【第16話】「守るって、なんだろう」
そのスーパーは、車で40分以上かかる場所だった。
なぜ、そこまで行ったのか。
しづきが、自分の車に乗って出かけていたことはすぐに分かった。
リビングに置かれていた家の鍵と財布。
けれど、車の鍵だけが、見当たらなかったから。
私は、自分の足で行くしかなかった。
タクシーを呼んで、指定された警察署に向かう。
道中、ずっと胸のあたりがザワザワしていた。
冷房が効いているはずなのに、汗が止まらない。
頭の中で、最悪のケースばかりが浮かんでいた。
“もし、何かに巻き込まれていたら……”
“もし、本当に壊れてしまったら……”
警察署の前に着いたときには、手のひらが湿っていた。
深呼吸しても、うまく息が入らない。
自動ドアをくぐる。
カウンターに立っていた中年の男性警官に声をかけた。
「あの……桐原しづきの妹です。今朝、電話をいただいて……」
「ああ。あの人の身内の方ね」
警官は、無表情のまま書類に目を落としながら言った。
「最近ほんと多いんですよ、こういうの。精神的に不安定な人が騒いで、通報されるってケース。こっちも暇じゃないんでね」
……え?
一瞬、言葉が耳に入ってこなかった。
「何か……しづきが迷惑をかけたんですか?」
「迷惑っていうかね。スーパーの入口に長時間立って、ぶつぶつ言ってたら、そりゃ通報もされますよ。大体こういうの、家族がちゃんと見てないから起きるんです」
「……っ」
喉の奥がぎゅっと締まった。
言い返そうとしたけれど、言葉にならなかった。
彼はただ“処理対象”を見るような目をしていた。
そのとき、奥から別の警官が出てきた。
落ち着いた表情の年配の男性。
制服の胸元に、小さく名前の刺繍が見えた。
「やめなさい」
その一言で空気が変わった。
彼は私の方に歩み寄り、小さく頭を下げた。
「ご家族の方ですね。お姉さんの件、ご心配でしょう」
私はうなずくだけで、言葉が出なかった。
「私が対応いたします。少しだけお時間いただけますか?」
促され、私は応接室のような小さな部屋に案内された。
机の上には書類が並び、部屋の隅には保護時の説明資料のようなものが立てかけられていた。
彼は、私の前に静かに腰を下ろすと、ゆっくり語り出した。
「市内のスーパーの入口で、しづきさんはしばらく立ち尽くしていたようです。
ぶつぶつと独り言を言っていたと、通報が入りまして……」
「独り言……」
「はい。“天使”や“悪魔”という言葉が何度か聞こえたと……」
彼は、決して決めつけるような口調ではなく、淡々と事実を述べていた。
「もしかしたら薬物かもしれないと、一応確認しましたが、本人の反応や言動から判断する限り、その可能性は極めて低いと思われます」
そして、少しだけ視線を落としてつぶやいた。
「――あれは、現実と夢の境目が曖昧になっている人の目でした。
私たちもできる限りのことはしますが、ご家族の力が一番です」
私は、胸の奥がきゅうっと締めつけられるのを感じた。
誰かに責められるのではなく、ただ真っ直ぐに現状を伝えられるだけで、涙が出そうになった。
「付き添いの方がいるなら、今回は病院への搬送は見送ります。
まずは、しづきさんの顔を見てあげてください」
私は小さく頭を下げた。
あの目――
どんな表情で、どんな言葉をかけてくれるのか。
いや、何も言わずに、ただそこに“居る”だけかもしれない。
それでも、私は行かなきゃいけない。
姉を迎えに来たのは、私なのだから。
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