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1・王太子の乳母エルダ

「お願いいたします! どうかラファエロ殿下を見舞ってさしあげて下さい……!」

 必死の懇願が聞こえてきた時、エルダは思わず顔を手で覆った。


(……遅かった)


 あの子はもうだめだ。貴族令嬢にしては珍しいくらいに心優しく、まっすぐで善良な娘だったのに。……だからこそエルダの目を盗み、王妃に直訴なんて暴挙に及んだのだろうが。



「エルダ様……」

「……行きますよ」



 付いてきてくれた女官を促し、部屋の中に入る。

 とたんに息苦しさを感じるのは、自分が歓迎されざる客……いや、異分子だと突きつけられるせいだろう。

 ここを訪れる時は、いつだってそう。使用人は下働きにいたるまで、エルダたちに対し敵意を隠そうともしない。王宮の最奥にひっそりと建てられたこの離宮に仕える者はみな、あのお方の味方だから。



「ああ、エルダ様……!」



 床にはいつくばっていた新入りの侍女が、希望に顔を輝かせる。

 まだあどけなさの残る面差しに、ずきんと胸が痛んだ。たしか格上の家の令息に見初められ、作法を学ばせるため、両親が慌てて行儀見習いに出したのだったか。今が一番幸せな時期だろうに。


(むごいことを……)


「……申し訳ございません、妃殿下」



 若い侍女から顔をそらし、エルダは女官と共にひざまずいた。エルダにできるのは、少しでも被害を少なくすることだけだ。



「この者はまだ出仕して間もない新参ゆえ、まだ道理もわきまえておりません。ひとえに私の監督不行き届きにございます。伏してお詫び申し上げます」

「……え……、あの、エルダ様……?」



 とまどう侍女を無視し、磨き抜かれた床に額をこすりつけると、今度は驚愕が伝わってきた。エルダは幼い王太子の乳母にして伯爵夫人だ。夫は王の側近である。相手が誰であろうと、下僕のような真似をするいわれはないのだが……いまはただこうして、赦しを乞うしかない。



「確認しておきたいのだけれど」



 暖炉の前の椅子にゆったりと腰かけた部屋の主が、つややかな唇を開いた。

 陶磁器のように白くなめらかな肌に、汚れない白百合を思わせる美貌。どこか物憂げな瞳は蒼穹の色を映し、豊かな金色の髪は陽光と見まがうばかり。

 デビュー前の令嬢と言っても通りそうなこの女性が二人の子をなした人妻だと、初対面で見抜ける者はいないだろう。……その心に巣食う闇も。



「今日は、わたくしの公務の日ではないわよね?」

「おっしゃる通りにございます」

「だったら、これをどうすればいいかはわかるわよね?」



 感情のこもらない瞳を向けられた侍女が、ひっと悲鳴をもらす。……無理もない。王家を断絶の危機から救い、民に慕われる王妃がこんな女性だなんて、誰が思おうか。



「……地下牢にて鞭を打った後、放逐いたします」

「なっ……!?」



 侍女が青ざめるのは当然だった。地下牢は罪を犯した平民の使用人が送られる場所だ。

 鞭打ちを受けるのも平民だけ。貴族の罪人なら貴人用の塔に閉じ込められ、面会を制限されるくらいである。罪が軽ければ、当主の請願で解放される可能性も高い。



 ……いや、この侍女は本来、罪人ですらないのだ。ただ、高熱に苦しみながら母親の手を求める王太子のもとへ赴いて下さるよう、母王妃に懇願しただけ。むしろ忠誠心篤い臣下と誉められるべきだ。……普通なら。



 だが侍女にとっては不運なことに、王妃は普通ではない。普通ではないことを、王から認められている。この離宮では王すら王妃に逆らえない。



「それでいいでしょう。……ただし、放逐は王都の外でするように。護送にこの娘の親族を関わらせることも許しません」

「……、それは……」

「エルダ? わたくしの言うことが聞けないの?」



 王妃が小首を傾げた瞬間、部屋の外で殺意が膨れ上がった。いまにも野獣と化して飛びかかってきそうなそれに、エルダは押し潰される。



「……何事も、妃殿下の仰せのままに」

「そう。……では、さっさとこの娘を連れて行って頂戴。わたくしの可愛いロザーリオが待っているから」

「妃殿下……っ……!」



 優雅に立ち上がった王妃は、悲鳴を上げる侍女に一瞥もくれない。夫や王太子には決して開かれないその心は、彼女の『家族』だけに向けられているのだから。



「……あの娘を、地下牢に入れてまいりました」



 暗い顔で戻ってきた女官を、エルダはご苦労様とねぎらう。

 もはや、あの無垢な侍女を名前で呼んでやることもできない。あの侍女は最初から王太子宮にはいなかった。対外的にはそう言い繕うことになるだろう。

 侍女の家族には、身分の低い使用人と恋仲になり、駆け落ちしたとでも伝える。信じなくてもかまわない。家族がどんなに騒ぎ立てたとて、彼らの訴えに耳を貸す者はいないのだ。


(先手を打たれてしまったわね)


 エルダはひそかに侍女の家族に連絡を取り、王宮から放逐される日時を教えてやるつもりだった。そうすれば、侍女は放逐されてすぐ家族に保護してもらえる。鞭打ちの傷も、手厚い看護で回復しただろう。



 だが王都の外で放逐するのでは、侍女の家族は助けに行けない。鞭打たれ動けない貴族の娘など、悪しき者たちに襲ってくれと言っているようなものだ。

 そのまま息絶えられれば上々。拾われて娼館に売り飛ばされ、ろくな手当ても受けられず死ぬまで客を取らされる可能性は高い。


(私がもっと、妃殿下について説明しておけば…)


 後悔が押し寄せるが、この国の若い娘はたいてい王妃に強い憧れを抱いている。王家に連なる血筋と由緒正しさだけが取り柄の貧乏伯爵家に生まれた令嬢が、若く美丈夫の王に見初められ、妃になった。王妃はそんなおとぎ話の主人公だ。



 けれどおとぎ話はあくまでおとぎ話。現実という毒にさらされれば腐り落ちるだけ。



「……エル、ダ」

「殿下……!」



 弱々しい声が聞こえ、エルダは薄い帳をかき分けた。

 大きな寝台に埋もれるように横たわっているのは、王妃と同じ金色の髪と青い瞳に、父王の面差しをはっきりと宿す王太子ラファエロだ。今年六歳になったばかり。まだまだ母親が恋しい年頃なのに。



「…お母様は、来て下さったの…?」



 熱によどんだ瞳をひたと注がれ、エルダの胸は痛んだ。公務以外でそばにいてもらったことなど一度もないのに、純粋な王太子は母親を求め続けている。



「……妃殿下は大切なお仕事で、おいでになれないと。ですが殿下をとても心配していらっしゃいました」

「ほん、とう……?」

「本当ですとも。殿下は妃殿下の、たった一人の大切な御子なのですから」



 平然と嘘をつくのには、もう慣れた。汗を拭い、水を飲ませてやるうちに、ラファエロはまたとろとろと眠りに落ちていく。嬉しそうな笑みをにじませたまま。



 ……いつまで、騙し続けられるのだろう。

 いずれ成長すれば、ラファエロも知ることになる。国じゅうの民が憧れるおとぎ話の真実を。その時、純粋な心はどうなってしまうのか……。



 いまさらながらに悔やまれる。



『腹の御子を流すのは許しません』



 あの時、どうしてもっと彼女の心を思いやれなかったのか。望まぬ子を宿す苦痛を、同じ女であるエルダならわかってあげられるはずだったのに。



『妃殿下の務めは世継ぎを挙げること。そのためだけに、陛下は貴方を迎えたのですから』



 時を、時を巻き戻せるのならば……。


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