5・おとぎ話の主人公
『我と同じ憎しみを抱く者よ』
おごそかな女の声が聞こえてきたのは、娘が呪詛のごとき悪阻に悶え苦しんでいるさなかだった。妊娠が判明した時から立つことすらままならぬほどつらかった悪阻は、臨月を迎えた今、自ら腹をかっさばいてしまいたいほどの苦痛と化している。
娘の自死を防ぐための監視役の侍女もエルダも、特に反応していない。幻聴だったのだろうかと思ったら、今度はよりはっきりと声が響いた。
『聞こえておるのであろう、娘よ。裏切られ、しいたげられ、望まぬ子を孕まされ、その子のせいで苦しめられている娘よ』
『……っ!?』
ひゅっと息を飲んだとたん、ベッドのそばに控えるエルダたちが飛んできた。娘の四肢を拘束する絹布を縛り直し、凶器になりそうなものがないのを確認すると、無言で下がっていく。彼女たちが気にかけているのは娘の腹に宿る子であって、娘自身ではない。娘など子が生まれるまで死なせず生かしておけばいいだけの器だと思っているのだ。
『言葉を発する必要はない。ただ念じるだけで我にはそなたの声が届く』
またあの声がした。声の主には娘の置かれた状況が見えているようだ。
(……貴方は、どなたですか?)
娘はおそるおそる念じてみる。
いらえはすぐに返された。
『そなたたちが建国王と呼ぶ男と結ばれ、初代王妃となった娘の母じゃ』
つかの間、娘は悪阻の苦しみを忘れた。建国王が女神の娘と結ばれたというのは、王国の民なら子どもでも知っていることだ。
では、この声の主は。
(女神様……なのですか? 建国王陛下に結界の神具を授けられたという……)
『いかにも』
女神の声に嘲りの色がにじんだ。
『しかし、結界の神具か。ようも取り繕ったものじゃの』
(……違うのですか?)
『我が創ったのは確かゆえ、神具といえば神具じゃ。されど結界などではない。あれは……』
――呪いじゃ。
女神は淡々と、だがまぎれもない憎悪を燃え上がらせながら告げ、娘に語ってくれた。国中の民から今もなお尊崇される建国王と、彼の妻となった女神の娘の真実を。
遠い遠い昔、幼い女神の娘は母親が目を離した隙に地上に降り、動物たちとたわむれるのが好きだった。神といえど万能ではなく、幼いうちは人間とさほど変わらない。危険だからやめるよう何度女神が言い聞かせようと、女神の娘は母のもとを抜け出すことをやめようとはしなかった。人間でいう反抗期のようなものだったのかもしれない。
そしてある日、恐れていた事態が起きた。女神の娘の美貌と文字通り人間離れした魔力に目をつけた男……後の建国王が彼女をさらい、強引に妻にしてしまったのだ。
人間に汚されてしまった者はもはや神の世界には住めず、人間として生きるのが神々の定め。女神の娘もまたその定めに従わなければならなかった。
母といえど、女神には人間になってしまった娘に肩入れすることは許されない。女神にできるのはただ見守ることだけだった。ほかに行き場のない娘が建国王の奴隷のように酷使され、魔獣を倒させられ、魔力の強い子を産まされ、全ての手柄を建国王に横取りされるさまを。娘が長くはない生を終えるまで、ずっと。
母の言いつけを守らなかった娘にも非はある。
だがそれは、ここまでの報いを受けなければならないほどの罪だったのか?
渦巻く怒りと憎悪を慈悲深い笑みに隠し、女神は妻を亡くした建国王のもとに降臨した。そして神具を授け、告げたのだ。
――この神具を使えば、あらゆる魔獣を近づけぬ結界を発動できる。ただし使えるのは我が娘が愛した者と、その子孫のみ。
『あの男は喜んでおったの。我が娘が死に、魔獣を始末させられる者がいなくなった時だったから当然ではあるが』
(……ですが、王国が神具の結界に守られてきたのは事実です。呪いだなんて思えませんが)
『それでも、か?』
誰かがそっと腹に触れる感触がした。エルダたちは動いていない。ということは、これは女神の……。
『人間に堕ちたとはいえ、神であった娘の血を引く者は子に恵まれづらい。濃い血の子を孕んだ者は、強い苦しみに悶絶することになる。神の血と人間の血が反発し合うがゆえ』
(……)
『それでもこの国の王族は……あの男とその子孫は、子を作らざるを得なかった。結界の神具を発動させ続けるため、愛しい者が、我が子を孕んだ女が苦痛に悶え苦しんだ末に狂い死ぬさまを見せつけられ続けた』
(……まさか……)
娘は正しく理解した。女神が結界の神具を呪いだと断言したわけを。
女神は味わわせたかったのだ。愛しい者を奪われる、自分と同じ苦しみを。娘を奪った男と、その子孫にまで。
なんという憎悪の深さだろう。だが娘はひどいとは思わなかった。むしろ胸がすく心地だった。自分こそ建国王の呪いに巻き込まれ、苦しみのさなかにあるというのに。だって、だって自分は。
『そう、そなたは我と同じ。愛しい者を理不尽に奪われる怒りと苦しみを知っておる』
そうだ。奪われてしまった。異母兄に、異母姉に、宰相に、その妻に、国王に、彼らを囲む全ての者たちに……愛しいあの人と、生まれるはずだった命を。
二人は幸薄かった娘が望んだ、数少ない幸福だった。
あの人と子どもと三人、誰も自分たちを知らない土地でつつましく暮らせたなら、それだけで幸せだったのに。
『(全部、奪われた)』
女神の声と自分の思考がぴたりと重なった瞬間、娘は理解した。なぜ女神が声をかけてくれたのか。
(……まだ、足りないのですね)
憎い建国王の血を引く男たちの嘆きが。悲しみが。憤りが。彼らはとうに建国王の所業など忘れ果て、美化して子孫に伝えているというのに。
『足りぬ。……足りるわけがない』
だって実際に苦しみ血を流し、命を落とすのは彼らの子を孕んだ女たちだ。彼らは嘆き悲しむが、それとて女たちが死んで時間が経てば薄れていってしまう。
もっと苦しめたい。なぜこんな目に遭うのかと、己の運命を嘆かせたい。
そんな願いを叶えるため、女神は娘に目をつけたのだ。当代の王イルデブランドは建国王の生まれ変わりと謳われる男。悲鳴を上げさせるには格好の標的だろう。イルデブランドが増幅させた悲しみと怒りが、娘の腹の子に受け継がれるなら女神はいっそう満足できる。
『我と契約し、我が願いを叶えてくれるのなら、我はそなたを生かし、さらにそなたが失ったものを還してやろう』
(っ……、ま、まさか、それは……)
『そなたの目の前で殺された愛しい男と、流されてしまった子。二人ともそなたに還してやるという意味じゃ』
還ってくる。二度と会えないはずの愛しい人たちが。
(やります。やらせてください)
『……すぐに決めて良いのか? 我が偽りを述べておるとは思わぬのか?』
(だとしても、女神様が願いを叶えたければ、私を生かさなければならないはず。生き延びさえすれば、たとえ女神様のお言葉が偽りでも、あの人たちに復讐することはできましょう)
己をこの境遇に貶めた、全ての憎むべき人々が娘の脳裏に浮かぶ。あの者たちに自分と同じ地獄を味わわせるまでは、死んでも死にきれない。
『は、……はははっ!』
女神の笑いが弾けた。
『なんという強い執念! 気に入ったぞ、娘よ。我はなかなかの拾い物をしたようじゃ』
(では……)
『うむ』
――契約は成立じゃ。
女神の宣言と同時に陣痛が始まり、娘は男の子を産み落とした。王国待望の世継ぎだ。赤子ながら魔力は強く、女神の血を濃く感じさせる子だった。
ならば娘はすぐにでも死ぬはずだと、誰もが思っていただろう。それで自分たちの罪もなかったことにできると。
けれど娘は生き延びた。悪い夢でも見ているかのような周囲の人々の表情が、おかしくてたまらなかった。布団の中で何度も笑った。こんなに笑ったのはどれほどぶりだろう。
女神は一つ目の約束を守ってくれた。だとすれば二つ目も……娘が女神の願いを叶えれば、きっと。
その一念で、出産後の娘は従順を装いながら過ごした。身勝手な愛を捧げてくるイルデブランドにも微笑んでやったし、エルダに『子を産めば女は変わるものですわ』としたり顔で言われても殴らないでおいてやった。
唯一、生まれた赤子……ラファエロには憐憫を抱いたが、長続きはしなかった。抱くことも許されず、娘から隔離するように乳母へ預けられてしまった子に、母親らしい感情を持つことは難しかった。
でもそれは女神がくれた慈悲かもしれない。ラファエロもまた、娘の駒に過ぎないのだから。感情など抱いてしまっては、駒として利用できなくなるだろう。
養生しながら爪を研ぎ、牙を磨き、王国にとっても王家にとっても自分が必要不可欠な存在になった時、娘は行動を起こした。何も知らず自分を溺愛していた愚かな男に真実をぶちまけ、条件をつきつけた。
公務以外では一切王家に関わらないこと。家族としての交流を求めないこと。離宮を住まいに与え、その中では娘の意志が王よりも優先されること。
レアーリ伯爵やエルダたちは猛反対したが、イルデブランドは全ての条件を呑んだ。押し潰されてしまいそうな罪悪感を少しでも軽くするためだろうか。
愚かな男。
お前の苦しみは、始まったばかりだというのに。
イルデブランドの絶望の表情がお気に召したのか、離宮に移り住んですぐ、女神は二つ目の願いを叶えてくれた。異母兄に殺された愛しい人はありし日の姿のままよみがえり、娘をその腕に抱いてくれた。
そうして宿った新たな命は、女神が還してくれたもう一人の愛しい存在だ。ラファエロの時と違い、ほとんど悪阻もなく、幸福のうちに産んだ子に、娘はロザーリオと名付けた。
王妃が王以外の男と通じ、子をなすなど前代未聞の事態だが、誰も……イルデブランドすら文句は言えなかった。離宮は娘の王国であり、娘は離宮の女王なのだから。
何度か送り込まれた刺客は、おそらくレアーリ伯爵あたりが放ったのだろう。ロザーリオと、あわよくば娘も殺し、イルデブランドの心を守るために。
けれど手練れの刺客たちは離宮に忍び込んだ瞬間、この世のものとは思えぬ苦痛に襲われ、悶絶しているところを捕らえられた。娘がラファエロを妊娠中に味わった苦痛をほんの少しだけ、女神の力によって与えられただけだというのに情けない男たちだ。
口封じも兼ねてだろう、レアーリ伯爵は捕らえられた刺客たちをひと思いに殺してやろうとしたが、刺客たちは死ねなかった。たっぷり半年間、かつての娘と同じ苦しみにのたうち回り、女神が飽きたことでようやく解放してもらえた。
彼らはとてもいい仕事をしてくれた。自ら放った刺客たちの凄惨な最期を見せつけられたレアーリ伯爵は、妻のエルダともどもおとなしくなり、以降、離宮には手出ししなくなったのだ。娘の機嫌を損ねないことを最優先で動くようになった。
王の最側近が降伏したことで、娘を止める者はいなくなった。今や王国は娘のたなごころの上。あとはじわじわと、じわじわと、握りつぶしてやるだけだ。
異母兄の溺愛する娘がある程度成長するのを待ち、祖父ほどの歳の男に輿入れさせてやる。妻は亡くしていても、本妻以上に寵愛する側室に夢中だそうだから、異母兄の娘が歓迎されることはない。誰にも愛されず、邪魔者扱いされながら一生を終えるだろう。愛する娘の苦境に、異母兄は引き裂かれるような苦痛を味わうに違いない。
異母兄の息子の方は成人まで放置しておく。まっすぐな気性の彼は、友であり未来の主君でもあるラファエロの置かれた境遇を知れば、必ず母親である娘に噛みついてくるだろうから。不敬の罪で捕らえ、敬愛する父親が犯した罪を教えてやろう。どんな悲鳴を上げてくれるか、今から楽しみだ。
異母姉には同じ女として、娘と同じ苦痛を味わってもらうことにした。刺客たちに与えたような生ぬるいものではなく、娘がさいなまれたのとそっくり同じ苦しみを、妊娠するたび味わうことになる。幸い、女神によれば異母姉はまだまだ子を望める身体だそうだから、苦痛の時間はしばらく絶えまい。
エルダはラファエロが成長するにつれ己の言動を後悔し、母としてラファエロに関わって欲しいと懇願してきたが今さらだ。実子よりも可愛がっているラファエロが母親に愛されないと嘆くたび、さらなる後悔と自己嫌悪に悶えるだろう。夫のレアーリ伯爵と共に。
「どうして笑っていらっしゃるの、お母様?」
ふと気づけば、ロザーリオが愛らしい手で娘のスカートを握っていた。愛おしさが溢れ、娘は小さな身体を膝の上に抱き上げる。
「いいことがあったからよ」
「いいこと?」
「ええ、とてもいいことが。……でも、貴方の可愛いお顔を見たら忘れてしまったわ」
柔らかな頬に頬を擦り寄せていると、いつの間にか愛しい人が娘たちに寄り添っていた。長くたくましい腕でロザーリオごと娘を抱き締めてくれる。
(……ああ、幸せだ)
この幸せを守るためなら――女神との契約を履行するためなら、何だってする。誰をどれだけ苦しめても構わない。
「愛しているわ、貴方、ロザーリオ」
娘は幸福に満ちた笑みを浮かべ、愛しい人と息子の頬に口付けた。
これにてひとまず終幕。
『娘』や『ロザーリオ』、『愛しい人』の正体はご想像にお任せします。