II-30 災厄の日
「それじゃ、今日は“影”も伝令役で全員出払ってるから、姉様達、気を付けてね」
王宮魔導士の戦闘服を纏ったルイス様が手を振った。朝、時間を見つけて会いに来て下さったのだ。
「ルイスも、無事に戻って来てね」
王太子殿下はカミラ様の言葉に笑顔で頷く。
「私‥‥姉様達が頬にキスしてくれたら、無事に戻れそうな気がするなぁ」
「ルイスも報酬は前払いなのね?」
私とカミラ様は顔を見合わせて笑う。
カミラ様が王太子殿下の右頬にキスをして、私は左頬にキスをした。殿下は私達を抱きしめて喜びを噛み締めていた。
「ありがとう、こんな日が来るなんて!‥‥これが私の人生の絶頂な気がするよ」
ルイス様は前線で矢が悪魔に届くよう他の王宮魔導士達と風魔法でサポートされるそうだ。無事を願わずにいられない。ご機嫌な様子で去って行く背中を見送り、私達も配置についた。
「では、俺も外に居ますので、何かあれば声をかけて下さい」
そう言って、ルディが天幕の外に出た。後を追うと、彼は少し離れた場所で森に向かって立ち、剣の柄に手を添えた。隣には暗器を持ったジゼルがいた。他にも護衛役の兵士達が防御壁に沿って並んだ天幕を守るように立っている。
「ベリー、無理はしないでね? あまり遠くに行かないのよ。敵と間違われるかもしれないわ」
カミラ様が心配そうに話しかけている。私も隣にしゃがんで白い羽毛を撫でた。
「ベリー、頑張ってね。でも無理はしなくていいわ」
天幕の外で見送る私達に瞬きで応え、ベリーは森の奥に消えた。
しばらくして、森の向こう、雲ひとつない冬晴れの空に黒い歪みが現れた。
私と並んで空を見上げていた神官達が神に祈り始める。遠くで総長も祈りを捧げていらっしゃるのが確認できた。
やがて歪みから濁流のように悪魔が流れ、集中攻撃が始まった。光が弾け、遅れて爆発音のような大きな音が地響きと共に空気を震わせる。
なるべく地上に降りる前にって言っていたけれど、難しそうね‥‥前線のメイジーやレオ、ルイス様、お兄様達も大丈夫かしら。不安になる。息を吐くと、白い空気が流れを作った。いつの間にか隣に居たカミラ様が手を握って下さった。
やがて少しずつ怪我人が増えて来て、私もカミラ様も手当に集中する。この場所には軽傷者が運び込まれていた。話を聞くと、幸いここまでは魔物も到達していないようだった。なので、ルディとジゼルには外で怪我人の搬送を手伝うようお願いした。
治癒魔法を受け終えて動ける騎士や兵士は、再び森に戻って行った。人の出入りが増え、外の様子を窺う暇もなくて、だから気付かなかった。
「動くな、静かにしろ」
室内にいたエストリアの兵士のひとりが、後ろから私を拘束し剣を突きつける。冷たい剣先が首に当たった。
「この女の命が惜しかったら、声を出すな」
神官達やカミラ様も黙って頷いた。室内に居た手当て中のアルカナの兵士は、すぐに拘束される。騎士はいないようだ。
「金色の髪が王女だ。早くやれ」
神官の腕を縛っていたエストリアの兵士が指示を受け、次いでカミラ様に手を伸ばした。
「我々はトゥラス教の教徒だ。王族のお前は、唯一神のご意向によりここで処刑する」
震えるカミラ様を手早く縛り、その場に跪かせている。ああ、お兄様‥‥いいえ、ここで終われないわ、私がなんとかしないと‥‥緊張で呼吸が浅くなる。頼れる護衛がいない今、脳裏に浮かぶのは確実に時を止められる1人だけだ、私は呟く。
「アスモさん」
兵士の動きが止まり、目の前に悪魔が現れた。
「こんにちは、お困りのようですね。お嬢さんの願いは何ですか?」
私を脅している剣を親指と人差し指で挟んで抜き取り、遠くへ投げる。拘束していた兵士の腕も、2本の指で掴んで外していた。
「この刺客全てを生きたまま捕縛して下さい」
「ええ、お安い御用ですよ。ただ、悪魔にお願いする際は報酬が必要なのをご存知ですか?」
「知っています」
アスモさんは満面の笑みで頷いた。
「いいでしょう。お嬢さんに支払ってもらう報酬は‥‥」
私はそれを受け、カミラ様は一命を取り留めた。
天幕から離れた場所で兵士の搬送を手伝っていたルディとジゼルに声をかけると、すぐに戻って来てくれた。現場を見た護衛の二人が青ざめて謝罪したけれど、護衛よりも搬送を手伝うよう指示したのは私とカミラ様だったので、この件に関しては不問となった。
そしてジゼルがすぐに連れて来てくれたのは、ソード大公だった。
「こちらも狙いだったのか‥‥“影”を側に残しておくべきだったな。すまない、カミラ、リーディア」
「いえ、お祖父様、大丈夫ですわ。それよりも、戦況はどうなりました?」
カミラ様の質問に、大公は苦笑する。
「いや、もちろんアルカナ側にも下級や低級の悪魔が流れて来ているが、中級クラスの強いものは、ほとんどエストリアの上級魔族2人が倒してくれてるよ。おかげでこちらの被害が少なくて済んでいる」
「そうなのですね、良かったわ」
カミラ様が微笑んだ。私も小さく頷く。
「ここに居るのも気分が悪いだろう。君達は天幕を移動しなさい」
お祖父様が綺麗に並んで気絶している刺客達を見て仰る。私はカミラ様と外へ出た。
「リーディア、先程の悪魔はアスモデウスと名乗っていたけれど‥‥報酬は何を渡したの?」
アスモさんは作業を終えるとカミラ様の前にも姿を現し、“皇太子殿下によろしくお伝えください”と言い残して消えていた。現場に居た神官達とお祖父様には、エストリアの護衛が助けてくれたと説明してある。
「後払いでいいそうです。大した事ではないので、気になさらないで下さい」
空を見上げると、空間の歪みが消えていた。森の奥から勝ちどきのような声が聞こえる。
「リーディア、本当に大丈夫?」
手を握り、心配そうなペリドットの瞳が私を覗き込んでいた。安心させるように頷く。大丈夫、ちょっと我慢すれば済むことだから。
私達の後ろを少し離れて歩いていたルディが声を上げた。
「あっ、あそこ! ちょっと待って下さい」
そう言って駆けて行き、白い塊を抱えて持って帰って来た。地面に置いて皆で確認すると、それは太り過ぎたガチョウだった。私が結んだスカーフが汚れて風に揺れている。
「ベリー! どうしたの? 大丈夫?」
カミラ様が撫でると、ベリーは眠そうに瞬きしたあと体が低くなり、足が隠れて目を閉じてしまった。
「疲れたのね、おやすみなさい」
カミラ様が抱き上げようとしたけれど重かったらしく、横からルディが“俺が運びます”と持ち上げた。




