【第9話】「それでも、まだ迷ってた」
2025/8/8に本文修正致しました。
毛布を捨てたあと、私はしづきの寝具をすべて新品に変えた。
ニトリで安い掛け布団とカバー、それに枕とシーツ。
ビニールの擦れる音を立てながら、部屋の奥に運び込む。
古い寝具を回収袋に押し込み、焦げた匂いを部屋から追い出すように玄関へ運んだ。
しづきは、その一部始終を見ても何も言わなかった。
新しくなったことに気づいていないのか、興味がないのか――
その境界すら、もう私にはわからなかった。
夜になると、私はソファーベッドに座ったまま、スマホで検索を始めた。
背中越しにパーテーションの向こうの気配を感じながら、指先で文字を打つ。
「身内 精神疾患 相談」
「家族 病院 連れていけない」
「精神科 火事 トラブル」
画面に並ぶ文字列が、どれも生々しい。
他人事として見ていたはずの言葉が、今はまるで私に突きつけられているようだった。
胸の奥がざわざわして、スマホを閉じそうになる。
でも、目を背けたら、また火が出るかもしれない。
今度は本当に死ぬかもしれない――その恐怖が、画面から目を離させなかった。
病院に連れていく方法を探すと、
“本人の同意が必要”とか、“強制はできない”とか、同じ文言ばかりが並んでいた。
法律や制度の説明は丁寧なのに、私の知りたい「どうしたらいいか」は見つからない。
スクロールする指が震え、唇を噛む。
同意なんて、きっと無理だ。
今のしづきは、自分が病気だなんて、1ミリも思っていない。
むしろ私の方が「おかしい」と言われかねない。
かといって、警察を呼んだら――
しづきが「犯罪者」みたいになってしまう気がして、その選択肢にも手を伸ばせなかった。
何より、彼女がこれ以上追い詰められる顔を、私は見たくなかった。
私はただ、スクロールを繰り返す。
どこかに、私たちだけの“正しい答え”が転がっていないかと、必死で探していた。
そのときだった。
カーテンの奥から、不意に声がした。
どこか遠くを見るような、少しかすれた声。
「ねえ、最近、誰かが監視してる気がするんだよね」
息が詰まった。
親指が画面の上で止まり、鼓動の音が急に大きくなる。
ゆっくりと顔を上げ、パーテーションの向こうを見る。
しづきは椅子に座ったまま、虚空を見つめていた。
焦点の合わない瞳は、私ではない“何か”を追っているようだった。
「カメラとか仕掛けられてる気がする。スマホにも、テレビにも……全部」
言葉の端に、確信めいた硬さがあった。
冗談や思いつきの軽さではない。
それを「事実」としてすでに受け入れているような響き。
私は何も言えなかった。
ただ、小さくうなずくふりをして、視線を逸らす。
否定したらどうなるのか、その先が見える気がして、怖かった。
“ああ、やっぱり……”
頭の中でそう呟く。
でも同時に、心のどこかでまだ迷っていた。
病院に連れて行くべきなのか。
それとも、ただの疲れや一時的な思い込みなのか。
見間違いであってほしい――
そんな希望が、まだ胸の奥に居座っていた。
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