【第22話】「戻ってきた日常の、違和感」
姉が退院した。
入院から二年が過ぎた頃。
病状は安定し、主治医から「自宅での生活が可能」との判断が下された。
そして――私の家に、再び姉が戻ってくることになった。
回復を喜ぶ気持ちと、本当に大丈夫なのかという不安が、胸の中でせめぎ合う。
感情はくるくると回り続け、落ち着くことができなかった。
退院の日、病院の正面玄関で待っていると、付き添いの看護師に肩を支えられた姉が、ゆっくりと姿を現した。
少し痩せ、髪も肩までばっさりと切られている。
それでも、私の目を見て小さく笑った瞬間――
「ああ、普通になってきたんだ」と胸の奥がじんわり温かくなった。姉の意思が感じられることが、ただ嬉しかった。
正直、不安がなかったわけじゃない。
退院前の面会では穏やかに会話できていたが、それが続く保証はない。
それでも――「今度こそ大丈夫」と信じたかった。
薬さえ飲んでいれば症状は落ち着く、主治医のその言葉を、私は必死に「安心材料」にしていた。
久々に並ぶ布団。
台所から漂うお味噌汁の香り。
テレビをぼんやり眺める静かな朝。
洗濯物を一緒に干したとき、風に吹かれたシャツの袖が姉の頬をかすめ、くすっと笑う。
そんな何気ない瞬間が、胸に染みた。
「……おはよう」
台所に立つと、姉が小さな声で挨拶する。
以前より少し低く、抑揚も控えめな声。
けれど、そのひと言で「戻ってきた」と感じられた。
ところが、数日後の夜。
洗い物を終えてリビングをのぞくと、照明の下で姉がソファに座っていた。
部屋の空気が妙に重い。足を一歩踏み入れたとき、ぽつりと声が漏れた。
「それは……うん。でも私は聞いてないよ」
「うん、わかってる。けど言ったら混乱するから」
背筋がぞわりと冷えた。
低い声と、さらに低い声――
一人二役の“会話”が、また始まっていた。
テレビもつけず、携帯も持たず、視線は宙を漂わせたまま。
まるでそこに“誰か”がいるように、落ち着いた口調でやり取りをしている。
怒鳴りも奇声もない。
それがかえって、静かな狂気のようで、耳の奥に冷たい針を刺す。
「うん……言わないよ、彼女には」
「だって、あの子、壊れちゃうからさ」
“彼女”――私のこと?
胸の奥がきゅっと締めつけられ、鼓動が耳の中でやけに大きく響く。
ソファの影から息を殺し、姉を見つめる。
指先がじんわりと冷えていく。
外へ飛び出すでも、壁を叩くでもない。
でも、確かに“あの姉”は、まだここにいる。
――あの頃とは違う。
――薬も飲んでいる。
――生活は成り立っている。
――私に危害を加えてはいない。
必死にそう言い聞かせる。
けれど、その「言い聞かせ」が必要な時点で、もう安心はしていないのかもしれない。
日常の中に混じった違和感が、じわじわと心を蝕んでいく。
「また始まった」――そう思ったが、口には出さなかった。
その言葉を放った瞬間、すべてが壊れてしまう気がした。
あの日々に、逆戻りしてしまいそうで。
だから、ただ見なかったふりをした。
姉の小さなつぶやきを、ただただ無かったことと自分に言い聞かせ、心の扉をそっと閉ざした。
次回は、毎日21時に更新予定です。
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