【第4話】「“一時的”は、いつ終わるのか」
2025/8/8に本文修正致しました。
「ひとまず、少し休ませてあげてください」
会社の人にそう言われ、私は姉を連れて帰った。
そのときの私の中では、せいぜい数日、長くても一週間のことだと決めつけていた。
姉はその間に落ち着きを取り戻し、また働きに戻る――そう信じて疑わなかった。
けれど、現実は違った。
姉は私の1LDKの部屋にそのまま居座った。
仕事には戻らず、荷物もほとんど持たないまま、当然のようにそこにいた。
「ただ泊まっている」感覚は、日を追うごとに薄れ、いつしかそれは“ここに暮らしている”という空気に変わっていった。
一度だけ、私は聞いたことがある。
「……お姉ちゃん、……他に行く所、ないの?」
両親は数年前に亡くなっていた。
“帰る家”なんて、とっくになかったはずだ。
それでも、聞かずにはいられなかった。
ひょっとして、どこか頼れる場所があるのでは――そんな淡い期待が、胸の奥にまだ残っていたからだ。
けれど姉は、何も答えなかった。
黙り込んだまま、視線をパソコンの画面に落とし、私の存在を意識していないかのようだった。
厳密に言えば、答えられなかったのかもしれない。
言葉の奥の歯車が、どこか壊れているように見えた。
私はそれ以上、問い詰めなかった。
理由は二つあった。
ひとつは、答えを聞くのが怖かったから。
もうひとつは、正直なところ――別に嫌じゃなかったからだ。
仕事から帰ってくると、部屋の電気がついていて、
冷えた空気ではなく、わずかに人の温もりが残っている。
音のない空間に人の気配があることは、ひとり暮らしの私にとって、少し安心でもあった。
ただ、その安心は長く続かなかった。
姉は日に日に変わっていった。
最初は、とにかく寝てばかりだった。
昼に眠り、夜に起き、朝方にまた寝る。
時間の感覚が完全に狂っているようだった。
会話はほとんどなく、食事も一緒にとらなかった。
私が作った夕食に、たまに箸を伸ばす程度で、それもすぐに残した。
やがて姉は、部屋の隅に置いたノートパソコンの前から動かなくなった。
背中を丸め、モニターを凝視しながら、時折マウスをゆっくり動かすだけ。
何をしているのか尋ねても、「うーん」と曖昧な返事が返るだけだった。
画面には見慣れないサイトや、意味の分からない文章が映っていることもあった。
それでも私は、まだ“異常”だとは思わなかった。
仕事がつらくて、少し壊れて、回復の途中。
そういう人なんだと、思い込んでいた。
しづきは、まだ“普通に戻る途中”なのだと。
けれど、少しずつ気づきはじめていた。
――姉は、本当に戻ってくるのか?
何もしないまま、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた。
毎日パソコンの前に座り、外にも出ず、電話もせず、誰とも会わず。
それでも“ここにいること”だけは当然のように続いていく。
台所の食器は増えず、冷蔵庫の中身もほとんど私のもので占められていた。
ベランダに干される洗濯物も、ほとんど私の服だけだった。
姉がこの部屋にいる痕跡は、パソコンとその周囲に積み上がった小物、それと缶コーヒーの缶くらいだった。
“少し休ませてあげてください”と言われたあの日から、
もうすぐ半年が経とうとしていた。
好意で休業扱いにしてくれていた会社からも、ついに辞職の連絡が来た。
電話を切ったあと、私は深く息を吐き、姉のいる部屋のドアを見つめた。
その向こうで、姉は今日もパソコンの画面を眺めている。
戻ってくる日は――本当に、来るのだろうか。
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