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炎陽

二人の絆【炎陽・スピンオフ作品】

作者: 海野 ねこ

 秋も深まり、冷たい木枯らしが商店街を吹き抜けるようになったある日。僕は公募に出す新しい絵に取り掛かるために、画材屋に必要な物を揃えに来ていた。

 

 元々公募用に描いていた美鈴の肖像画は、彼女の葬儀の日に母親に贈ってしまった。あの絵は、母親にこそ持っていてほしいと思ったからだ。生き生きとした美鈴の姿を、いつまでも手元に置いてほしい。その願いを込めて贈ったことは、間違っていなかったと思っている。

 

 今僕が描いているのは、この街の美しい海の景色。美鈴が好きだった朝焼けの海だ。彼女の描いた絵のような繊細なグラデーションを出すのは至難の業で、美鈴の感性の豊かさと表現力は美術学校で学んだ僕ですら驚嘆するものがあった。あれを天賦の才というのだろう。

 

 それでも僕なりに日々試行錯誤をしながら頑張っているが、一人きりでアトリエに籠っていると失った人のことを思い出し、気が滅入る時がある。そんな時に、こうして画材屋で雑談をするのが良い息抜きになっていた。

 

 

 今日はオヤジさんは用事を済ませに外に出ているらしい。珠万緒さんが一人、勘定場に立って僕の話し相手になってくれていた。

 

「ねえ、珠万緒さんは、どうしてオヤジさんと一緒になったの?」

 ふと思いついた僕の問いかけに、彼女はにっこりと笑い、あっけらかんとした様子で答えた。

「押しかけ女房ってやつよ。なかなか結婚しようって言ってくれないから、荷物持って押しかけてやったの」

「へえ……すごいね」

 なんというか、この大胆さがこの人らしい。


「てっきり、オヤジさんが生娘の珠万緒さんに手ぇ出して、引っ込みがつかなくなったんだと思ってたよ」

 うふふっと含み笑いをする珠万緒さんが、僕に向かって意味ありげな流し目を投げた。

「まあ、それも無くはなかったわよ。モデルを始めて二年くらい経った頃かなぁ。その頃には、お互い好きだっていう気持ちを持ってるのは分かってたし。何を隠そう、征彦(まさひこ)さんが私の初めての人なのよ」

 照れて赤く染まった頬を、わざとらしく両手で押さえる彼女を横目に、僕は呆れて思わず本音が漏れてしまった。

「あの……クソオヤジ」

 それを聞いて珠万緒さんがけらけらと笑い声を上げた。

「いいのよ。あの日は私だってそのつもりで彼の家を訪ねたんだから」

 そう言う珠万緒さんは、少しだけ目を伏せて当時を思い出すように静かに言葉を続けた。

 

「実は、その三日前にね……赤紙が来てたのよ、あの人に。だんだんと戦局も厳しくなってきてた頃だったから、出征したらもう二度と会えないかも知れないって思ってね」

 確かに、戦地に赴けば何があるかわからない。むしろ、お国のために命を捧げろと言われるくらいだった。そういう時代だったのだ。

「オヤジさんも、それを分かってて珠万緒さんを?」

 

 彼女に対する想いも、未来も、全てを失ってしまうかもしれない。そんな状況で──

 

「ええ、もちろん。帰って来られる保証も無いし、なんの約束も出来ない。最初で最後になるかも知れないけど、それでもいいのかって聞かれて……それでもいいって、私言ったのよ」

 珠万緒さんの瞳には、その日の決意を思わせるような強さが、今でも宿っていた。

 

「その夜のことは、私、一生忘れないわ。彼の腕の中で、嬉しいのと悲しいのと、いろんな感情がぐちゃぐちゃになって、ずっと泣いていたの……でも、このまま死んでもいいと思ったくらい、幸せだった。もう何も思い残すことはないって思えるほどにね」

 

 そしてオヤジさんは出征し、戦場で右手を負傷。命は助かったものの、戻って来た時には絵筆を握れなくなっていたという。

 

「銃弾が右手を貫通したんですって。傷は塞がったけれど、切れた筋は繋がらなかった。もっとも、野戦病院で出来る処置なんて止血して包帯巻くくらいしかできなかったんだろうけど。あの人の右手、親指と人差し指がほとんど曲がらないのよ」

 

 僕も何度か目にしたことがある。店の商品を陳列しようとして、自由にならない右手を庇いながら器用に左手を使っていた。日常生活なら左手でなんとかなるが、絵を満足に描くことは不可能だろう。

 

「戦争が始まる前にね、初めて私を描いてくれた絵が文展で入賞したの。評判もとても良くて、将来を期待された新人画家だったのよ。だけど、もう二度と絵が描けなくなって、せっかく生きて帰れたのに、酷く落ち込んで毎日塞ぎ込んでた。慣れない左手を使って生活するのもひと苦労で……だから私が、彼の右手になろうと思ったの。あの人をずっと支えて生きていこうって。なのに──」

 

「なのに?」

 

「征彦さん、私に向かってこう言ったのよ。お前にはもっといい奴が現れるだろうから、もう俺なんかに構わなくていいって。障害のある旦那なんか持ったら苦労するだけだって」

 悔しさと悲しさが入り混じった横顔を、僕は黙って見つめていた。

 

 オヤジさんの気持ちも分かる。誰だって、大事な人に敢えて困難な人生を歩ませたくはない。好きだからこそ、その人のために離れることを選ぼうとしたのだ。辛いけれど、愛する人が辛い思いをするのはもっと辛い。そんな身を切られるような思いは、僕だって嫌というほど味わったばかりだ。

 

「だからね、思い切って押しかけちゃったのよ。私は絶対に離れるつもりはないから、傷物にした責任をとってくれって言ってね」

 僕は思わず目を瞬いた。

「え……そのセリフ、本当に言ったの?」

「当然よ。そのくらい言わせてもらわなくちゃ、割に合わないわ。だって、生きて帰ってくるかもわからない人を、ずっと一途に待ち続けていたんだもの。こう見えて私、いろんな人から嫁に来てくれって言われて、引く手数多(あまた)だったんだから」

 

 腕組みをして得意そうにする珠万緒さんに、僕は思わず笑い出してしまった。せっかく途中までは切ない恋物語だったのに、最後の最後で全部持っていかれてしまった。

 

「オヤジさんもいろんな意味で苦労したんだな」

「何よその言い方。私の純情を捧げたんだもの。当たり前でしょう」

 フン、とそっぽを向く珠万緒さんを見ながら、僕はこの夫婦の間にある大きく揺るぎない愛を感じて、なんだか胸が熱くなった。

 そこには確かに、切っても切れない絆が存在している。そう思わずにはいられなかった。

 

「ところでこの店、オヤジさんのご両親が残してくれたって聞いたけど」

「ええ。店は運よく空襲で焼け残ったけれど、ご両親は終戦後すぐに相次いで病気で亡くなったの。だから私たちがこの店を継いだのよ。そのおかげで今までやって来れた。本当に感謝してるわ」

 

 ふと、珠万緒さんが何かを思い出したように、あ、と小さく口を開き、同時に視線を下げた。

「でもね、一つだけ心残りがあるのよ」

「心残り?」

「ええ。実は赤紙が来る直前に、彼が私の絵を描いてくれていたんだけど。完成する前に出征しちゃったから、描きかけのままずっと押し入れにしまいっぱなしなのよ。

 ねえ。マキさん、仕上げてくれない?」

 

「断る」

 

 きっぱりと即答した僕に、珠万緒さんは驚いたように目を丸くして、それから口を尖らせた。

「もう!そんなにはっきり言わなくたっていいじゃない。意地悪ね」

 僕はそんな彼女から視線を逸らせて、俯いたまましばらく言い淀んだ。

 

「……だって、もし僕が逆の立場だったら、自分の好きな女を別の画家に描かせるなんて、絶対嫌だから」

 

 美鈴を他の誰かが描くなんて、そんなこと想像しただけでも身の毛がよだつ──とはいえ、もうそんなことはあり得ないのはわかっているが。それでも、もしそんな奴がいたら絶対に許さないだろう。

 

 僕の落ち込んだような様子に、珠万緒さんは急にしおらしくなって眉尻を下げた。

 

「そう──そうよね。私だって、彼が別の女の人の絵を描いてたらヤキモチ妬くと思うもの。ごめんね、マキさん。変なこと言って」

 

 その場にしばらく沈黙が流れ、どう言葉を継いでよいやら困惑していたところに、外から足音が聞こえてきた。オヤジが用事を済ませて店に帰ってきたようだ。

 しんとした僕らを見るなり怪訝な顔をして「二人して何深刻な顔してるんだ?」と声をかけてくる。

 

「あら、お帰りなさい。別に何でもないわ。ちょっと昔話をしてただけよ」

 そう言って笑う珠万緒さんに、オヤジは苦々しそうな顔をした。

 

「まったく。お前の昔話は何を暴露されるか分かったもんじゃないからな。変なこと言いふらさないでくれよ」

 

 そう小言を言いながらも、その目にはいつも優しさと愛しさが溢れているのを、僕は密かに見抜いていた。

 

 画家とモデルの恋は、モデルが画家を置き去りにして終わるのが常──

 

 そんなお決まりのストーリーを覆した二人の姿が、僕には少し、眩しすぎたみたいだ。

 

 滲んだ視界を一度閉じると、僕は二人に軽く手を上げ、また来るよと言って画材屋を後にした。


 木枯らしは、僕の熱くなった目頭をゆっくりと撫でてから、高い空へと吹き抜けていった。

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