【第3話】「電話の向こうの“しづき”」
電話のあと、私はすぐに仕事を早退した。
姉の会社は電車で1時間ほどの距離にあった。
急いで乗った車内で、何度もスマホを握り直しながら、
「取り乱している」という言葉の意味を頭の中でぐるぐると回し続けていた。
扉を開けたとき、社内の空気はどこかピリついていた。
社員らしき人が小声で何かを話し合っていて、私が来たことにすぐ気づいた様子だった。
「……あの、妹さんですよね。すみません、こちらへ」
部屋の奥に案内されたそこに、
姉はいた。
座ってはいるけれど、まっすぐに座れていない。
膝を抱え、机の下に潜るような姿勢で、ブツブツと何かを呟いている。
目はどこも見ていない。
声は誰かに返事をしているようだった。
でも、その“誰か”は、そこにはいなかった。
「……わかってるよ。でも、違う……ちがう、ちがうんだってば……」
周囲の人たちは誰も近づけず、ただ少し離れた場所で心配そうに見守っていた。
「すみません……昨日まで、全く普通だったんです……」
誰かが言ったその言葉が、ずっと耳に残っていた。
――昨日まで、普通だった。
私だって、そう思ってた。
でも、今の姉は“普通”なんかじゃなかった。
名前を呼んでも、こっちを見ない。
話しかけても、聞こえていない。
まるで別の世界にいるみたいに、ひとりで会話を続けていた。
どうしていいかわからなくて、私はただ、そっと肩に触れた。
その瞬間、姉がピクリと反応して、目を見開いた。
「……あれ? ひな……?」
私の名前を呼んだ。
ようやく、“お姉ちゃん”の声が返ってきた気がして、
涙が込み上げそうになった。
その日は、会社の厚意で早退扱いとなり、
姉は私と一緒に家に帰ることになった。
荷物は少しだけだった。
会社用のバッグと、財布と、スマホ。
それだけを持って、
月森しづきは、私の家に来た。
あの日からずっと、
「ただ泊まってるだけ」だったはずの日々は――
いつの間にか、“帰らない同居”になっていた。
『壊れた姉の見守り方』
第1話〜第5話まで、一挙公開しています。
以降は、毎日21時頃の更新予定です。
……たまに忘れるかもしれないので、やさしくツッコんでいただけたら嬉しいです☺️