同じ地平に…」
モリアーティの台詞を反芻して、ホームズはぎゅうっと膝の上に置いた手を握った。
「僕は、ジェームズと話すのが楽しい」
そう、瞳を煌めかせてモリアーティを見上げた。
「いつも、僕の言うことを誰も理解出来なかった。
兄以外、誰も僕の言うことを理解出来ずに笑った。馬鹿にした。
そんな奴らのために自分を抑えるなんて嫌だった。
つまはじきにされてでも、僕は僕でありたかった」
その気持ちは、モリアーティにも理解出来るものだった。
誰も自分を理解出来なかった。そうだ、その歯がゆさを、孤独を知っている。
理解出来たのは、お前だけ。
「でも、ジェームズは僕の言うことを全部理解してくれる」
その想いすら、ホームズは同じだった。
「ジェームズと話す時は、僕は世界で一番自由だ。
ジェームズが僕の知識を解放してくれる。
ジェームズだけが、僕の理解者だ」
「…そうだね」
その歓喜を自分は知っている。その上で、それが脅威だと排除することを選んだ自分を、まだ目の前の天才は知らない。
「私も、同じ鬱屈を長い間抱えていた。
誰も私の頭脳を理解出来なかった。
跪く者はいても、となりに肩を並べて立てる人間がいなかった」
ああ、だから今だけは言える。
「なのに、君がいた」
「僕が…」
「君だけが私のとなりに肩を並べて立てる。
君だけが、確かに私の理解者なんだろうね」
その嘘偽りのない言葉にホームズは瞳を輝かせ、頬を上気させてソファから立ち上がった。
「ジェームズ!」
そのままモリアーティの前まで来てモリアーティの腰に抱きつく。
飛びついてくる幼い子どもの高い体温に、まだ慣れない。
「もっといろんな話を僕に聞かせて。ジェームズの話を。
どんなに難しい話でもいいよ。僕はきっとわかるから」
そんなモリアーティの気持ちも知らないで、ホームズはモリアーティの胸に頬を寄せて満面の笑みで興奮したように話すのだ。
「ジェームズの話は楽しい。嬉しい。
僕はもっと、ジェームズの話が聞きたい」
「……それは、私もだよ」
そう、自分もだ。
かつての自分たちは敵だった。だからこんな風に知識を競わせ話すことも出来なかった。
今はそれが出来る。お前が大人になるまでの、つかの間だとしても。
「私も君の話が聞きたい。シャーロック」
そう告げたモリアーティに、ホームズはモリアーティの胸に抱きついて嬉しそうに笑ったのだ。
その日の夕方だった。ホームズと一緒に散歩に出かけたモリアーティは、不意に走り出したホームズを追いかけて曲がり角を曲がる。
そこにホームズは後ろ姿で佇んでいた。
「シャーロック」
わずかに安堵の息を吐いて、そのそばに歩み寄る。
「どこに行っていたんだね。探したよ」
「ごめんジェームズ。ちょっと」
振り向いたホームズの腕の中から、小さな犬がひょこんと顔を出し愛らしい声で鳴いた。
「犬だね」
「迷子なんだと思う」
「…飼い主を探そうか」
モリアーティは嘆息を吐き、首輪の嵌まった犬を見下ろした。
二人並んで道を歩き出す。
「私が抱こうか?」
「大丈夫だよ」
はっきり答えたホームズは、すぐあることに気づいたように寂しげにする。
「でも、これだとジェームズと手を繋げないね」
「…本当に懐かれたな」
モランの言葉を反芻し、モリアーティはつい小声で呟く。
「なにか言った? ジェームズ」
「いいや」
「メアリー!」
身長の低いホームズの耳には、高い位置から発されたモリアーティの声は聞こえなかっただろう。それに誤魔化す必要はなくなった。血相を変えた女性が走ってきたからだ。
「おや、飼い主さんか」
「メアリー!」
駆け寄ってきた女性に、犬がホームズの腕の中から飛び出し、女性に抱きつく。
女性は尻尾を振る犬を抱き上げて、モリアーティたちに一礼した。
「すみません。うちのメアリーが」
「お礼ならこの子に言い給え。見つけたのはこの子だ」
「ありがとう。坊や」
モリアーティに言われ、女性はホームズに笑顔を向ける。
それから似ていない二人を交互に見やって、
「ええと、親御、さん?」
と戸惑ったように尋ねてきた。
それを曖昧に誤魔化し、犬を抱えて去って行く女性を見送って、モリアーティはため息を一つ。
「シャーロック、帰るよ。…どうしたんだい?」
道の途中に立ち止まったままのホームズを見て、モリアーティは目を瞬く。
大股で近寄ってその背を軽く押して促すと、ホームズはどこか拗ねたような顔をした。
「ジェームズは、…僕の親ではないよね」
「それはそうだろう。出会ったばかりの私が親だと名乗ったら、君のご両親に悪い」
「…そうだね」
ぼそりと呟く声は明確に不満げだ。
本当に、想定外に懐かれている。
彼の親と自分なんて、彼の中で比べるべくもないはずなのに。
「嘘を、一個吐いた」
「なんだい?」
「兄とは、制限なく話せた。ジェームズだけじゃ、なかった。
兄だけは、僕の理解者だった。
そのはずだった」
うつむいて、ホームズは小さな声で告白する。
「いつからか、兄は僕の話を聞いてくれなくなった。
理解者ではなくなった。
だから、僕の話を真実理解してくれるのは、ジェームズだけなんだ」
そう言って、顔を上げて縋るようにモリアーティを見上げた。
「神に誓って本当だよ」
泣きそうに言い募ったホームズに、モリアーティは小さくため息を吐き、困ったように微笑した。
「それは嘘だね」
「ジェームズ、僕は本当に」
「君の気持ちを疑ってるんじゃない。君のお兄さんのことだ」
「え」
全く、不器用な兄弟だ、と思う。
「君のお兄さんは、君の理解者じゃなくなったわけではないだろう。
君の話を聞いてくれなくなったわけではないだろう」
知っている。時間が巻き戻る前の世界で「政府そのもの」だった彼の兄。
その頭脳は、ホームズや自分に及ばないだけで相当なものだった。
「君のお兄さんは、理由があって君の話を聞かなくなっただけで、君の理解者でいたくなかったわけではないだろう。
そうだね。多分君の優れた頭脳を、きっと世界の誰よりよく知っていた。
だからこそ、その頭脳はやがて自分を追い越すと気づいた。
君の理解者でいられなくなってしまうことが悲しかった。
だから、先に君を突き放したんだろう。
君の心の中でだけでも、理解者でいたくて」
「………僕の、心の中で」
息を呑んで自身の胸に手を当てたホームズに、モリアーティは微笑んでその頭を撫でてやる。
「だから、君のお兄さんは君を心底愛していたということさ。
私の太鼓判だよ。疑うかい? シャーロック」
「…ううん」
ふる、と小さな頭を振って、ホームズは目元を袖で拭う。
顔を上げた彼の瞳にはまだ涙が光っていたけれど、その顔には笑みが浮かんでいた。
泣き笑いに似た、嬉しそうな笑顔だ。
「疑わない。ジェームズは僕のことで、いつだって一番正しい」
そう心底信じた口調で告げて、それから期待したようにこちらを見上げる。
「だから、お願いを一個、いい?」
「いいとも。言ってご覧」
頷いたモリアーティにおずおずと手を差し出して、まだ幼い声が希う。
「手を、繋いで欲しいんだ」
懐かれている。わかっている。
それでも、今はいいさ、とモリアーティは結論づけた。
「ああ」
手を伸ばして、その小さな手を掴んだ。
そうして夕暮れに染まった道を歩き出す。
いつまでこの手を繋いでいられるのかわからないけれど。そう思いながら。




