【第32話】「やさしさって、なんだったんだろう」
お湯が静かに流れていた。
湯船には浸からず、ただ膝を抱えたまま、シャワーに身を委ねていた。背中に広がる温かさとは別に、頬をつたうものだけが冷たくて、ようやく自分が泣いていると気づいた。
「……なんで、こんなにしんどいんだろ……」
声にした途端、喉がつかえる。泣くつもりなんてなかったのに、涙は止まらなかった。
***
小さい頃、私は姉の背中を追いかけていた。真面目で、優しくて、ちょっと不器用で――でも、私の憧れだった。風邪の夜に心配して一緒に居てくれた安心感、遠足前にリュックを点検してくれた面倒見の良さ。怖がる私を笑わせるために変なダンスをしてくれた、あの優しさ。あの頃の姉は、ちゃんと“お姉ちゃん”だった。
***
けれど今の姉は、薬で大きな波は抑えられている。主治医の言う“安定”は、たしかに嘘ではない。週に数日の短時間シフト、遅刻は減ったらしい。連絡も、前より返ってくる。それでも――姉と対面すると、どこか表情や佇まいに普通が欠けている。
部屋は散らかり、片づけの“最初の一手”が打てない。捨てると空白が生まれる、その空白に耐えられる気持ちが残っていない。買い物は一瞬の安心をくれるらしく、安いものでもカートに入れてしまう。タバコは「落ち着くから」と手放せず、火のついていない一本を指で転がしている時間が長い。家計は緩やかな下り坂の崖のへりを歩くみたいで、黄色い封筒がポストに届く。問いかけると、姉は「大丈夫、なんとかするよ」と笑ってみせる。強がりというより、姉にはなんて事のない 危機と感じてないのだ。私は理解させる心の強さも、守り切る力も、どちらも持ち合わせていない。
“病気のせいだけじゃない”部分があると頭ではわかる。生活の癖、性格の拗れ、長い孤独が固めた殻。けれど、病気がその全部を“重くしている”ことも、私は知ってしまった。だからこそ線が引けない。どこまで手を貸せば支えで、どこからが背負うことになるのか。
支えなきゃ、姉が壊れる。
支えたら、私が壊れる。
その両方が本当で、どちらにも嘘が混じっている気もする。私が差し出す姉への“やさしさ”には、私自身を守りたい気持ちも混ざっている。あの日々に戻りたくないという恐怖。助けることで「自分は頑張った」と自身へ言い訳する甘さ。誰に言うでもないのに、許しを求めている。
「……もう、無理かも……」
自分の口から出た言葉に、胸が締めつけられる。無理と言った瞬間に、姉を崩してしまう気がして怖い。けれど、このまま続けて私が崩れたら、二人とも落ちるだけだ。その想像が、脳裏に黒い霧が広がるように広がる。
じゃあ、どうする。全部を助けるのが無理でも、少しだけ――。援助は一度にいくらまで。期限を決めて、一緒に確認する日を作る。片づけは一部屋の一角だけ、十五分だけ。一緒にやるけれど、最後の一手は姉に託す。そんな低いルールなら、お互いに出来るかも知れない。
それでも怖い。支援するしないの境界線は、ときに拒絶の形に見える。私は嫌われたくない。姉を再び独りにしたくない。あの警察からの着信音を、二度と聞きたくない。胸の奥で、願いと怯えが同じ強さで綱引きをしている。
シャワーの音だけが変わらず流れていた。手のひらに落ちる水が、今日を洗い流していくようで、けれど現実は肌に薄く残ったままだ。
**「やさしさって……なんだったんだろう」**
問いはお湯に溶け、排水口へ消えていく。けれど、完全には流れない。私の中に、小さなしこりみたいに残る。いつかこれを“言葉”にして渡さなければ。泣き止んだら、カレンダーを開こう。支援できる小さな境界線を、やさしい言い方で。
私は顔を上げ、深く息を吸った。温度の戻った自分の息が、胸の黒い空洞をほんの少し埋める。今はまだ、怖い。それでも――ここから始めるしかないのだと思った。
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