【第26話】「それは静かに崩れていく」
連絡は、突然だった。
「今月、閑散期で急にシフトが減ってしまって…。ちょっと生活が苦しくて……。少しだけ、お金を貸してもらえないかな?」
スマホの画面に並ぶ姉の言葉を、私はしばらく読めなかった。
一人暮らしを始めてから数ヶ月。
以前と比べて明らかに落ち着いてきた姉。
面会のたびに見えていた独り言も、声色も、もう感じられなくなっていた。
私も少しずつ、姉の“安定”を信じ始めていた矢先のことだった。
――また、あのときと同じ?
不安が喉の奥で重くなる。けれど、同時に思い直す。
今回の原因は「仕事の閑散期」で、精神的な悪化とは違うかもしれない。
姉の職場は軽作業で、業界的にも季節によって収入の差が出やすいと聞いていた。
それに、姉はきちんと報告してきた。
何より、あの姉が“人に頭を下げて助けを求めている”のだ。
「……わかった。少しだけなら、振り込むね」
それだけ返して、私はATMへ向かった。
振り込みを終えたあと、不意に思った。
――食費とか、どうしてるんだろう。
収入が減ったなら、食事だって厳しくなる。
せめて、お米だけでも届けておこう。そうすれば、しばらくは何とかなるはずだ。
そうして週末。
私は10キロの米袋を車に積み込み、姉のアパートへ向かった。
チャイムの音に、姉が小さく返事をして玄関を開ける。
ドア越しに見えたのは、以前と変わらぬ表情だった。
「ありがとう、助かるよ……」
口調はゆっくりで、でもしっかりと意味を持っている。
心配していた“声色の変化”もなかった。
警察署に保護されたあの日の姉とは、別人のようだった。
玄関先で手渡そうとしたが、「重たいでしょ。中まで運んで」と姉が言った。
私は気軽に頷き、靴を脱いで上がる。
だが――一歩、踏み出した瞬間に思考が止まった。
玄関の床が、見えない。
紙袋、コンビニの弁当殻、古い雑誌、ペットボトル……
あらゆるものが折り重なり、足場を埋め尽くしていた。
「……え、ちょっと……これ……」
声を出した自分が驚いた。
言葉を止めようと思ったのに、反射的に出てしまった。
「片付けられないのよね〜」
姉は照れくさそうに笑って言う。
その様子に悪びれた感じはなく、どこかのんきにすら見えた。
私は無言のまま、手に持ったお米をキッチンへ。
足元を注意深くよけながら、慎重に進む。
キッチンもまた、使い終わった器や食品トレーが積み重なり、調理スペースなど無いに等しい。
――生活してるんだよね?
これで……ちゃんと生活してるってことなの?
混乱する思考を押し込みながら、お米を置き、振り返る。
姉は申し訳なさそうに頭をかきながら、「ガソリン代、ちょっとだけだけど」と小さな封筒を手渡してくれた。
その瞬間、私は動けなくなった。
こんな環境に住んでいるのに、
散らかった部屋のことよりも、
私に交通費を気遣ってくれる――そんな姉の姿。
「……うん。ありがとうね」
精一杯の笑顔を作って受け取った。
その帰り道。
私は不思議な違和感を胸に抱えていた。
散らかった部屋。
使われていないキッチン。
それでも、姉は外見上は安定していた。
病気の症状は落ち着いていると、医師も言っていた。
――じゃあ、これは病気のせいなの?
――それとも、ただの“だらしなさ”なの?
この部屋をどう受け止めていいかわからず、頭の中が整理できなかった。
ただひとつだけ、はっきりしているのは――
**私は、また“何かを見なかったことにしようとしている”**。
そう気づいた瞬間、心がきゅっと痛んだ。
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