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ある乗客

作者: 雉白書屋
掲載日:2025/12/06

 とある夜、一台のタクシーが静かに停車した。

 ドアが開くと、一人の男が影のように後部座席へ身を滑り込ませた。


「お客様、どちらまで向かいますか?」


「……とりあえず、大通りに出てくれ」


「かしこまりました」


 運転席から声が返ると同時に、タクシーはなめらかに動き出した。

 やがて大通りに出た。車窓の外では、夜の街が息づいていた。看板が色とりどりの光を放ち、酔客たちが肩を揺らしながら歩道を漂う。

 男は目を細め、その眩い光景を眺めた。タクシーはほんの少しだけ速度を落とした。男の心を読み取ったかのように。


「……家に帰りたいな」


「ご住所をお伝えいただければ、お送りします」


「――だ」


「苗字もお伺いできますか?」


 男は住所と名前を淡々と告げた。タクシーは静かに街を進む。路肩で手を上げた人の前を、風のようにすり抜けた。

 やがて繁華街を離れ、交差点をいくつも過ぎ、橋を渡ると灯りは次第に減ってきた。


「ここは……知らないな」


 住宅街に入ってからしばらく。男は窓の外を眺めて低く呟いた。見覚えのない街並みが夜の静寂に佇んでいる。玄関灯はどこか冷たく他人行儀で、門は一線を引いているようだった。

 胸の奥に、重たい違和感がじわじわと広がっていく。タクシーは黙々と見知らぬ景色の中を進み続けた。


「……もういい、降ろしてくれ」


「あともう少しで到着いたします」


「いいから」


 やや荒げた声はすぐに車内へ吸い込まれ、どこにも響かなかった。

 街灯がまばらになり、代わりに黒々とした木立が車窓へ寄ってきた。夜空の底に影を落とし、光を拒んでいる。


「目的地に到着しました」


 タクシーが音もなく停車した。

 ドアが開いた。夜気が滑り込み、かすかな灰の匂いが車内を撫でた。

 開いたドアの先には、灰色の石が整然と並んでいた。月明りに照らされ、冷たく沈黙している。


「ここは……墓地じゃないか」


 男の声には困惑と苦み、そしてかすかな恐怖が滲んでいた。

 タクシーは相変わらず一定の調子で答えた。


「住所とお名前から検索した結果、あなたのお墓はこちらにあると出ました」


 男は黙り、やがて苦く笑った。


「……最初から気づいていたんだろう? おれが死んでいることに」


「はい」


「なら、律儀にここまで連れてくる必要はなかっただろう。無視するなり、降りるよう言ったりな」


「大切なお客様でございますので」


「金も払えないのにか?」


「はい。当タクシーは、人への思いやりを第一にしておりますの」


「……そうか」


 ありがとう――男は小さく笑い、静かにタクシーから降りた。

 タクシーはゆるやかに発進し、その灯りは徐々に闇へ吸い込まれていった。男はその光が消えるまで見送った。


 AI制御の自動運転タクシー……か。

 人間の運転手は、おれが幽霊だと気づくと、たいてい車を停めて念仏を唱えたり、口から泡を飛ばして怒鳴り散らしたものだ。中には車を置いて逃げ出した者さえいた。

 それなのに……なんだ。機械のほうが、よほど人情があるじゃないか。

 男はふっと笑った。

 月光の中、ゆっくりと輪郭は薄れていき、その姿は静かに夜へと溶けていった。


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