4・王の侍従レアーリ伯爵
「王太子殿下はお熱も下がり、お食事も召し上がれたそうです。明日にはベッドから出られるかと」
「そうか。……良かった」
レアーリ伯爵が妻のエルダからの報告書を読み上げると、主君はペンを握る手を止めて微笑んだ。端整だが気難しそうな顔を緩めることができる数少ない一人が彼の息子、王国の希望と謳われる王太子ラファエロだ。そしてもう一人は。
「……王妃は、ラファエロを見舞ったのか?」
「いえ。……離宮から一歩もお出ましになってはおりません」
何とか王太子の見舞いを、と懇願した若い侍女がむごい仕打ちを受けたことは黙っておく。豪放磊落と評されるが、実際は繊細な主君を必要以上に傷つけたくはない。
「そうか。……仕方ない。公務ではないからな」
寂しげな横顔を見れば、慰めてさしあげたいと思わない令嬢はいないだろう。女神の血の賜物か、王族は整った外見の者が多いが、主君は中でも群を抜いていた。
女神の血を受け継ぎし王、イルデブランド。
幼い頃からレアーリ伯爵が仕えてきた主君は、民を思い魔の脅威をはねのける賢王に成長してくれた。相愛の妃を娶り、待望の王太子をなしたイルデブランドは、何も知らぬ者の目からは幸福の絶頂にあるように見えるだろう。
イルデブランドの父である先王は、息子が生まれた時から強い懸念を抱いていた。先祖返りとも言われる濃い女神の血を持つイルデブランドが、次代に血をつなげられるのかという。
女神の血を受け継ぐ王族は、その血が濃ければ濃いほど子ができにくい。それは周知の事実だが、一部の者を除いてひた隠しにされている秘密があった。王族の子を孕んだ女性は十月十日地獄の苦しみにのたうち回り、腹の子が濃い血を引いていた場合、出産と同時に命を落としてしまうということだ。
なぜ秘密にするのか。理由は簡単だ。妊娠に悪阻は付き物だが、通常の度をはるかに越えた生き地獄のような苦しみ。いかなる薬草も祈祷も魔術も効果はなく、出産まで悶絶し続けるしかない。そんなものを味わうとわかっていて嫁ぎたがる令嬢も、娘を嫁がせたいと思う親もそうそういないからだ。
イルデブランドの子を孕んだ令嬢が無事出産できる可能性は低い。いや、その前に孕めるかどうか。
先王は悩んだ末、公爵家の令嬢をイルデブランドの婚約者にあてがった。先王にはイルデブランド以外の子がおらず、どうしてもイルデブランドに子を作らせなければならなかったのだ。
公爵家には過去何人か王女が降嫁しており、女神の血も流れている。その令嬢ならどうにかイルデブランドの子を産んでくれるのではないかと期待したのだろう。
しかし令嬢は身ごもったものの、苦しみに耐えきれずのたうち回った末に死んでしまった。時間の許す限り令嬢に付き添い、その尋常ではない悶絶ぶりを目の当たりにしたイルデブランドは、葬儀の後、疲れはてた顔で呟いた。
『もう、妻は要らぬ』
イルデブランドの気持ちは痛いくらいわかった。
尊重してやりたかったが、そういうわけにはいかなかった。イルデブランドは王なのだ。神具の結界を絶やさないためには、何としてでも子を……次の結界維持者を作らせなければならない。
そこでレアーリ伯爵は王家の血を受け継ぐ貴族家から、次の候補となる娘を探すことにした。今度はなりふりなど構ってはいられない。
さすがに王妃を立て続けに死なせるわけにはいかないから、正式な妃ではなく御腹様ということにした。対象も拡大した結果、うってつけの令嬢が見つかる。
王女を祖母に持つ、カザリーニ伯爵家の末娘。嫡男と長女とは母親が違う……放蕩者で知られた先代が使用人に手をつけて産ませた娘のようだが、一応伯爵令嬢として届けは出されている。つまり貴族の娘。
だが使用人の娘なら、正妻の子である嫡男も長女も御腹様として差し出すことに抵抗はないだろう。特に嫡男のデルフィーノは父親早世のため若くして当主を継いだが、上流貴族とのつながりの薄さのせいで苦労しているようだ。長女はろくな嫁入り先が見つからない。二人を引き立てることを約束すれば、末娘は必ず御腹様として差し出される。
レアーリ伯爵の読みは的中した。さほど待つほどもなく、末娘は王宮に納められた。
予想外だったのは娘の白百合のごとき美貌と、そのはかなげな風情にイルデブランドが魅せられたこと……そして、娘の虚ろな心だった。若い女なら誰もが憧れるイルデブランドにどれだけ優しく話しかけられようと、末娘はろくに返事もせず、じっと己の腹を抱き締めていた。
その理由は、異母兄デルフィーノに聞けばすぐに判明した。
御腹様に選ばれた時、末娘はすでに身ごもっていたのだ。相手は離れで働く庭師の息子。離れといっても物置小屋同然のあばら家で、とても伯爵令嬢が住むような場所ではない。夫が使用人に産ませた子が気に入らないあまり、先代伯爵夫人は末娘を離れに追いやり、メイド同然……いや、メイドよりも酷使される暮らしを強いたのだ。
末娘にとって数少ない救いは、庭師一家が彼女を実の娘同様に慈しんでくれたこと。そして庭師の息子と思いを通じ合わせられたことだっただろう。
末娘の妊娠が判明すると、庭師の息子は末娘と共に遠くの街へ移り住む決意を固めた。すでに彼女をいびり抜いた先代伯爵夫人も、父親の先代伯爵も亡くなってしまったが、異母きょうだいがいる。仮にも伯爵令嬢が庭師の子を孕んだと知れば、何をするかわからない。
しかし決行しようとしていた矢先、王宮からの使者が訪れ、末娘を御腹様に所望した。異母姉カルロッタと異母兄デルフィーノによって末娘は離れから引き出され……妊娠に気づかれてしまった。
他の男の子を孕んでいては、イルデブランドの子を孕めない。使者は一刻も早くと急かしているのだ。出産まで待つことなどできない。
デルフィーノはどうしても、降ってわいたこの好機を逃したくなかった。
だから……末娘に無理やり堕胎薬を飲ませ、腹の子を流したのだ。そして絶望し、空っぽになった末娘を王宮に連れてきた。
(何と愚かな。……いや、真に愚かなのは私だ)
デルフィーノを残虐非道だとののしる権利は、レアーリ伯爵にはない。デルフィーノの取り調べにイルデブランドが同席していなかったのをいいことに、レアーリ伯爵はイルデブランドにささやいたのだ。
『娘御は恋人を亡くして絶望し、あのようなありさまになってしまったとのこと。……ここは陛下が慰めて差し上げたらいかがですかな?』
実際、末娘の恋人だった庭師の息子は、激怒したデルフィーノによって斬り殺されていた。……末娘の目の前で。だから偽りを告げたわけではない。事実を一つ、省いただけだ。
末娘に惹かれていたイルデブランドはためらったが、己の義務もわきまえている。最終的には末娘を寝所に招き……そして末娘は妊娠した。レアーリ伯爵は狂喜し、妻のエルダに付きっきりで末娘の世話をさせた。
いや、あれは世話という名の監視だ。
望まぬ子を宿した末娘はいまだに恋人も流された子も忘れられず、彼らのもとへ逝こうとした。そのたびエルダは末娘を強引な手段を使ってでも止めなくてはならなかった。
『腹の御子を流すのは許しません』
『妃殿下の務めは世継ぎを挙げること。そのためだけに、陛下は貴方を迎えたのですから』
イルデブランドは末娘に情愛を抱いていたが、エルダの言葉は嘘ではなかった。エルダは末娘が無事に子を産むことだけを優先した。……末娘自身よりも。
哀れだと、悪魔の所業だと、レアーリ伯爵が己を責めなかったわけではない。冷遇され、ようやく小さな幸せを掴もうとしていた女性を、子を産ませるためだけの道具として使い捨てようとしているのだから。
だが神具を受け継ぐ王の子の出生は、一人の女性の命よりはるかに重かった。少なくともレアーリ伯爵にとっては。末娘は自分たちを恨むだろうが、どうせ子を産めば死ぬのだ。痛くも痒くもない。この罪はレアーリ伯爵もまた地獄に堕ちたら償おう、そう思っていたのに。
ラファエロ王子を産んだ末娘は、死ななかった。何日も生死の境をさまよいつつも生き延びた。
末娘が一命を取り留めた時、イルデブランドは歓喜し、彼女を正式な王妃にすると宣言した。周囲も賛同した。断絶寸前まで追いつめられた王家に、末娘は王子をもたらした。反対する者などいるわけがなかった。……レアーリ伯爵を除いては。
あれほど子を産むことを拒んでいたのに、意識を取り戻した娘は別人のように従順になっていた。子を産めば女は変わる、母性に目覚めたのでしょうとエルダは評したが、とてもそのようには思えなかった。
末娘とイルデブランドの結婚は王国中の民に祝福され、王に愛されてしがない伯爵家から王妃にのぼりつめた末娘は、おとぎ話の姫君のようにもてはやされた。その裏側に隠された真実は、徹底的に隠された。
末娘は王国の幸福と繁栄の象徴。彼女が公務で姿を現さなければ、民は失望し、暴動すら起きかねない状況だった。
おそらく末娘は、待ちわびていたのだろう。自分が王国にとっても王家にとっても、必要不可欠な存在になることを。
イルデブランドは妻を愛している。
ラファエロは母を愛している。
そうと知った上で、ある日末娘は黙っていた真実の全てをイルデブランドに告げてしまった。そして衝撃を受けるイルデブランドに求めたのだ。
公務以外では一切王家に関わらないこと。家族としての交流を求めないこと。離宮を住まいに与え、その中では末娘の意志が王よりも優先されること。
そのような身勝手な要求など、呑んではならない。レアーリ伯爵はイルデブランドに諫言したが、聞き入れられることはなかった。伯爵が末娘の悲惨な真相を伏せていたこともまた、イルデブランドに露見してしまったせいで。
イルデブランドは憤ったが、レアーリ伯爵を責めはしなかった。憤りはあくまで伯爵にそうまでさせてしまった自分と、その身体に流れる血に向けられていた。
『……女神の血とは、何なのだろうな』
まるで呪いだとイルデブランドは吐露した。己の子を宿した女を苦しみ抜いて死なせ、子が成長すればまた同じ罪を背負わせなければならない。それは祝福ではなく呪いではないのかと。
諌めなければならないのに、レアーリ伯爵も同意してしまった。神具がなくても、他国は犠牲を払いつつも魔獣の驚異をどうにか撃退している。神具があるばかりに、この国は神具を受け継ぐ王家の血をつなぐことだけに心血を注いでしまったのだから。
……結局、イルデブランドは末娘の要求を全て呑んだ。末娘、いや王妃は何も知らぬ者からはおとぎ話の主人公として憧憬を、真実を知る者からは復讐者として恐怖を集めている。
かつて王妃をしいたげた者全てが、今は強い罪悪感を抱え、己を責めている。どうしてあんなにむごい仕打ちができたのかと。むろん、レアーリ伯爵も。
だがそれは王妃が生き延びたからこそだ。もし彼女が定め通り出産と同時に死んでいたら、つかの間胸の痛みを覚えたくらいで、その痛みも王子誕生の歓喜に打ち消されてしまっただろう。
だから今度は王妃がしいたげる側に回るのは当然の道理だった。誰も文句など言えない。自分たちはすでに王妃から何もかも奪い、その心を蹂躙したのだから。
異母兄デルフィーノの幼い娘を父親と同年代の隣国の王へ嫁がせる。そう推薦したのは王妃で、全面的に支持したのはイルデブランド、しゅくしゅくと手続きを進めたのがレアーリ伯爵だった。デルフィーノは手を尽くして回避しようとしているようだが、くつがえることはない。
いずれレアーリ伯爵も何らかの形で王妃と同じ苦しみを味わわされることになるのだろう。せめてその日が訪れるまではイルデブランドを支えたい。そんな願いすら、王妃には傲慢だと嘲笑われそうだが。
『……女神の血とは、何なのだろうな』
ずっとその言葉が頭を離れない。
次回、最終回です。