ある乗客
とある夜、一台のタクシーが静かに停車した。
ドアが開くと、一人の男が影のように後部座席へ身を滑り込ませた。
「お客様、どちらまで向かいますか?」
「……とりあえず、大通りに出てくれ」
「かしこまりました」
運転席から声が返ると同時に、タクシーはなめらかに動き出した。
やがて大通りに出た。車窓の外では、夜の街が息づいていた。看板が色とりどりの光を放ち、酔客たちが肩を揺らしながら歩道を漂う。
男は目を細め、その眩い光景を眺めた。タクシーはほんの少しだけ速度を落とした。男の心を読み取ったかのように。
「……家に帰りたいな」
「ご住所をお伝えいただければ、お送りします」
「――だ」
「苗字もお伺いできますか?」
男は住所と名前を淡々と告げた。タクシーは静かに街を進む。路肩で手を上げた人の前を、風のようにすり抜けた。
やがて繁華街を離れ、交差点をいくつも過ぎ、橋を渡ると灯りは次第に減ってきた。
「ここは……知らないな」
住宅街に入ってからしばらく。男は窓の外を眺めて低く呟いた。見覚えのない街並みが夜の静寂に佇んでいる。玄関灯はどこか冷たく他人行儀で、門は一線を引いているようだった。
胸の奥に、重たい違和感がじわじわと広がっていく。タクシーは黙々と見知らぬ景色の中を進み続けた。
「……もういい、降ろしてくれ」
「あともう少しで到着いたします」
「いいから」
やや荒げた声はすぐに車内へ吸い込まれ、どこにも響かなかった。
街灯がまばらになり、代わりに黒々とした木立が車窓へ寄ってきた。夜空の底に影を落とし、光を拒んでいる。
「目的地に到着しました」
タクシーが音もなく停車した。
ドアが開いた。夜気が滑り込み、かすかな灰の匂いが車内を撫でた。
開いたドアの先には、灰色の石が整然と並んでいた。月明りに照らされ、冷たく沈黙している。
「ここは……墓地じゃないか」
男の声には困惑と苦み、そしてかすかな恐怖が滲んでいた。
タクシーは相変わらず一定の調子で答えた。
「住所とお名前から検索した結果、あなたのお墓はこちらにあると出ました」
男は黙り、やがて苦く笑った。
「……最初から気づいていたんだろう? おれが死んでいることに」
「はい」
「なら、律儀にここまで連れてくる必要はなかっただろう。無視するなり、降りるよう言ったりな」
「大切なお客様でございますので」
「金も払えないのにか?」
「はい。当タクシーは、人への思いやりを第一にしておりますの」
「……そうか」
ありがとう――男は小さく笑い、静かにタクシーから降りた。
タクシーはゆるやかに発進し、その灯りは徐々に闇へ吸い込まれていった。男はその光が消えるまで見送った。
AI制御の自動運転タクシー……か。
人間の運転手は、おれが幽霊だと気づくと、たいてい車を停めて念仏を唱えたり、口から泡を飛ばして怒鳴り散らしたものだ。中には車を置いて逃げ出した者さえいた。
それなのに……なんだ。機械のほうが、よほど人情があるじゃないか。
男はふっと笑った。
月光の中、ゆっくりと輪郭は薄れていき、その姿は静かに夜へと溶けていった。




