【第10話】「予感の、その先に」
2025/8/8に本文修正致しました。
「……お姉ちゃん、最近どう?」
昼休み、会社の同僚にそう聞かれて、私は一瞬、言葉を探した。
食堂のざわめきの中、スープをすくう手を止める。
頭の中で、ここ数日の姉の姿が走馬灯のようによぎる。
「うーん……ちょっとずつは落ち着いてきた、かな」
その返事は、事実というより希望だった。
確かに、このところ暴れたり叫んだりすることはなかった。
昼夜逆転の生活は続いているけれど、以前のような異常なテンションや、意味不明な奇声は減ってきている。
それだけを切り取れば「落ち着いた」と言えなくもない。
「そっか、よかったね」
同僚は優しい笑みを浮かべてくれた。
その言葉に、胸の奥がわずかに痛む。
“よかった”なんて、簡単に言い切れる状況じゃない。
けれど、職場の人に心配をかけたくない一心で、私はいつも“平気なふり”をしていた。
仕事を終えて帰宅すると、しづきはパーテーションの奥、自分のスペースのパソコン前に座っていた。
いつもなら配信や動画の画面が光っているはずなのに、その日は違った。
モニターにはネット通販のサイト。
小さなイヤホンを耳に差し、何かを聴きながら、マウスを動かす手が止まらない。
視線は画面に釘付けで、その集中の仕方は異様なほど鋭かった。
「なに見てるの?」
私がパーテーション越しに声をかけると、しづきはほんの一瞬だけ反応した。
ゆっくりと振り返り、目が合う。
「……安かったの、だから買った」
「え?なにを?」
「……届いたら見せる」
それきり会話は途切れ、再び視線はモニターに戻った。
私は何も追及せず、キッチンへ向かった。
食器を片付け、タオルを畳んでいるとき――ふと違和感が走った。
引き出しにあるはずのハサミが、見当たらない。
大掃除の時にも使った、刃先に小さな欠けのあるあのハサミ。
数日前までは確かにあったのに、今日はどこを探しても見つからなかった。
「……あれ?」
口に出した声は小さく、部屋の奥には届かない。
すぐに探すのをやめ、タオルを畳む手を動かす。
でも、胸の奥にはざらりとしたものが残った。
理由ははっきりしない。
けれど、そのざらつきは「気のせい」という箱には入れられない感触だった。
その夜、私はリビングの明かりを少しだけ残して寝ることにした。
薄暗い部屋の中で、ソファーベッドに身を沈め、天井の木目を目でなぞる。
耳を澄ますと、奥のスペースから時折マウスのクリック音が聞こえてくる。
その音が、不自然に大きく感じられた。
「……明日、休みだったらよかったのに」
思わず漏れた独り言は、夜の静けさに吸い込まれて消えていった。
ハサミの行方も、通販で何を買ったのかもわからないまま、私はまぶたを閉じた。
その奥で、無視できない違和感がゆっくりと形を成していくのを感じながら。
次回も、毎日21時の更新予定です。
続きが気になる方はブックマークや、⭐︎⭐︎⭐︎の評価をいただけると、とても励みになります。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。