第一話 犯罪王、名探偵の養親になる
これは二度目の人生だ。そうジェームズ・モリアーティは思う。
自分はライヘンバッハの滝で宿敵であるシャーロック・ホームズと決着を付けようとし、一緒に滝に落ちて死んだ、はずだった。
だが気づいたら時間が巻き戻っていた。三十年近く前に。
(なんで? 普通こういうのって一年前とか数年前とかが定石じゃない?)
さすがに三十年近くは巻き戻りすぎだ。ファンタジー小説でだってないだろう。
そう自宅であるメイフェアのモリアーティ家の別邸で、モリアーティはため息を吐いた。
この別荘は生家であるモリアーティ伯爵家のものだ。現在のモリアーティはまだ二十代の若造。両親も存命である以上、あまり好き勝手は出来ない。
まあ、寄越される縁談は無視しているが。
書斎のソファに腰掛け、紅茶を口に運んで悩んでいたことは、ホームズをどうするか、だ。
今の奴は確か7歳くらい。殺すのは容易い。
そのために神か悪魔がここまで時間を巻き戻したのならば、いっそ殺してしまおうか。
だがこういうのって、バタフライエフェクトが働くんじゃなかったっけ。いやフィクションの小説のお話だけど。
そう悩みながら、ふと積みっぱなしになっていた新聞に目が行く。
ソファの前のテーブルに積まれた新聞は、時間が巻き戻ってから手つかずになっていたものだ。
まあ当時の社会の情勢なんて頭に完璧に入っているけど、時間が巻き戻っていたというイレギュラー事態があるのだからなにか異変があるかも、と新聞を一番上から手に取って目を通す。
そのまま流れるように読み進めていたが、ある一点で視線が止まる。
『火災で住宅が全焼。末の息子を除いて全員死亡』
それだけなら「ああ、そう、お気の毒」と読み流していただろうがその家の名前がそうさせなかった。
モリアーティは立ち上がると素早く身支度を調え、屋敷を出る。
馬車に乗って向かったのはその燃えた住宅があった場所だ。
一刻も早く、行かなければ。
そしてモリアーティは現在、ある孤児院の前にいる。
火災に遭った邸宅に赴くと、近所の住民が貴族の自分におののいて、事情を話してくれたのだ。
『あそこの坊ちゃんは可哀想に孤児院に預けられてね。
そう、遺産はあったらしいんだけど親族が横取りして、用済みになった坊ちゃんは孤児院にぽいだよ』
ずいぶん同情していた住民の言葉にしたがってやってきた孤児院の扉を叩くと、程なくシスターが顔を出した。
「こんにちは。私はモリアーティと申します。
こちらの孤児院に寄付をしたくて参りました」
にっこり微笑んでそう話せば、シスターはすぐに満面の笑顔になって中に案内してくれた。
どこの孤児院も経営は厳しい。モリアーティの名と身なりで貴族だとすぐにわかったのだろう。貴族からの寄付は当然有り難いはずだ。
「本当に助かりました。新しい子が入って、厳しかったところだったんです」
「ああ、聞きましたよ。火事で家族を失ったとか。
実は私はその子の家族と縁がありまして、それで放っておけなかったのです」
「そうだったんですね。じゃあその子のところに──」
孤児院の廊下を歩きながらシスターと話していると、不意に子どもの怒鳴り声が聞こえてきた。
「おれがやったって証拠があるのかよ!」
「ああ、もちろんだとも」
ガキ大将のような子どもに向かって、七歳らしくないこまっしゃくれた口調で彼は答える。
「まずその胸元の泥は花瓶に泥を入れた時についたもの。その指の爪の間にも泥が残っている。君は僕が気に入らないからと、花瓶に泥を入れ、それを僕の仕業にしようとしたわけだ」
「うっ…」
「そっ、そんなこと言って、お前がやっていないっていう証拠があるのかよ!」
理路整然と話す黒髪の少年に、向かい合ったガキ大将の仲間の子どもが反論する。
「なあ、ホームズ!」
そう、その少年の名を呼んだ。
ホームズと呼ばれた少年、もといシャーロック・ホームズは涼しい表情をしてふむ、と顎に手を当てた。
「やっていないことを証明することは難しい。悪魔の証明だ。
君がやった。その証拠で納得して欲しいものだがね」
声変わり前の声が、困った様子なく話す。
「このっ…!」
「はいはいそこまでだよ」
さすがにそれ以上放置する気もなかったのでモリアーティは割って入ると、ホームズに掴みかかろうとした子どもの首根っこを掴む。
「おや、君の指の爪の間にも泥が残っているね?
それが充分な証明のはずだよ。大人しくお縄につきたまえ」
「…っくそ!」
モリアーティにつまみ上げられた子どもはじたばたと暴れるが、シスターの「やめなさい! モリアーティ伯爵様ですよ!」という声に息を呑んで固まった。
孤児院にいる子どもと言えど、貴族に無礼を働いたら命がないという認識はあったらしい。大人しくなった子どもを床に下ろし、ホームズに視線を向けるとわずかに驚いた幼い顔がこちらを見上げた。
「シスター。なぜ伯爵様が?」
「あなたのご家族と親交があったからと、大量の寄付をくださったのよ」
「…へえ、そうなんですか」
その声はやけに冷ややかだ。疑っているのだろう。
「初めまして。モリアーティ伯爵様。
シャーロック・ホームズです。
それで、落ちぶれた家の息子になんの御用で?」
そう子どもらしさの欠片もない口調と表情を見せたホームズに、モリアーティは内心思った。
(可愛げねぇ~~~!)
親を失って数日の子どもの顔じゃないよこれ。やっぱりホームズはホームズだ。
「遊びに来た、と言ったら信じるかな?」
「それはそれは、面白いことを仰る」
「そうだね。私は君たちと遊ぶより、数学を教えるほうが向いているようだ」
「…数学」
不意にホームズの目が煌めいた。
モリアーティが数学の天才だと、どこかで聞いたのかもしれない。
爛々と輝く瞳は、知的好奇心を刺激された猫の目そのものだった。
孤児院の一室を使って、子どもたちに数学を教える。
だがほとんどの子どもはつまらないと言って出て行ってしまった。
残ったのはホームズだけだ。
「この公式は、そう、これを使うんだ」
「わかりました」
「ふむ、やはり君はのみ込みが早いなあ」
やはり地頭が賢いと違うんだろうな、とは思う。
自分にしろホームズにしろ、持って生まれた頭脳が他とは違うのだから。
「あなたは、数学の天才だとお伺いしました」
「そうだね。およそ、数学で私にわからないことはない」
コツコツと靴音を鳴らして室内を歩きながら、モリアーティは黒板の前に立ってコン、と黒板を叩く。
「今に見ていなさい。惑星を落とす理論すら、私は実証してみせよう」
「惑星を落とす理論…」
「そうだとも。私の手にかかれば、惑星を落とすことすら容易だ」
「ふっ」
自信に満ちた顔をして告げたモリアーティに、ホームズが小さく吹き出す。
そのまま「あはははは」と笑い出した。
「そんなに笑われると傷つくなあ」
「すみません。馬鹿にしてはいませんよ。あなたなら可能だと思っただけです」
ホームズは子どもらしくない口調で、こちらを真っ直ぐ見上げる。
「あなたのその常に企んでいそうな顔で語られると、楽しくて。
ずっと聞いていたいくらい」
「…ふうん? まあそれは本心だろうけどね」
モリアーティはそう返すとゆったりした足取りでホームズに近寄って、椅子に座ったホームズの頭を軽く小突く。
「君は、もう少し子どもらしくあることを思い出したほうがいい」
その刺激にホームズが目をぱちぱちと瞬いた。その矢先だ。
「火事だー!」
子どもの叫び声が不意に外から響いた。
「火事だー! 逃げろー!」
複数の子どもたちの声だ。だがすぐモリアーティは気づいた。
その声は、あの子どもたちの声だと。
気づかないほかの孤児院の子どもたちが慌てて、中には泣きながら逃げ出す。
「全く、困った坊やたちだなあ」
そう呟いたモリアーティは、ふと視線をホームズに向けて息を呑む。
背筋を凍らせるような、絶対零度の表情がそこにあった。
庭に出ると、既にあのガキ大将たちはシスターに叱られていた。
悪戯だとわかったからだろう。
シスターの叱責に対し、ガキ大将たちは「小火が見えたんですぅ」とふざけた口調でへらへらしていて、まるで悪びれていない。
「あ、ホームズ。無事だったか~? 火事だからなあ。
怖かっただ…っ!?」
止める暇がなかった。まるで弾丸のように飛び出したホームズの小さな身体がガキ大将に体当たりして、倒れたガキ大将に掴みかかる。
そのまま共犯の子どもたちと一緒に取っ組み合いの喧嘩になったホームズの顔を見て、モリアーティはため息を吐いた。
あれは火事で家族を亡くしたホームズへの嫌がらせだ。
ホームズもそれがわかっていたからこそ、怒髪天を衝いたのだろう。
可愛げがない子どもだと思っていた。
けれど無我夢中で振り上げられる拳。今にも叫びだしそうな横顔。その瞳。
なにもかもが、ホームズの慟哭を物語っていた。
なのにその瞳から涙は流れないのだ。決して。
もどかしいわけじゃない。そんな優しさは自分にはない。
ただ、腹立たしいだけだ。
あのまま育って、ホームズは自分の知るあのいつだって涼しい顔をしたシャーロック・ホームズになるだろうか。果たして。
モリアーティは足を踏み出すと、ホームズの首根っこを掴んで、取っ組み合いを制止する。
「もういいだろう。やめなさい」
「離し…っ!」
「ああ、まだ気は済んでいないだろう?
だがね、シスターが心配するし、ほかの子どもたちも泣きそうだ。
だからやめなさいと私は言ったんだよ」
「…っ」
ホームズの胸中を読んだモリアーティに、ホームズは息を呑むと、悔しげな顔をしてそのままうつむく。
ひどい格好だ。服はぼろぼろだし、泥だらけで傷だらけだ。
相手のガキ大将たちも似たようなものだった。
「そいつが悪いんだ! いきなり殴りかかってきて!」
「黙りなさい」
もう安全だと思ったのかホームズに責任転嫁したガキ大将に、モリアーティはぴしゃりと言い放った。
「人の心の傷を抉って、塩を塗りたくってそれで笑って、楽しかったかね?
それを楽しいと思う限り、君はろくな人間にはならないよ。可哀想にね」
欠片も感情の乗っていない、冷たい声音にガキ大将たちが息を呑み、身を竦ませる。
完全にモリアーティが自分たちを見放したと理解したからだろう。
今日出会ったばかりの人間だろうと、大人に見放されることは寄る辺ない子どもには大きな恐怖だ。
「おいで。ホームズ君。傷を洗おう」
腕の中で大人しくしているホームズに言って、だらんとした手を引いて歩き出す。
ホームズは黙ってついてきた。
庭にある蛇口をひねって、出て来た水でホームズの傷口を洗う。ついた泥も落としたが、服についた泥は洗濯しないと落ちないだろう。
「…変な人だ」
ややあってホームズがぽつりと呟いた。
「あなたは、正しい人ではないはずなのに、正しいことばかり言う」
「ほう? 私が悪人だとよく気づいたね?」
「…なんとなく。僕の親の知人だと言うのも嘘だ。だから悪人だ。
なのに、…胸に残ることを言う」
「ホームズ君」
ぽん、と手を伸ばしてホームズの頭を撫でる。ホームズが目を瞬いた。
「悪は悪なりに、許せないことがあるものさ。
君があの嘘を許せなかったようにね」
そう、君がこのまま、歪んだ正義を振りかざす名探偵になったら、きっと自分は許せないのだろう。
誰の目にも正しい名探偵シャーロック・ホームズ。そんなお前に負けたからこそ、まだ納得もしたものを。
「私はね、本当によく知っているんだよ。
君を、よく知っている」
誰の目にも正しい名探偵シャーロック・ホームズを、知っている。
あのままあの日は別荘に帰宅した。
どうしたものか、と思う。あのまま育って、ホームズは正しい名探偵シャーロック・ホームズになれるだろうか。
そもそも大人になれるかもわからない。
栄養的な問題。そしてもし伝染病が流行った場合、命を落とすのはああいった子どもたちからだ。
なにを考えている。ジェームズ・モリアーティ。
お前はシャーロック・ホームズの死を望んでいたはずだろう。シャーロック・ホームズが落ちぶれ、死ぬことを願っていたんじゃないのか。
わかっている。わかっているのに、あの日見た、ガキ大将たちに殴りかかっていく彼の横顔が、その瞳ににじんだ慟哭が瞼の裏から消えない。
散々、部下を使って人を殺し、そんな悲しみを生み出して来たはずのこの自分が。
「そうだ。私を倒すのは、誰の目にも正しい名探偵シャーロック・ホームズでなくては」
寝転がっていたソファから起き上がって、コートを身に纏うと屋敷を出る。
馬車で向かう先はあの孤児院だ。
孤児院の庭では子どもたちが遊んでいる。だがそこにたどり着く前に、モリアーティは足を止めた。孤児院の門の前で、ずっと誰かを待っていたかのように立っているホームズの姿を見つけたからだ。
ホームズはモリアーティに気づいて息を呑み、目を見開く。
すぐ恥ずかしそうに視線を逸らした姿を見て、ずっと自分が来るのを待っていたのだと知る。
だからモリアーティは歩み寄って、ホームズの前にしゃがんで言った。
「私のところに来ないかい?」
「…え」
「私のところに来ないか、と言ったんだよ」
ホームズは目を見開いて、モリアーティの顔を見上げる。
時間が巻き戻る前とは違う、老人の姿じゃない、銀髪に紫紺の瞳の美しい二十代の青年の姿で、向かい合う彼もあの涼しい顔をした青年ではない、黒髪の幼い子どもで。
「君、火事の日から一度も泣いていないだろう?」
「…それが、なんですか」
「君は、家事を起こした犯人を憎んでいるだろう」
あの火事は放火だった。犯人がいる。その犯人を、ホームズが憎まないはずがない。
「復讐してやりたい。そう思っているんじゃないかね」
「…悪いことですか?」
「いいや、因果応報。犯人には罰があるべきだ」
「なら」
「だがね」
モリアーティは手を伸ばして、そっとホームズの頭を撫でた。
「君は泣かないといけない」
静かに、優しくそう告げる。お前が心配なのだと、それ自体は嘘ではないから。
「押し殺して口を閉ざしていては、いつかその感情の正体がわからなくなってしまう。
はけ口を求めて、その正義が歪んでしまう。
君は正しい正義の名探偵であるべきだ。誰の目にも正しい名探偵シャーロック・ホームズになるべきだ。
だからこそ、その正義の天秤が歪んではならない。
感情を殺して、憎悪を閉じ込めていては、いつか心が壊れてしまう」
誰の目にも正しい名探偵シャーロック・ホームズ。私を殺した宿敵。
お前が、お前の正義が歪んでしまうのは、お前に倒された私が許さない。
「泣きなさい。君の正義の天秤が歪まないために。
泣きなさい。素直に家族への愛情を叫べるようになるために。
歪んだ正義の天秤で、正せる悪などないのだから」
モリアーティの瞳に映るホームズの瞳が苦しげに歪んで、潤む。
ぎゅうっと、ズボンを掴む小さな手はまだ傷だらけだ。
ぽんぽん、と頭を何度も撫でる。撫でてやる。彼の親の代わりになどならないことは承知で。
「私が許そう。泣きなさい。シャーロック・ホームズ」
瞬間、小さな身体が胸元に飛び込んできた。
そのままきつくしがみついて大声で泣き出したホームズを抱き返し、優しく髪を撫でる。
泣きじゃくるかつての宿敵の背中を何度も撫でて、彼が泣き止むまでそうしていた。
その小さな手を引いて、メイフェアの別邸の前に立つ。
「やれやれ…」
そう小さく呟いた。そのモリアーティの隣には、満面の笑みを浮かべたホームズが立っている。
いや、うちに来いって言ったの私だけどさ。なに本当に引き取ってきちゃってんの。
そう思ったけど、仕方ないじゃないか。
「ねえ」
「なんだい? ホームズ君」
「違うよ」
再会した時より幼い口調で、邪気なくホームズが言う。
「あなたは僕を引き取ったんでしょう?
家族になるんだから、『ホームズ君』はおかしいよ」
「…それもそうだね。じゃあ、シャーロック」
「うん」
名を呼んだだけで嬉しそうに笑う、この子を本当にどうしようか。
そう悩んだって、結論は一つだ。
誰の目にも正しい名探偵シャーロック・ホームズに育てる。
その上で、この手で倒す。それが、自分の宿願だから。
「あなたのことはなんて呼べばいい?」
「…そうだね」
だからこれはつかの間のおままごと。だからいいじゃないか。
そう思って彼の目の前にしゃがむと、笑ってみせる。
「ジェームズと呼びなさい」
「うん、ジェームズ」
「よろしい。じゃあ、君の部屋に案内しようか」
そう言って立ち上がって、また差し出されたその手を握って玄関の扉を開ける。
これから二人で幾度となく繰り返す、生活の始まりだ。




