3・侯爵夫人カルロッタ
「無理に決まってるじゃない」
弟からの書状を一読するなり、カルロッタは頭を抱えた。
「無理よ。……あの子が私の願いを聞いてくれるわけがないわ」
カルロッタがダレッシオ侯爵夫人になったのは八年前。貴族令嬢としては遅い結婚だった。
生家のカザリーニ伯爵家は王家の血を継ぐことくらいしか誇れる点のない貧乏貴族だったため、持参金を期待できない令嬢を正妻に望む貴族はほとんどいなかったのだ。たまに舞い込む縁談といえば、美貌のカルロッタを後妻に迎えたい老貴族からのもの。
生まれる時代を間違ってしまった。
カルロッタも、きっと弟のデルフィーノもそう思っていた。
デルフィーノは優秀な青年だった。貴族学院では常に首位の成績を維持していたし、武術の腕も悪くなかった。けれど出世職と謳われる王宮の花形の役職を射止めるのは有力な権門の一族ばかりで、鬱屈をつのらせていた。
祖父……先々代伯爵の時代ならデルフィーノは宰相の側近、いや、宰相そのものにもなれたかもしれない。祖父は隣国との戦で危機に陥った当時の王を救出し、その功を讃えて王女を妻に賜ったほど優秀な軍人だった。
しかしその息子である父は、祖父とは似ても似つかぬろくでなしだった。若い頃から親の威をかさに好き放題、道楽を重ね、努力を何よりも嫌う。
祖父母が馬車の事故に巻き込まれて亡くなり、爵位を受け継ぐと、放蕩に歯止めがかからなくなった。母が早死にしたのは、父の代理としての仕事と女主人の務めの両立に疲れはてたせいだ。
父が若い愛人との同衾中に心臓発作を起こすという不名誉極まりない死を遂げ、デルフィーノは若くして伯爵家の当主になった。しかし伯爵家の財産は父に食い荒らされ、ほとんど残っていなかった。
デルフィーノには想い人がいたが、社交にも苦労するような家に迎えられるわけもない。彼女の両親からも断りを入れられたようだ。
妻を娶れないのでは跡継ぎも作れない。カザリーニ伯爵家は断絶の危機にまで追い込まれていた。
こうなったらいっそ資産のある成金貴族の後妻になり、伯爵家に援助を乞うしかないのか。カルロッタがそこまで思い詰めていた時だ。王宮から密使が遣わされたのは。
『貴家の末のご息女を、イルデブランド陛下の御腹様としてお迎えしたい』
末のご息女。
密使の言葉で、カルロッタは久しぶりに妹の存在を思い出した。
そう、伯爵家には三人の子どもがいるのだ。上からカルロッタ、デルフィーノ、そして妹。伯爵家の娘として認知こそされているが、妹は母である伯爵夫人の子ではない。父がメイドに生ませた娘だ。
母親ごと放逐されても当然なのに、母は情けをかけ、敷地の片隅に住まわせてやっていた。我が母ながらなんて慈悲深いのだろうと、当時は心から感動していたのだ。……愚かにもほどがあった。
『どうしてすぐにお引き受けしなかったの』
密使が帰ってすぐ、カルロッタは弟を責めた。デルフィーノは『少し考えさせて頂きたい』と返事を保留してしまったのだ。
『だが姉上、妃ならまだしも御腹様では……』
御腹様とは読んで字のごとく、王のために腹を貸す女性のことである。側室でも愛妾ですらない、王族の子を産むためだけに召し上げられる存在だ。
王の子の母として敬意は払われるが、後の面倒を避けるためどこかに嫁ぐことも許されない。その惨めな境遇は、カルロッタも同じ女として哀れみを覚えないでもないけれど……。
『だからこそあの娘を差し出すのです』
イルデブランドは先王が急死したため二十歳で王位を継ぎ、有力な公爵家から王妃も娶ったが、翌年には病死してしまった。その後子沢山な家系を見込まれ迎えた側室たちも、一人の子も産んでいない。
女神の血のせいだと、宮廷貴族たちは噂した。建国王の妃は女神の娘だと伝わる。女神は祝いの品として結界の神具を贈った。神具の結界が全土を覆っているおかげで、王国は魔獣の脅威から守られている。
神具は女神の血を濃く引く者にしか発動させられない。だが女神の血が濃い者は、子に恵まれづらいのだ。女神の血が人間には馴染まないからではないかと言われる。
イルデブランドは結界の範囲を隣国にまで広げられるくらい、濃い女神の血を受け継いでいた。おかげで隣国を戦わずして従属させることもでき、名君と称えられているが、皮肉にもその女神の血のせいで跡継ぎに恵まれない。
『陛下が我が家に注目されたのは、祖母を王女に持つあの子なら世継ぎを産んでくれるかもしれないと思われたからです。側室ではなく御腹様にとの仰せなのは、亡き王妃様のご実家にはばかられてのことでしょう』
『それは私も承知していますが……』
『あの子がめでたく陛下の御子を産めば、実家たる我が家には相応の褒美が与えられるでしょう。きっと貴方に相応しい地位も。……そうすれば、想う女性を迎えることも叶うのではなくて?』
それでデルフィーノは迷いを吹っ切ったようだ。すぐさま召し使いに命じ、離れに住んでいる妹を連れて来させた。
『まあ、これは……』
思わずため息がもれた。それくらい、妹は美しい娘だった。大輪の白百合を想わせる美貌、白い肌。小柄な肢体は全体的にほっそりしているのに、出るべきところはしっかりと出て、女性らしい優美なラインを描いている。
『これならきっと陛下もお気に召すに違いないわ! 寵愛を頂いて、御子にもすぐに恵まれるはず!』
カルロッタは有頂天だった。だから気づかなかった……いや、見て見ぬふりをしたのだ。仮にも認知された伯爵令嬢とは思えない粗末なワンピースも、母親に生き写しと言われる自分を見て不自然なくらい怯えをにじませた目も、使用人のように荒れた手が不安そうに下腹部を撫でていたことも。
全部、全部。
カルロッタの頭にあったのは今の境遇から救われることだけだった。弟が伯爵家当主としての権力を取り戻せば、カルロッタもまた伯爵令嬢に相応しい嫁ぎ先を得られる。好色な老貴族の慰みものにならずに済むのだと。
実際、夢は叶った。
妹がイルデブランド王の子を……のちの王太子ラファエロを産んだ直後、カルロッタは名門ダレッシオ侯爵家の当主に求婚され、侯爵夫人となった。
侯爵はカルロッタの二つ年上で、貴族らしい狡猾さもあるが、夫としても子の父親としても誠実な人物だ。貧乏伯爵家の令嬢のままではとうてい望めなかった良縁である。
けれど、そのために犠牲になったのは……。
『お久しぶりです、お姉様』
先月の『お茶会』で会った時の、妹の笑顔が忘れられない。蒼穹の瞳はきらきらと輝き、まだ目立たないカルロッタの下腹部を見つめていた。
『三人目の御子様を授かられたのですってね。わたくし嬉しくて、ぜひお祝いしたいと思ったんですの。ご迷惑でしたかしら』
『い、……いえ、そんなことは』
『きっと亡くなられた先代の伯爵夫人も天の国でお喜びでしょうね』
先代伯爵夫人……母が生きていたなら、きっと妹の前にひざまずき、地べたに額をこすり付けながら請うただろう。どうか愚かな私たち母娘を許して欲しい、恨みなら全てこの自分にぶつけ、娘だけは勘弁してやって欲しいと。もしカルロッタが同じ境遇に置かれたら……我が子が死よりつらい目に遭わされていれば、同じことをするだろうから。
でも、妹は絶対に許してくれない。当たり前だ。あんなむごい仕打ちを受ければ、誰だって……。
「うっ……」
「奥方様!」
強い吐き気を覚えて倒れ込みそうになったカルロッタを、部屋のすみに控えていたメイドが駆け寄って支えた。すぐに寝室に運ばれ、医師が呼ばれる。
皆、慣れたものだ。カルロッタの妊娠は三度目。つまりカルロッタはすでに二度、悪阻の一言で済ませるには生易しいこの地獄のような苦しみにのたうち回っているのだ。
悪阻は病気ではないから、医師も腹の子に異常がないか診察するくらいしかできない。医師が面目なさげに帰った後は、恰幅のいい年嵩の侍女が付き添ってくれた。八人もの子を産み育てた経験を買われ、カルロッタの専属となった女性だ。彼女自身も悪阻に苦しみ、たくさんの妊婦を見てきたが、カルロッタほどひどいのは初めてだという。
「お血筋なんでしょうかねえ。妹君であられる王妃殿下も、王太子殿下をお腹に宿されている間はたいそう苦しまれたそうですし」
「……」
「そうそう、今日も妃殿下が薬湯を届けて下さったのですよ。さっそく持ってまいりましょうね。妃殿下は本当に心優しいお方でいらっしゃいます」
感心しきりの侍女は、会ったこともない妹にすっかり心酔している。王の心を射止め、待望の王太子を産んだ王妃を疑う者などいない。
「ああ……」
運ばれてきた薬湯を飲むといよいよ起きていられなくなり、カルロッタは侍女を下がらせてベッドに横たわった。呼吸をするたびに命を削り取られていくような感覚と、全身を獣の牙に食い荒らされるような激痛が襲ってくる。
……産み月は七ヶ月後。あと半年以上、この苦しみを味わわなければならないと思うと、いっそ殺して欲しいとさえ願ってしまう。
でも、そんなことは不可能だ。カルロッタが死ねばお腹の子も道連れにされてしまう。カルロッタが生きて苦しみ続けることで妹の溜飲を少しでも下げられるのなら……可愛い我が子たちが王妃の恨みの的にされずに済むのなら、いくらでものたうち回ってみせよう。
(……ああ。私は本当に愚かだった)
我が子がこれほど愛おしい存在であることも、女神の血の濃い王の子を宿した者が地獄の苦しみに苛まれることも知らなかった。
御腹様とはいえ、王の子を産むことは名誉だ。堂々と明かしてもいいのにわざわざ王家が密使を立てた理由を、少しでも考えれば良かったのに。
妹はデルフィーノの幼い娘を、父親よりも年上の隣国の王に嫁がせよと命じた。どうにか思いとどまってくれるよう姉上からも説得して欲しいと、デルフィーノは藁にもすがる思いで書状をよこしたのだが、もちろんカルロッタは妹に懇願するつもりはない。
だってそんなことをしたら。
(……今度こそ、この子を……)
震える手が無意識に子の宿る腹を撫でる。かつて離れから連れてこられた時の妹と同じしぐさだと思い出し、カルロッタは苦い気持ちを噛み締めた。