【第34話】「最後のメッセージ」
夜、スマホの通知音で目が覚めた。
枕元の画面には、姉の名前と、短いメッセージ。
開く前から胸の奥で小さな鈍痛がうずく。嫌な予感――見たくない。
けれど、見なければいけない。
その二つの気持ちの綱引きの末、重たくなった指が、ゆっくりと画面をなぞった。
『今、少しだけ電話できる?』
読んだ瞬間、思っていたほど刺さる言葉ではないと知って、少しだけ呼吸が楽になる。
けれど、電話――声で向き合う想像をした途端、気分はまた沈み始めた。
私は時計を見た。0時15分。こんな時間に、何の用だろう。
それでも、さっきの“線引き”のメッセージの直後だ。嫌な想像は、寝ぼけた頭をいっきに覚ます。
ため息をひとつ、静かに通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
「うん、こんな時間にごめんね。ちょっとだけ、声が聞きたくなって……」
姉の声は、思ったよりも明るかった。
その軽さに、私は少しだけ肩の力が抜ける。今日は荒れた調子ではない――それだけで救われる夜もある。
他愛ない話を数分。沈黙が一度、ふたりの間を通り過ぎたあと、唐突に姉が言った。
「……あのね、借金。ちゃんと返すから」
「でも、今すぐは無理。ほんとに、少しずつになっちゃうけど……」
喉まで出かかった返事が、そこで止まる。
この言葉を私は何度受け取ってきただろう。
“約束”が、約束として機能しなかった回数を数え始めると、指先から体温が引いていく。
軽い失望は、怒りよりも静かで、だからこそ重い。言葉に重さを感じられない自分にも、また少しがっかりする。
「……うん、いいよ。それより、ちゃんと生活整えてね。
自分で返すって決めたなら、私は待つ。返済は、借金を完済してからでいいから」
私の声は、思っていたよりも穏やかだった。
線のこちら側からでも、言えることはある。言わなきゃいけないこともある。
「……うん。ありがとう」
一瞬の沈黙。受話口の向こうで、姉がふっと息を吐く気配。
「……ほんと、あんたには助けられたわー……」
なんてことのない口調だった。
――それだけ?
心のどこかが、きゅっと冷える。
凄く、凄く大変だった。
あの時、何度も駆けつけた。
夜中に車を飛ばした。
ゴミ袋の山をかき分けて、食べられるものを探した。
お金だって、出した。
それでも私は、ひとつも責めなかった――責められなかった。
「助けられた」の一言に、過去の映像が音もなく重なる。
それが感謝であることは分かっている。けれど、その軽さのまま置かれてしまうと、私の中の積み重なった重さが、行き場をなくしてしまう。
飲み込む。
言い返すことはできる。けれど、その先にある光景を、私はもう知っている。
「じゃあ、またね。無理せずに」
そう言って通話を切った。
そのあとは、もう何も来なかった。
私が渡した“最後のメッセージ”は、昨日送った文面だった。
**「これ以上は支えられない。でも、あなたが変わるなら私は待つ」**――
それは、見捨てるためではなく、共倒れを避けるための線引き。
助け方を変えるという、覚悟の言い換えだった。
翌朝。
目覚ましが鳴っても、目はすぐには開かなかった。
夜中の通話が、頭の奥で何度も再生される。
私は静かにスマホを伏せ、天井を見た。
“待つ”という選択肢が、どれほど苦しいかを私は知っている。
連絡が来ない朝ほど、心は騒ぐ。
それでも――**見放すのではなく、見守るという支え方**があると、私はやっと言葉にできるようになったのかもしれない。
その瞬間、胸の底で、罪悪感がむくりと起き上がる。
「もっと出来たんじゃないか」「冷たいんじゃないか」――そんな声は、境界線の外側に立つとき、必ず鳴る警報だ。
私はその音に耳を澄ませ、そして、ゆっくりと呼吸を整える。
線を引くのは、拒絶ではない。
沈まないために掴むロープを、互いに取り違えないための印だ。
コーヒーを温め直す間、洗濯機が低い音で回り続ける。
私は昨日の自分に、小さく「大丈夫」と言ってみる。
揺れるたびに不安は顔を出すだろう。
それでも私は、今日も線のこちらから、変化の兆しを待つ。
届くなら、ほんの一歩でいい。
その一歩を信じられる距離を、私は選んだのだ。
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