【第23話】「支えるって、何だろう」
退院してから数日が経った。
私と姉の、二人だけの暮らしがまた始まった。
朝は私が先に台所に立ち、湯気の立つ味噌汁をお椀によそう。
その匂いに誘われるように、姉が部屋から顔を出す。
「……おはよう」
まだ声は小さいが、ちゃんとこちらに向けられている。
「おはよう、味噌汁あるよ」
そう言うと、姉は小さくうなずき、席につく。
一口すすった瞬間、ほんのわずかに口角が上がる――その微かな変化を見逃さないよう、私は横目で確かめた。
昼は洗濯物を干す時間。
ベランダで風に吹かれながら、二人並んでシャツやタオルを物干し竿に掛ける。
「これ、私のじゃないよね?」と姉が首を傾げる。
「うん、私の。サイズ見ればわかるでしょ」
そんな何気ないやり取りが、妙に嬉しい。
数ヶ月前まで、こんな普通の会話すらできなかったのだから。
午後、買い物帰りの道。
スーパーの袋を片手に歩いていると、姉がふいに立ち止まり 一人二役が始まった。
『だよなぁ…そう…言った…そうそう』
「…違うわよ、それは…違うもの…」
『……やっぱり、あそこに…居るだろ』
その視線の先には、空き地と雑草だけが広がっている。
「誰が?」と聞くと、姉は答えない。
ただ、何かにうなずくような仕草をして、また歩き出した。
表情は穏やかで、声も軽く低くて静か。
それでも、その瞬間だけ、空気がわずかにひやりとした気がした。
あれは、退院して間もない頃の夜のことを思い出させた。
リビングで、姉が低い声とさらに低い声で、一人二役の会話をしていたあの夜。
『それは……うん。でも私は聞いてないよ』
「あ"ぁ、わかってるって。けど言ったら…するからな…」
耳の奥に冷たい針を刺すような声だった。
あのときの不気味さに比べれば、今日の呟きなんて穏やかなものだ――そう、自分に言い聞かせる。
夜、二人でテレビを見ていたときのこと。
ワイドショーで昔の事件が特集されていた。
「これ、知ってる」と姉がぽつりと言う。
「え、見てたの?」
「……ううん、直接は見てないけど、あの人の声、聞いたことある」
さらりと言われて、私は言葉を失う。
冗談にも聞こえるし、本気にも聞こえる。
私は曖昧に笑い、チャンネルを変えた。
本当に大丈夫なのだろうか。
今の姉は、以前のように怒鳴ったり暴れたりしない。
低い声での独り言も、断片的で会話にはなっていない。
こちらが話しかければ返事もくれるし、生活は一応成り立っている。
だからこそ、「まともになってきている」と信じたい。
――でも、本当に?
それは私が、そう思いたいだけじゃないの?
ふと浮かんだ疑念を、私はすぐに振り払う。
支えたい。
私は、姉を支えると決めたじゃないか。
警察署に連れて行かれたあの日、病院で診断を告げられたとき、心に刻んだはずだ。
じゃあ、何を迷っているのだろう。
私は、姉がまた壊れてしまうんじゃないかと怯えている。
心のどこかで、あの悪夢が再びやってくるのではないかと、構えてしまっている。
それでも――今の姉は以前とは違う。
違うと、信じたくてたまらない。
「大丈夫。今度こそ、ちゃんと回復してる」
そう言い聞かせることでしか、自分の気持ちを保てない。
怖い。でも、手放したくない。
そんな矛盾を抱えながら、私は今日も姉と同じ空間で暮らしている。
これが、「支える」ということなのだろうか。
そう思った瞬間、胸の重さがほんの少しだけ、ほどけた気がした。
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