【第11話】『隣にいるのに遠い人』
2025/8/8に本文修正致しました。
朝、仕事に出かけようと靴を履いたとき、玄関の隅に見慣れない段ボール箱があった。
宛名はしづき。差出人は、聞いたことのないショップ名。
ガムテープはきっちり貼られているのに、箱は妙に軽い。
中身が入っているはずなのに、持ち上げるとガサガサと乾いた音がして、重さはほとんど感じない。
振れるたびに、何かが中でぶつかる小さな音が響いた。
仕事中も、その箱のことが頭から離れなかった。
あの日の、姉の妙に鋭い視線と、短い返事。
――届いたら見せる。
あれは、“何かが始まる予告”のようにも聞こえた。
夜、帰宅すると、段ボールはすでに開けられていた。
パーテーションの奥、姉のスペースには破かれた包装紙が散らばり、無造作に小物が並べられている。
石のようなもの、紫色の房がついたアクセサリー、そして“宇宙”“波動”といった言葉が書かれたカード。
照明の光が反射して、どれもやけに存在感を放っていた。
「……なに、これ」
思わず口にすると、しづきはちらりと視線を向けただけで言った。
「……部屋の空気、重かったから」
それだけで会話は終わり、彼女はまたパソコン画面に視線を戻した。
私の胸の奥で、ざわつきが広がる。
“浄化”や“守護”という言葉で埋め尽くされたその箱は、
何かを守るためのものなのか、それとも――何かにすがるためのものなのか。
私はまだ、それを“異常”と呼ぶことができなかった。
でも、予感は確実に確信へ近づいていた。
***
「ねえ、これ、なんで冷蔵庫に?」
夕飯の支度中、野菜室を開けたらコンビニのホットスナックが袋ごと突っ込まれていた。
ビニールはくしゃっと潰れ、中のパン粉はしっとりと湿っている。
「え? ああ、それ、熱いまま入れたから、気をつけたほうがいいかも」
パソコンの前から振り返らずに返ってくる声。
私は苦笑するしかなかった。
熱いまま入れれば、他の食材の温度が上がってしまうし、味も落ちる。
数ヶ月前まで、保存容器に日付シールを貼っていた人とは思えなかった。
「これ、いつ食べるの?」
「知らん」
短くて、重みのない返事。
そのやりとりの空虚さに、胸の奥がまたざわつく。
洗濯機を開けると、洗ったままのタオルが入っていた。
すすぎが足りなかったのか、洗剤の香りが強く残っていて、そのまま乾かす気になれない。
「言ってくれれば干したのに」と声をかけても、「忘れてた」と曖昧に笑うだけ。
少しずつ、日常の歯車が外れていく。
言葉が抜け落ちるように、しづきの意識もどこか抜け落ちている気がした。
夜、ソファーベッドに横になっても、パーテーション越しの物音が気になる。
カサッ――ガサッ……カタ、カタ、カタ……
(このタイピングのリズム、誰かとやりとりしてる?それともただの検索?)
答えはわからない。ただ“起きている”気配だけが、ずっと続いていた。
ある日、玄関に飲みかけのペットボトルが置かれていた。
どこで買ったのかも、いつ持ち帰ったのかも、聞く気になれなかった。
しづきは確かにここにいる。
でも、その心はどこか遠くを漂っている。
目の前にいても、私の声は届いていない気がしてならなかった。
“これって、まだ大丈夫な範囲……だよね?”
私は毎晩、誰にも聞かれない問いを自分に繰り返していた。
次回も、毎日21時の更新予定です。
続きが気になる方はブックマークや、⭐︎⭐︎⭐︎の評価をいただけると、とても励みになります。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。