【第13話】「嵐のあとの部屋で」
2025/8/8に本文修正致しました。
あの夜から、私たちは一言も言葉を交わしていなかった。
浴室から聞こえてきた水音は、夜が更けても止まらなかった。
しづきは、まるで時間の感覚を失ったかのようにシャワーを浴び続けていた。
私がそっとバスタオルを差し出すと、彼女は受け取ったものの、ぼんやりと宙を見つめるだけ。
水滴が肩から滑り落ちても、拭くことなく立ち尽くしていた。
やがて、自分の足で立ち上がり、ふらりとした足取りで部屋へ戻っていく。
私は、その背中を追いかけられなかった。
あの叫び声と、目の奥に焼きついたあの光景が、脳裏から離れない。
足が床に貼りついたみたいに、動かなかった。
翌朝、目を覚ますと、しづきはいつもの場所にいた。
パーテーションで仕切られた奥のスペース。
パソコンのモニターが、ぼんやりと彼女の顔を照らしている。
画面には、誰かがしゃべって笑い、時折大きな声を上げる配信動画。
けれど、その音が彼女の耳に届いているようには見えなかった。
ただそこに光と音が流れ続け、空間を満たしているだけのようだった。
「……おはよう」
できるだけ普段通りの声を出したつもりだった。
けれど返事はなく、しづきはゆっくりと煙草に火をつける。
マッチの火が一瞬だけ部屋を明るくし、その後に薄い煙が広がる。
指先の動きはどこかぎこちなく、吸い込む動作も浅い。
机の上には空き缶がいくつも転がっていた。
数日前に新しい灰皿に替えたばかりなのに、もう吸い殻でいっぱいになっている。
煙草の先の赤い光が、彼女の顔の輪郭をちらちらと照らし出す。
その瞳は相変わらず焦点が合わず、何かを見ているようで、何も見ていなかった。
私は洗濯機を回し、鍋で味噌汁を温めながら、何度も彼女を盗み見た。
声をかけようとしても、喉の奥に何かが引っかかって、言葉が出てこない。
「昨日のこと、大丈夫?」とか、「何か辛いの?」とか――そんな簡単な言葉すら。
私の中にも、あの夜の重い残像が残っていて、それが言葉に蓋をしていた。
午後になっても、しづきはほとんど動かなかった。
煙草を吸い、缶コーヒーを一口飲む。その繰り返し。
トイレに立つときも、足取りは危なっかしく、壁に手をつきながら歩いていた。
私はそれをただ目で追う。
見守る、というよりも――見張っているような感覚に近かった。
夕方、外は冷たい風が吹いていたけれど、カーテンの奥の空気は重く淀んでいた。
私は夕食の支度をしながら、少しでも会話のきっかけを探そうとした。
けれど、まるで糸口が見つからない。
包丁がまな板を叩く音だけが、やけに大きく響いた。
夜になると、しづきはベッドに横になった。
カーテンの奥でシーツがわずかに揺れる音がして、その後は沈黙。
私はソファーベッドに身を沈め、部屋の電気を落とした。
暗闇の中、耳を澄ますと、ふたりの呼吸の音だけが交差する。
間にあるのは数歩の距離。
けれど、その距離が果てしなく遠く感じられた。
何も言葉のない夜。
しかし、その“静けさ”こそが――
いちばん、怖かった。
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