【第8話】「普通の顔をした火事現場」
あの夜のことは、今でも夢みたいに思える。
しづきの指先から火が広がっていたなんて。
それがほんの数分の出来事だったことも、うまく現実として受け止められなかった。
翌朝、私は眠れぬまま仕事に向かった。
部屋の焦げ臭さは換気しても取れきれず、
服や髪に染みついた匂いが、いつまでも付きまとってきた。
職場の同僚に「何か焦げた匂いしない?」と聞かれ、
私はただ曖昧に笑ってごまかすことしかできなかった。
その日の業務中、何度もスマホを開きそうになった。
「大丈夫?」と連絡すべきか。
でも――
返ってこなかったら、もっと怖いと思ってやめた。
夜。
帰宅して玄関を開けると、しづきはリビングの片隅でテレビを見ていた。
まるで何もなかったように。
普通に。
昨日のあの出来事を、すべて忘れたかのように。
「……昨日のことだけど」
私は声をかけようとして、止まった。
話しても、通じない気がした。
何かを責めたら、またあの壊れかけの目になる。
そう思ったら、喉にひっかかった言葉は飲み込むしかなかった。
そのかわり、私は別の言葉を選んだ。
「……毛布、もう捨てるね」
「んー、ありがとー」
軽く返事が返ってきた。
焦げた毛布。
死んでいてもおかしくなかった夜。
その命が、何も感じていないみたいに目の前にあるのが、怖かった。
私は洗濯機を回しながら、自分に問いかける。
“これ、本当に見守れてるの?”
何かが、限界に来てる。
私自身の中でも、
きっとしづきの中でも――。
でも私は、まだ何もできない。
何をすればいいのかさえ、わからなかった。
この回では、あえて何も劇的なことは起きません。
でも“何も起きない”って、本当に安心なんでしょうか?
いつもの日常が戻ったように見えて、
本当は――戻っちゃいけない何かがあったのかもしれない。
そんな違和感の種を感じていただけたなら、
もしかしたら、あなたのまわりにもある“危ない日常”に、気づけるかもしれません。
次回は、毎日21時に更新予定です。
お気に入りや評価をいただけると、とても励みになります。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。