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灰色の街と鈍色の村

作者: アナキスト吉田

雨がいつまでも降り続ける街だった。窓に映る広告は青白く、歩道は無数の足音と無機質な視線で満ちていた。リタは小さなパッケージ工場で働き、疲れ果て帰る時には自らの番号が記された労働端末に触れて通勤を記録した。人々は互いを避け、交流はデータに置き換えられた。そこにあるのは便利さの約束と交換条件として差し出された孤独だった。


ある晩、帰路の路地に立つ男が、一枚の布片を差し出した。そこには手描きの印――木匙と種と小さな十字が重なった紋章があった。

この紋章は、確か街中で良く見るものだ。そこらかしこの路地は、この紋章が入ったポスターやストリートアートが散りばめられている。

男は言った。


「森のところで、焚き火を囲む。来るか?」


リタはその夜、眠れぬまま明日の朝を待った。街の光は確かに温かく見えた。しかし胸の奥には、何かが震えていた。


導師の名はエリアス。年はとっているが姿勢は正しく、声は古い書物から抜け出たように低く、聖句のように決然としていた。初めて会った夜、火の周りで彼はこう語った。


「文明は祭壇であり、われらはそこに自らの魂を供えてきた。電線、機械、貨幣、都市の制度――すべては人が作り、人を縛る偶像だ。イエスが貧しさを選んだのは偶然ではない。我らもまた、持たざる者の道を選ばねばならぬ。」


物語の地の文はここで説明を差し挟む。原始派福音アナキズム――彼らが名乗る思想は単純だった。キリストの「持たざる者」への帰還という霊的志向と、無政府的な自治観が結びつき、「文明」なる構築物を道徳的に否定する。所有を最小化し、技術と制度を疑い、共同体的な生存と口承の教えを生活そのものとする。彼らにとって「文明」は罪なのだ。罪は赦されうるが、赦しは回復のための行為を伴う。だから彼らは電線を切って都を去り、機械に頼らぬ暮らしを選んだ――それが救いであると信じて。


リタは選んだ。街に残る安寧と交換された自己の小さな自由よりも、夜の火のぬくもりと、誰かが真っ直ぐに名前で呼んでくれること――その温度の方が真実に思えたのだ。彼女は持ち物を最小限にして森へ向かった。渡されたのは木匙一つと、導師が読み上げた短い祈りだけだった。


共同体は森の縁に小さな村落を作っていた。小屋は土壁と木の梁、屋根は苔で覆われ、煙がいつも立ち上っていた。最初の頃、全ては教えの美しさに満ちていた。朝は祈りで始まり、共同で耕し、午後に子どもたちと歌を歌った。現代の雑音が消え、風の匂いと土の感触が日々の主題となった。導師は礼拝で、都市の光景を罪の寓話として語り、若者たちはそれを聞いて涙を流した。生活は質素でありながら、魂の高揚に満ちていた。


だが、原初への回帰は幻想ではなかった。外界からの切断は安全と引き替えの代償を要求した。最初の年の秋は豊かだった。彼らは作物を収穫し、狩りで得た獣の肉を分け合い、満ち足りた夜を過ごした。しかし冬は手早く、無慈悲にやってきた。川は凍り、獲物は去り、保存食は思いのほか早く尽きた。小さな病が村を巡り、ひどい咳が子どもを襲った。


マリアはリタの友だった。笑い声が大きく、手仕事が巧みで、針仕事のひと針ひと針に祈りを込める女だった。ある夜、彼女は高熱にうなされ、頰は赤く燃えた。リタはパニックになりかけたが、導師の顔はいつも通り、揺るがなかった。


「薬は文明の贈り物だ。人体を修繕するのではなく、依存をつくる。神は草と手と祈りを与えた。信仰を尽くせ。」


導師はそう言って、マリアに自ら摘んだ草を与えた。草の匂いは優しかったが、熱は下がらなかった。リタは夜通し小さな手を握り、過去に読んだ都市の医療の記憶が頭をよぎった。注射器、滅菌された包帯、白衣の人々。だがそれらはここでは禁忌だった。もし誰かが街へ医療を求めに行けば、それは裏切りとみなされる。共同体の律は明確だった――文明の道具を持ち込むことは、魂の腐敗を許すことになる。


三日目の朝、マリアは静かに息を引き取った。彼女の顔には微笑が残り、口元には森の匂いが漂っていた。リタはその場で崩れ落ちた。だが周囲の人々は、泣きながらも儀式を始めた。死は自然への回帰であり、犠牲は共同の祈りの一部だと説く教えが、実際の喪失を聖なる物語に変えようとする。導師は低い声で朗々と祈り、失われた命が「種」となって新たな命を育むだろうと言った。村人たちはそれを信じ、灰色の朝に種を撒いた。


リタの胸には怒りと信仰が交錯した。彼女は導師を疑うことすら許されないと思いつつ、心のどこかで──小さな、しかし堅い石のような疑念が芽生えた。もし街へ出て救いを求めたなら、マリアは生き延びただろうか。だが街は彼女が信じる「罪の庭」だった。救いを外に求めることは、自らの魂を交換に出すことだと教えられていた。


食糧不足が深刻化すると、数人の若者が夜陰に紛れて街へ向かった。彼らは家族のために食料を得るつもりだと言った。出発時、導師は静かに首を振った。


「文明は試しの罠だ。帰りは魂を汚してくる。」


だが若者たちの顔は切羽詰まっていた。二人が戻らなかった翌朝、残された者たちは噂話を囁いた。街の保安に捕らえられ、収容されたという。ある者はそれが死と同義だと言った。ある者は、もし戻れば共同体はまた傷を受けるだろうと恐れた。導師は言葉をかけるでもなく、火のそばで祈りを続けた。


春が来ても、村はもう春の祝福を受けられなかった。子どもの数は減り、笑いは細くなった。リタは畑で種を植えながら、夜の間に何度も自問した。信仰は魂の純化をもたらすのか。あるいは信仰は、弱きを切り捨てるための理屈なのか。彼女の疑念は深まったが、導師の言葉はやはり強かった。彼の眼は凛としており、あの夜に聞いた約束を繰り返すたび村人の心に秩序を取り戻していた。


ある夜、外からかすかな音がした。人の声、遠いエンジンの音──それはかつての街の響きだった。導師は夜空を見上げ、祈りを捧げた。


「神よ、我らを試し給え。文明の毒に打ち勝つ力を賜れ。」


村は静かに答えた。誰もが、信仰を試されることに価値を見出していた。リタもまた、最後の一握りの穀物を分け与えながら自分の行為を聖なる奉仕と見なしていた。彼女の心の奥底では、小さな怒りと哀しみが影になって居座っていたが、顔は穏やかであろうと努めていた。


だが自然は容赦しなかった。ある朝、長老の家の屋根が崩れ、小さな子どもたちが凍えて息を引き取った。共同体はもう、持ちこたえられなかった。人々は静かに荷物をまとめた。ある者は森を離れて別の地へ行き、ある者はただ火をたき、祈り続けた。導師は最後まで立っていた。顔は凍てつく空気の中でますます険しく、文明の罪を指弾する声はむしろ強さを増していた。


リタは薄い布に身を包み、残された者たちと共に最後の祈りを唱えた。彼女は失ったものを数え、名前を呼んだ。マリア、二人の若者、子らの名。祈りは力を持たなかったが、彼女の心はそれでも燃えていた。信仰が彼女に与えたのは、世界の終わりに向かっても反抗的に立つ勇気だった。


村が静かに消えた朝、導師は最後にこう言った。


「我らは堕落の果実を拒んだ。多くは去り、多くは倒れた。しかし真理は問題ではない。真理を選ぶかどうかだ。我らは選んだ。」


その言葉は、冷たい風に散った。リタは立ち尽くしたまま、涙を拭い、黙ってうなずいた。外の世界は依然として灰色の光を吐いていた。街の歓楽も、困窮も、変わらずそこにあった。


最後に残るのは空虚と確信の共存だった。共同体は崩壊し、人々の遺した小屋は苔と蔦に飲まれていく。だが導師の言葉は、森の葉擦れの間でまだ低くこだました。リタは最後までその声を否定しなかった。彼女は信じていた――文明を離れることで魂が純化されると。彼女の信仰は、物理的な敗北の後も、彼女の内で燃え続けた。


終わりの朝、リタは小さな木匙を握り締め、冷たい土に手を当てた。世界が彼らに何を奪ったかを知りながら、それでも彼女は自分たちの決断を誇りに思った。信念は肉体を越える何かを与えたのだと信じて。風が頬を撫で、彼女の祈りは遠くへ流れていった。だが祈りは答えをもたらさなかった。村は消え、街はその灰色の光の中でまた別の犠牲者を飲み込み、世界は変わらず回り続けた。


リタは立ち上がり、森の奥へと歩を進めた。後ろには燃えるような希望も、救いの約束もなかった。ただ深い確信と、冷たい土の匂いだけがあった。それで十分だと、彼女は自分に言い聞かせた。導師は最後まで文明という罪を裁く者であり、その裁きの下に人々は己の魂を委ねた。外形は滅びても、信念は消えない――そう彼女は信じて疑わなかった。

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