【第5話】「静かに蝕むもの」
最初は、なんの匂いかわからなかった。
仕事から帰ってきた玄関に、うっすらと残っていた香り。
焦げたような、乾いたような、どこか独特な残り香。
キッチンに何か置き忘れたかと思って見渡したけど、異常はない。
強く残っていたわけでもなくて、なんとなく気のせいのような気もした。
でも、数日後。
その匂いがまたした。
しかも今度は、はっきりとわかるほどに。
私たちが暮らしているのは、1LDKの小さなアパート。
しづきには、パーテーションで仕切った奥のスペースを使ってもらっていて、
私はリビングのソファーベッドで寝ている。
完全な個室ではないけれど、お互いの気配は適度に隔てられていた。
だからこそ、匂いにもすぐ気づいた。
その夜、私はおそるおそる、パーテーションの隙間から中を覗いた。
窓は閉まっていて、パーテーションスのペースの隅にはパソコンの光だけがぼんやりと灯っている。
その手前に、空き缶が2本。傍らの小さな缶に、灰が山のように積もっていた。
……お姉ちゃん、タバコなんて吸ってたっけ?
高校の頃も、大学の頃も、そんな素振りは一度もなかった。
むしろ、煙草や酒に嫌悪感があるようなタイプだった。
姉がリビングに出てきたとき、私はタイミングを見て聞いた。
「それ……吸ってるの?」
「あー……うん。最近ちょっとだけ」
なんでもないことのように言って、姉は目を合わせなかった。
私はそれ以上、なにも言わなかった。
ほんの少しだけ、胸の奥がざらついたけど、
“まだ大丈夫”だと思いたかった。
大人なんだから、タバコを吸うくらいは自由。
酒だって、ストレスの発散になるのかもしれない。
そう思えば、咎めるほどのことでもない。
でも、それは“普通の人”だったらの話だ。
姉は、いま――
“普通”じゃないはずだった。
それでも私は、自分に言い聞かせた。
「大丈夫、父だって吸ってたのだから、同じはず…」
そう思って、その日はソファに戻った。
でも、本当はもう知っていた。
少しずつ、確実に、
何かが蝕まれていくような音が――
この家の中で、静かに鳴り始めていた。
『壊れた姉の見守り方』
第1話〜第5話まで、一挙公開しています。
以降は、毎日21時頃の更新予定です。
……たまに忘れるかもしれないので、やさしくツッコんでいただけたら嬉しいです☺️