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壊れた姉の見守り方  作者: 朝露 あじさ(Asatsuyu Ajisa)
第4章『そして、私の日常が壊れた』

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【第25話】「静けさに気づいた日」

目覚ましの音で目を覚ます。

 体は重くない。むしろ羽毛布団を押し返すように、すっと起き上がれた。

 眠りの質が良かったのか、休日の朝みたいなすっきり感があった。


 ぼんやりしたまま台所へ向かい、コーヒーを淹れる。

 カップに立ちのぼる湯気を眺めながら、ゆっくりとソファに腰を下ろす。


 その瞬間だった――。


「あれ……なんだろう、落ち着く……」


 ぽつりと口にしてしまった。


 今までも何度も座ってきたはずのこのソファ。

 でも、“座るだけで休まる”なんて感覚は、記憶にない。


 ――違う。

 姉がいない。


 ほんの少し前まで、姉の存在が“常に”家の中にあった。

 奇声をあげ、意味不明な言葉を繰り返し、あるいはただ無言で廊下に立ち尽くしていた日々。


 けれど、怖かったのは、姉が「何かをしている時」だけじゃなかった。

 何もしていない時――

 ただ“そこにいる”というだけで、私は気が張っていた。


 冷蔵庫を開ける音。

 シャワーの水音。

 部屋の扉が少し開くだけで、脳が反応してしまう。


 ――何か、また起きるんじゃないか。

 ――次は何を壊されるんだろう。

 ――急に怒鳴るんじゃないか。


 気づけば私は、常に「次の異常」を予測し、身構えて暮らすのが当たり前になっていた。


 そして今。

 姉がいない。


 それだけで、こんなにも空気が違う。

 部屋が、家が、まるで別の場所になったかのように静かだ。


 洗濯機が回る音さえ、今日は生活のBGMに聞こえる。

 台所の排水の音だって、むしろ安心感を与えてくれる。


 コーヒーを一口。

 苦みの奥に、胸の中の安堵がじわりと染みていく。


 出勤前に、軽く掃除をする。

 夕飯の下ごしらえもしておく。

 ほんのささいな家事だ。けれど、以前はこれすら重荷だった。


 なにかが起こるかもしれないと怯えながら、時計をにらみ、音に耳を澄ませていた。

 “あの頃”は、家にいても休まらなかった。


 ――それが、嘘みたいに今は静かだ。


 掃除機を止めると、部屋の奥まで静寂が広がった。

 その「無音」に、私は胸を突かれる。


 静けさ。

 それは、恐ろしいほどに心を解放してしまう。


 そして――罪悪感が喉元までせりあがってきた。


 私は何も悪いことをしていない。

 姉は治療を受けて、病院で回復に向かっている。

 なのに私は――「姉がいない今の生活の方が楽だ」と感じてしまっている。


 それは、姉を否定することなのか。

 姉を見捨てた証拠なのか。


 いや、そうじゃない。

 私は姉を見捨てたわけじゃない。

 できる限りのことをしてきた。

 警察に呼ばれ、病院に付き添い、裁判所に足を運んだ。

 無理してでも、支えようとした。


 それでも。

 その“存在そのもの”が、私をじわじわと蝕んでいたのだ。


 そのことを、ようやく今になって知る。


「……ずっと、無理してたんだな。私」


 独り言が、ぽつりとこぼれた。

 声にした途端、胸の奥に溜まっていた何かが、少しだけ解けていった気がする。


 罪悪感と、安堵と、ほんの少しの自責。

 それらが入り混じったコーヒーの味は、ちょっとだけ苦かった。


 カーテンの隙間から朝日が差し込む。

 光が床を照らし、私の影を長く伸ばした。

 姉の影が重なっていない床が、こんなにも広かったなんて。


 私はその光を見つめながら、深く息を吸い込んだ。

 胸の奥に残るざらつきは、すぐには消えないだろう。

 けれど、この静けさの中でなら、私は自分を取り戻していける気がした。


 そう思えることが、少しだけ救いだった。


 コーヒーを飲み干し、私は立ち上がる。

 出勤の時間が近づいていた。


 これからの日々がどうなるかは、わからない。

 姉が戻ってくるのか、離れたままなのか。

 未来の答えは、まだ見えない。


 けれど――

 今日、この「静けさ」に気づけたこと。

 それだけは、きっと私にとって大きな意味を持つはずだ。


 玄関の扉を開けると、朝の空気が頬を撫でた。

 少し冷たい風が、私の罪悪感も安堵も、まとめて抱きしめてくれるようだった。


 私は靴ひもを結び直し、背筋を伸ばす。


「……行ってきます」


 小さくつぶやいて、ドアを閉めた。


 誰もいない部屋に残されたソファが、静かに朝日を浴びていた。

次回は、毎日21時に更新予定です。

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最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。

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