【第24話】「小さな一歩と、大きな距離」
柔らかな陽射しがカーテン越しに床を照らし、朝の空気にほのかに花の香りが混じる。
窓を少し開けると、遠くから小学校のチャイムが聞こえてきた。
春の気配が部屋に差し込み始めた頃、姉が働きに出るようになった。
きっかけは、支援団体からの電話だった。
「体調の安定を見ながら、少しずつ外との関わりを増やしていきましょう」
担当者の穏やかな声は、私の心にも春の風のように届いた。
紹介してくれたのは、軽作業を中心とした職場。
体調に合わせてシフトを調整できる、負担の少ない環境だという。
「やってみたい」
姉は少し俯きながらも、はっきりとそう言った。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわり温かくなる。
何かを「やりたい」と口にする姉を、久しぶりに見た。
初出勤の朝、姉はいつもより早く起きた。
白いシャツに淡いグレーのカーディガン。
髪を肩のあたりで整え、鏡の前で何度も前髪を触る。
「これでいいかな」
その声に、私は「似合ってるよ」と即座に答えた。
ほんの少し頬を染めて、姉はうつむき加減に笑う。
「行ってくるね」
玄関でそう言った声は、かすかに震えていた。
でも、その背中は確かに前を向いていた。
昔、中学生だった私が制服姿の姉を見送ったあの頃と、同じような角度でドアが閉まる。
そして残された部屋に、静けさが戻る。
一人きりになった部屋で、私はしばらく動けなかった。
窓から射し込む光の粒が、床に模様を描いている。
それを眺めていると、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。
「ここまで来たんだね……」
声に出した途端、涙がじわりと視界を滲ませる。
あの日々を思えば、こんな穏やかな朝が来るなんて信じられない。
夜中に外へ飛び出す姉を必死で追いかけたこと。
警察からの電話に、心臓が跳ね上がったこと。
眠れない夜をいくつも越えてきた。
その全部を思い返すと、今の静けさが奇跡のように感じられた。
数ヶ月が経ち、姉は少しずつ勤務日数を増やしていった。
そんなある日、夕食の後にふいに切り出した。
「そろそろ、ここを出て一人で暮らしてみたい」
思わず手にしていた箸を止める。
驚きと同時に、ほんの少しの安堵が胸をよぎった。
きっと姉も、私と距離を取ることで自立を進めたいのだろう。
一緒に暮らすことは安心でもあり、同時に互いの負担でもあったのだ。
翌週、支援団体の担当者から家賃補助付きの単身アパートの紹介を受けた。
小さな台所とユニットバス、六畳一間のシンプルな部屋。
初めて訪れたとき、姉は窓からの眺めをしばらく見つめていた。
「ここなら……落ち着きそう」
その声は静かだったが、確かな意思が感じられた。
引っ越しの日、段ボールに詰められた荷物は意外と少なかった。
二人でカーテンを取り付け、棚を動かし、布団を敷く。
新しい部屋の空気は少し冷たく、まだ人の気配が馴染んでいない。
「本当に大丈夫? 何かあったら、すぐ言ってね」
そう声をかけると、姉はふっと笑った。
「大丈夫、心配しないで」
その笑顔が本当かどうか、私には分からない。
でも、以前よりも私の存在をはっきりと認識している瞳に、少しだけ安心した。
夕方、荷解きを終えて部屋を後にするとき、振り返った姉が小さく手を振った。
私はそれに応えながら、胸の奥に複雑な感情が渦巻くのを感じた。
安心と、不安と、そして少しの寂しさ。
けれど、その全てを受け入れてこそ、「支える」ということなのかもしれない。
私たちは、それぞれの距離を取り戻し始めていた。
小さな一歩が、やがて大きな距離になる。
その距離が、二人にとって必要なものだと信じたかった。
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