【最終話】「姉妹だった日」
借金の返済が終わり、生活も心も少しずつ落ち着きを取り戻した頃。
私はようやく——あの話題に向き合う気持ちになっていた。
姉の「部屋」のことだ。
金銭の心配が薄れた今だからこそ、ふいに思い出す。
あの家が、どれほど“もの”で埋まっていたか。
あれから、姉はどう暮らしているんだろう。
「……部屋、今どんな感じ?」
LINEでそう尋ねると、姉はいつもの調子で飄々と返してきた。
『んー、相変わらずかも。なぜか片付けられないのよね…私って』
私はほんの少しだけためらって、でも思いきって打つ。
「……私が行って、一緒に片付けようか?」
『え、いいのー?助かるわぁ』
拍子抜けするほど軽い返事だった。
“物が無くなる”ことへの反発も、“気にしないから来なくていい”という拒絶も、どちらも来なかった。
休日、私は掃除用具とマスクを持って姉のアパートへ向かった。
玄関を開けた瞬間、視界が詰まる。
床は見えず、紙袋とコンビニの空き容器、重なったレジ袋。流しには、いつのかわからない生ゴミ。
鼻の奥に、湿ったにおいと古い油のにおいが絡みつく。
「……どこから手をつけようか」
自分の声が小さくなる。
「うーん、任せるわ」
呑気な姉の横顔をちらりと見て、私は“絶対にいらないもの”から手を伸ばした。
カビの生えた弁当箱、賞味期限切れの食品、破れた袋。似たものはまとめ、袋ごと縛る。通路を一筋つくる。
排水口には崩れた野菜が詰まっていた。息を止めて掬い上げ、袋を二重にして結ぶ。壁にふと雑巾をあてると、白い線がすっと引けた。ここ全部、ヤニの色だったんだ……。
手を動かす。黙々と。二人で。
日が傾く頃、ようやく絨毯が姿を見せた。床に座れる場所がひとつでき、壁の白さが部屋に明るさを返す。
「……ふぅ、やっと一息つけるね」
汗を拭った私に、姉がぽつりと呼びかける。
「……ひなぁ」
姉がこちらを優しげに見つめ、話しかけてきた。
「ん? なに?」
片付けが心地よかったのか、お礼の言葉が続くのかと思った、そのとき。
姉から涼やかな声がこぼれた。
「……こんな私を、見守っててくれて、ありがとうね」
——不意打ちだった。
胸の奥で固く蓋をしていたものが、かすかな音を立てて外れる。
幼い頃。何でもできる姉の背中が、私の目標だったこと。
会社で崩れ落ち、壊れてしまったあの日、誰にも頼れなくて一緒に暮らし始めたこと。
奇声と徘徊、空気が裂けるような夜。翌朝いなくなっていたときの、胃が冷たくしぼむ感覚。
警察からの電話。見つかった姉は、姉ではなかった。見えない誰かと話し続ける低い声。目の前で、人格の境が行ったり来たりするのを、ただ見るしかなかったこと。
——そして、姉が離れた夜に、私がほんの少しだけ「ほっとしてしまった」こと。すぐに胸いっぱいに広がった罪悪感。
薬で安定しても、いつの間にかリボ払いの沼に落ちていたこと。援助すれば何とかなると信じて振り込んだのに、またすぐに来た「ごめん、今月も」の連絡。暗い未来予想図が、勝手に描かれていく恐ろしさ。
だから私は選んだ。「見守る」という形で、姉を見捨てる決断をした……私。
それを——姉は今、「見守ってくれてありがとう」と言った。
出してはいけないと思って蓋をした黒い思いは、形を変えて、透明な粒になって外へとこぼれ落ちる。
「ひぐっ……う、うぅっ……ひぃぐ……」
止め方を忘れたみたいに、涙は勝手に流れていく。
「よーしよし。ほらぁ、泣かないのー」
「そういえば、ひなは泣き虫だったわねぇ」
姉は笑って、私を抱きしめる。背中を、ぽん、ぽん、と一定のリズムであやす。
シャツ越しに伝わる体温。耳元で整う呼吸。鼻先に届くシャンプーのかすかなにおい。
——ひどく懐かしい、人の温もり。
久しぶりの、喜び。
久しぶりの、悲しみ。
そして、久しぶりの、あたたかさ。
「うわぁぁぁあ"あ"ぁん!!!」
心が感じるたびに、
閉じ込められていた感情の澱が、全部流れていく。
床に作った小さな“座れる場所”は、いつの間にか、二人で座る場所になっていた。
そこには、久しぶりに——
“ふたりの姉妹”がいた。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
この物語は「事実をもとにしたフィクション」であり、登場人物や出来事は現実そのものではありません。
けれど、流れや感情は、確かに“リアル”から紡がれています。
現実と向き合うときに生まれる“しんどさ”や“もどかしさ”を、少しでも感じ取っていただけたなら幸いです。
どうにかしようと思っていたわけではない。
むしろ、どうにもできなかった。
ただ、目の前にある日常を壊さないように、逃げないように――
気づけば「やるしかなかった」。それだけの話です。
感動も、救いも、綺麗な希望もないかもしれない。
でも、こういう形でしか進めなかった姉妹の物語を、
ここまで見届けてくださったことが、何よりありがたいです。
いま、精神的に病んでいるご家族を支えている方。
あるいは、これからその状況に関わるかもしれない方へ。
“そばにいるだけ”で、もうすでにすごいことなのです。
支えることは、とても大変なことです。
相手を思い、見守っているだけで十分に優しいのです。
だから、あなたはすでに頑張りすぎているのかもしれません。
どうかご自身の楽しみや休憩も忘れずに、心を大切にしてください。
本当にここまでお読みいただき、ありがとうございました。
あなたの時間を少しでも分けてもらえたことに、心から感謝します。
* * *
この物語は、Kindleでも出版予定です。
“書籍で通して読みたい”という方には、ちょっと幸せな後日談も加えたバージョンをご用意するつもりです。
詳細は追ってお知らせいたしますので、ぜひご期待ください。
あらためて、ここまで寄り添ってくださったあなたへ。
本当に、本当に、ありがとうございました。
朝露あじさ




