超えかけた線
朝、鐘が鳴った。
いつもより、少しだけ長い。
鳴り終わりが、曖昧だった。
ユウトは布団の中で目を開けたまま、動かなかった。
数えそうになって、やめる。
代わりに、音が消えるまで待った。
外に出る。
空は澄んでいる。
雲も高い。
なのに、村の中が妙に静かだ。
人はいる。
動いてもいる。
でも、動きが揃っていない。
畑へ向かう途中、子どもが走っていくのを見た。
途中で、止まる。
立ち止まって、首を傾げる。
何かを探しているような仕草。
「どうした?」
ユウトが声をかけると、子どもは顔を上げた。
「……あれ?」
曖昧な声。
「今、何かあった?」
「ううん」
即答。
でも、納得していない顔。
子どもはすぐに走り出した。
さっきと違う方向へ。
ユウトは、その背中を見送った。
胸の奥が、少しだけざわつく。
理由は、分からない。
畑では、ガイルが一人で作業していた。
今日は鍬を持っている。
でも、振らない。
地面に立てて、支えにしている。
「……掘らないんですね」
ユウトが言う。
「掘る前だ」
「何を?」
ガイルは、地面を見たまま答えた。
「線を見る」
「線?」
「見えない線だ」
それ以上、言わない。
ユウトは、地面を見た。
何もない。
ただの土。
それなのに、目を凝らした瞬間。
ほんの一瞬だけ、感覚がずれた。
距離が、近い。
足元が、自分のものじゃないみたいに感じる。
「……っ」
息が詰まる。
ユウトは、反射的に一歩引いた。
その瞬間、感覚が戻る。
「踏み込むな」
ガイルの声。
いつもより、低い。
「そこは、まだだ」
「……まだ?」
「越えると、戻れない」
短い。
でも、重い。
ユウトは、何も聞かなかった。
聞けば、越える気がした。
昼。
宿の中。
アーシャが食器を拭いている。
手つきが、少し早い。
「さっきね」
何気ない調子。
「お客さんが、同じ質問を三回したの」
「同じ?」
「うん。言い方も、間も」
笑おうとして、やめる。
「でも、気づいてなかった」
「……本人は?」
「覚えてないって」
言い切り。
ユウトは、湯飲みを持ったまま、動かなかった。
「大丈夫、ですよね」
自分に言うみたいに聞く。
アーシャは、拭いていた皿を置いた。
「大丈夫って言葉はね」
少し、間を置く。
「線を越えさせる時に使うの」
ユウトの手が、わずかに震えた。
「……今は?」
「今は、使わない」
即答。
それで終わり。
午後。
鍛冶場の前。
ドラムが、床を修理している。
板を外し、位置をずらし、戻す。
「ずれてました?」
「ずらした」
短い。
「戻したら、まずい位置がある」
「……まずい?」
「踏むと、思い出す」
ユウトは、顔を上げた。
思い出す。
その言葉に、何かが反応した。
頭の奥が、きしむ。
映像。
音。
匂い。
全部、形になる前に。
「触るな」
ドラムの声。
強い。
ユウトは、動きを止めた。
心臓が、早い。
一歩。
半歩。
足を出しかけて、止める。
今日は、止められた。
夕方。
広場を通る。
人が集まっている。
集まっているが、輪になっていない。
中心が、空いている。
誰も、そこに立たない。
ユウトは、無意識にその場所を見た。
一歩、近づく。
近づいた瞬間。
視線が、散る。
同時に。
風が、強く吹いた。
埃が舞う。
目を閉じた、その間。
胸の奥で、何かが確かに「開きかけた」。
知っている。
でも、知らない。
できる。
でも、したくない。
ユウトは、歯を食いしばった。
一歩、下がる。
開きかけたものが、閉じる。
息を吐く。
長く。
夜。
部屋に戻る。
今日は、疲れている。
理由は、分かる。
越えかけたからだ。
床に座る。
膝を抱える。
「……危なかった」
小さく、呟く。
誰にでもなく。
今日は、やめきれた。
それだけで、十分だと思った。
窓の外で、風が鳴る。
不規則。
数えられない。
それが、今は救いだった。
ユウトは、目を閉じた。
越えなかった線が、
確かにそこにあったことだけを、覚えていた。




