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壊れた姉の見守り方  作者: 朝露 あじさ(Asatsuyu Ajisa)
第5章『それでも、生きていく』

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【最終話】「姉妹だった日」

借金の返済が終わり、生活も心も少しずつ落ち着きを取り戻した頃。

私はようやく——あの話題に向き合う気持ちになっていた。


姉の「部屋」のことだ。


金銭の心配が薄れた今だからこそ、ふいに思い出す。

あの家が、どれほど“もの”で埋まっていたか。

あれから、姉はどう暮らしているんだろう。


「……部屋、今どんな感じ?」


LINEでそう尋ねると、姉はいつもの調子で飄々と返してきた。


『んー、相変わらずかも。なぜか片付けられないのよね…私って』


私はほんの少しだけためらって、でも思いきって打つ。


「……私が行って、一緒に片付けようか?」


『え、いいのー?助かるわぁ』


拍子抜けするほど軽い返事だった。

“物が無くなる”ことへの反発も、“気にしないから来なくていい”という拒絶も、どちらも来なかった。


休日、私は掃除用具とマスクを持って姉のアパートへ向かった。


玄関を開けた瞬間、視界が詰まる。

床は見えず、紙袋とコンビニの空き容器、重なったレジ袋。流しには、いつのかわからない生ゴミ。

鼻の奥に、湿ったにおいと古い油のにおいが絡みつく。


「……どこから手をつけようか」


自分の声が小さくなる。


「うーん、任せるわ」


呑気な姉の横顔をちらりと見て、私は“絶対にいらないもの”から手を伸ばした。

カビの生えた弁当箱、賞味期限切れの食品、破れた袋。似たものはまとめ、袋ごと縛る。通路を一筋つくる。


排水口には崩れた野菜が詰まっていた。息を止めて掬い上げ、袋を二重にして結ぶ。壁にふと雑巾をあてると、白い線がすっと引けた。ここ全部、ヤニの色だったんだ……。


手を動かす。黙々と。二人で。


日が傾く頃、ようやく絨毯が姿を見せた。床に座れる場所がひとつでき、壁の白さが部屋に明るさを返す。


「……ふぅ、やっと一息つけるね」


汗を拭った私に、姉がぽつりと呼びかける。


「……ひなぁ」


姉がこちらを優しげに見つめ、話しかけてきた。


「ん? なに?」


片付けが心地よかったのか、お礼の言葉が続くのかと思った、そのとき。

姉から涼やかな声がこぼれた。


「……こんな私を、見守っててくれて、ありがとうね」


——不意打ちだった。


胸の奥で固く蓋をしていたものが、かすかな音を立てて外れる。


幼い頃。何でもできる姉の背中が、私の目標だったこと。

会社で崩れ落ち、壊れてしまったあの日、誰にも頼れなくて一緒に暮らし始めたこと。

奇声と徘徊、空気が裂けるような夜。翌朝いなくなっていたときの、胃が冷たくしぼむ感覚。

警察からの電話。見つかった姉は、姉ではなかった。見えない誰かと話し続ける低い声。目の前で、人格の境が行ったり来たりするのを、ただ見るしかなかったこと。

——そして、姉が離れた夜に、私がほんの少しだけ「ほっとしてしまった」こと。すぐに胸いっぱいに広がった罪悪感。

薬で安定しても、いつの間にかリボ払いの沼に落ちていたこと。援助すれば何とかなると信じて振り込んだのに、またすぐに来た「ごめん、今月も」の連絡。暗い未来予想図が、勝手に描かれていく恐ろしさ。

だから私は選んだ。「見守る」という形で、姉を見捨てる決断をした……私。


それを——姉は今、「見守ってくれてありがとう」と言った。


出してはいけないと思って蓋をした黒い思いは、形を変えて、透明な粒になって外へとこぼれ落ちる。


「ひぐっ……う、うぅっ……ひぃぐ……」


止め方を忘れたみたいに、涙は勝手に流れていく。


「よーしよし。ほらぁ、泣かないのー」

「そういえば、ひなは泣き虫だったわねぇ」


姉は笑って、私を抱きしめる。背中を、ぽん、ぽん、と一定のリズムであやす。

シャツ越しに伝わる体温。耳元で整う呼吸。鼻先に届くシャンプーのかすかなにおい。

——ひどく懐かしい、人の温もり。


久しぶりの、喜び。

久しぶりの、悲しみ。

そして、久しぶりの、あたたかさ。


「うわぁぁぁあ"あ"ぁん!!!」


心が感じるたびに、

閉じ込められていた感情の澱が、全部流れていく。

床に作った小さな“座れる場所”は、いつの間にか、二人で座る場所になっていた。


そこには、久しぶりに——


“ふたりの姉妹”がいた。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。


この物語は「事実をもとにしたフィクション」であり、登場人物や出来事は現実そのものではありません。

けれど、流れや感情は、確かに“リアル”から紡がれています。

現実と向き合うときに生まれる“しんどさ”や“もどかしさ”を、少しでも感じ取っていただけたなら幸いです。


どうにかしようと思っていたわけではない。

むしろ、どうにもできなかった。

ただ、目の前にある日常を壊さないように、逃げないように――

気づけば「やるしかなかった」。それだけの話です。


感動も、救いも、綺麗な希望もないかもしれない。

でも、こういう形でしか進めなかった姉妹の物語を、

ここまで見届けてくださったことが、何よりありがたいです。


いま、精神的に病んでいるご家族を支えている方。

あるいは、これからその状況に関わるかもしれない方へ。


“そばにいるだけ”で、もうすでにすごいことなのです。

支えることは、とても大変なことです。

相手を思い、見守っているだけで十分に優しいのです。

だから、あなたはすでに頑張りすぎているのかもしれません。

どうかご自身の楽しみや休憩も忘れずに、心を大切にしてください。


本当にここまでお読みいただき、ありがとうございました。

あなたの時間を少しでも分けてもらえたことに、心から感謝します。


  *  *  *


この物語は、Kindleでも出版予定です。

“書籍で通して読みたい”という方には、ちょっと幸せな後日談も加えたバージョンをご用意するつもりです。

詳細は追ってお知らせいたしますので、ぜひご期待ください。


あらためて、ここまで寄り添ってくださったあなたへ。

本当に、本当に、ありがとうございました。



朝露あじさ


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― 新着の感想 ―
拝読させていただきました。 患者様にあたるお姉さんの症状、初期段階で統合失調とわかるほど丁寧に書き込まれていらっしゃる。 そして、妹さんの誰にも相談できず、どこに相談したらよいのかもわからない心理、…
感想一覧
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