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讃岐国

 電車を降りると四国の香りが一面に漂い本州の面影はただの一つも残っていない。ましてや近畿の雰囲気なぞミジンコよりもない。ここで近畿の雰囲気を感じることは燕の子安貝を探すほどの難事であろう。琴平駅にてサントリーの伊右衛門を買い琴平駅を一瞥する。とうとう金刀比羅まで来たのだと。とうとう四国の大地に立ったのだと。その事実を噛みしめながら一路金刀比羅宮へと参る。

 少し歩けば少々大きい塔がある。その塔の正体は高灯籠である。これはこの辺の金刀比羅の信徒が寄進したとされており高さは27メートルもある。これほどのものを寄進するのは偏に金刀比羅大権現への信仰があったからであろう。その信仰のもとここ一帯の住民は気を一にして高灯籠の寄進という崇高なる目標に目指してお金を作る様を想像した。それほどにまで信仰は偉大なるものなのかと思った。

 その姿に驚きつつ歩くとすぐに琴電琴平駅に着くそこには一つの琴電の電車がある。ここで高灯籠と琴電のツーショットで写真を撮った。かなり調和していて個人的にはいい出来に仕上がった。なお諸兄には見せるものでもない。万が一ほしい人がいるのならば現地に行って撮ってきてほしい。そこで写真を撮り友人だと思いたい人にその写真を送り付けて琴平へと向かう。すると行き当たりの角で新しめの石碑がありそこにおじさまが山茶花の手入れをしていた。そんな中私は石碑の写真を撮ろうとしておじさんも一緒に撮ってしまった。別にその写真をネットに投稿する予定はないしネットに投稿してキラキラできる人間でもないため映り込んだなぁ位の反応が普通だがなぜか罪悪感が噴き出てなんとなく落ちた山茶花の花びらを排水溝に入れて掃除をしていたのでそれを手伝った。そしたらおじさんが「しなくても大丈夫だよ」と仰っていたのだが「時間はいっぱいあるので…」とコミュ障ながらも頑張って言いなにか会話を続けようと思い「『ツバキ』きれいですね」と申せば「これはツバキじゃなくて山茶花だよ」と教えてくれた。山茶花を椿とあえて間違えた分何とか会話時間が伸びた。これはコミュ障旅人にとってとてもうれしいことであった。そして椿と山茶花の違いを教えてもらいそこで「椿は一遍に花ごと落ちるから不吉なんだよ」と言った。更にそこから椿三十郎の話を経て黒澤明の話に移った。ここで物凄い黒澤明の映画をプッシュされたので見ようと思いまだ見れずじまいである。

 そしてお土産屋さんもしていると聞き帰りに訪れると告げて琴平へと向かうその途中お腹が空き始めうどん屋に入る。そこのうどんのコシがとてもすごくてとても食べてる感があってよかった。またコシとは関係ないが温玉にしたのも正解だったかもしれない。

 そしてとうとう金刀比羅宮へ。数学の先生(兼陸上部の顧問)から「ここの階段はきつい」と聞かされていたから少し覚悟して行った。しかしそんなこともない。量が多いだけである。階段は幾千。いや敵は幾万ありとてもすべて烏合の勢なるぞ。そう思い一段一段を登る。直の信仰心があるからか分からぬが全く疲れた感覚がない。そして何時しか門が見えていた。そこで下を見ると讃岐平野が一面に広がっていた。美しい。その一語のみが脳内に現れた。地平線のかなたまで、水平線のあなたまで見える。その様は眺望がいいとかではない。その様は地球の生み出した芸術であり美学である。金剛石よりも美しくルビーよりも輝かしい。これは至高の領域にある。では門をくぐり行こう。そこにはまず五人ばかりの女の人が座りて飴を売っていた。ここは確かに神社の境内のはずなのに商売をしていた。じつはこの人たちの家系は由緒ある家系で金刀比羅宮の宮司様を遥か昔から支えてきた家系である。(五人百姓)そんな歴史を持つためその人たちは特別に金刀比羅宮で加美代飴の販売が許可されており現在に至る。そこで数多の飴を買った。因みにその飴は未だ消費できず結局7月ぐらいまで残っていた。とまれ鳥居をくぐり桜並木を歩いて坂をさらに登る。そして突き当りを左に行き歩く。そして右手に旭社が見える。何かと壮大ではあれどここへはあとで来るためあまり物思いにふけずそのまま山林へと行く。緑は春のくせして深く心地よい。そうして摂社を参り最後の階段を登る。そして立方体に見える金刀比羅宮の社殿に至る。驚いたことに写真では立方体感がすごく大きかったが実物は余り立方体感はなかった。そんな金刀比羅宮の御祭神は大物主と崇徳院。都では崇徳院要素が強調されて安井金毘羅宮という金刀比羅宮と同じ系譜の神社は縁切り神社として名を得ている訳だが琴平町の金刀比羅宮では交通安全、特に開運に関するところが有名である。そうであるがためにここで日本の海運の無事を祈った。祈りが我が金毘羅大権現に届くかは知るところではない。しかし、そうして願い、祈りをささげることこそが信仰の表れなのではないかと考えた。信仰というのは実践から心に移ろいゆくものなのかもしれない。そうして海運の無事を祈ると右に見える讃岐平野を見下ろす。どこかのおばちゃんは「琴電がいるよ~」などと恥の多い旅人横目にそのおばちゃんの連人に言っていた。そして私は若気の至りかそれとも心が淀川のように濁っているからか讃岐富士を見て恥の多い妄想をしていた。執筆中7月ごろに先輩が「讃岐富士の形ってきれいだよね」みたいなことを純粋な目に穢れのない声で言っていたことを聞き自分の穢れを自認した。そうやって塵芥よりも価値のないことを考えている内にも時間は過ぎるようでそろそろ高松の方に向かいたいと思いつつも社務所に駆け寄る。階段を登る最中見かけた金色の御守りがどうしても頭から離れることができなかったようでその金色の御守りと御朱印を頂いた。さて旭社のバカでかい社殿を拝み階段を下る。途中少年が転ぶ一部始終を見たがコミュ障のせいか近くに親がいたからか知らぬが見なかったことにして足を進める。そして着いたのは琴電琴平駅。ICOCAにお金をチャージして乗車した。時間もあることだし日本一の庭園たる栗林公園にでも行こうと考えた。そう思ううちに琴電の古い電車は駅を出発する。一瞬で琴平の町が遠ざかると田んぼの中を走る。のどかである。琴電と言えば黄色い電車が田んぼを走るイメージである。しかし意外にも山間部も走るのである。そして山と川をも越えるとイオンモールがあった気がするのだがここらへんで記憶があいまいになっていた。ただ恥の多い人生を歩んでいる幸せ者を見ると反射的にその人間の不幸を望む最も不幸せそうな人間を横目に五月蠅いカップルがどこかで乗り込んできたのを見て琴電は地元に見放されておらず地元と密着していることを感じた。昔は地元民に「電車はいるが琴電はいらない」などと言われるほどに私と同じようなものだったのに・・・でもこれは琴電が積極的に自分を変えたからである。一方未だに恥の多い人生を歩む私は幸せ者をみて恨みや妬み、憎悪を搔き立てずにただ純粋な気持ちで祝福するのが初めの第一歩な気がする。

 さて当時の私はそんなことをそう思うことはなくただ電車でぐっすりと寝ていると何時しか栗林公園駅に着いていた。そして猛ダッシュをかまして栗林公園の入り口がかすかに見えるようになる。しかし川が流れるかのようにその先には行けない。ふと点を見上げれば赤信号が光っていた。そして視線を元に戻すと車が轟々走っていた。じれったさに襲われながら走らんとする足を押さえつけているとようやく青信号に変わり足を上げて走り出す。そして栗林公園に着く。入場料は覚えていない。さて綺麗な松を見て後ろを振り向けば人工美を感じる池があった。橋にはこれまた恥ではなく徳をつんできたのだろう高校かなにかの卒業生が池の周りで写真を撮っていた。それを横目に私は回遊式庭園の名の通りに池の周りをまわっていた。そんな状況の中、卒業生と思しき人と私との間にはえもいわれぬ壁があったかのようにも思える。そうしてキラキラキターンとしている卒業生らしき人間に囲まれている中一人カビでも生えていそうな人間。気まずい気持ちになる。そのために卒業生らしき人よりも奥の方に行き紫雲山を借景とした松林を眺めていた。そして栗林公園をほっつきまわるとそろそろ高松市街地に行きたく思いこれまた猛ダッシュで栗林公園駅に走る。息切れをしながらも次の電車には遅れじと粘り強く走るとなんとか遅れることはなかった。急いで学校の食堂の券売機みたいな機械を弄って高松築港駅までの切符を買いホームに向かう。しかし阿呆は琴平方面のホームに居た。しかし少しして自分がどこにいるかを自覚して急いで高松築港方面のホームに行く。そして琴電に乗って家の路地裏みたいなところを走っていると瓦町だとか何とか駅に停車しては出発してを少しだけ繰り返すうちに右手に高松城の石垣を見ていると高松築港駅に着いた。急いで電車から降りて少し歩くとちょうど高松城の石垣と琴電のツーショット写真が撮れた。そして少し琴電を見て高松城へと向かう。しかし丁度行く道が工事中であり高松城にはとても行きずらかったということは俄かに記憶にある。道中にはGoogle mapのことを「頭Google map」とよんで俄かに嘲てみたりしていた。その後小さな和風の門が見えた。そこで入城料を取られた。金額は記憶にないが検索してみたら200円程であった。しかし当時の財布状況は神代飴の分のお金でかなり消し飛んでいたために相当手痛い出費だったかのように思えた。

 そして周りの石垣などを一瞥した後奥に進み小さな庭に至る。そこでウロチョロしつつ進むと「月見櫓があるよ」みたいなことが書かれていたのでその道に進むことにした。なにせその月見櫓は櫓から瀬戸内海を見えるという。そもそも瀬戸内海の交通を監視するためであるということからそういう眺望になったとブラ●モリでやっていた。そのため私はワクワクして月見櫓に足を進める。しかしそこで待っていたのはチンケなグレーのシートが掛かっていた。ワクワクの分の絶望感はとても大きかったものである。その絶望感は深い谷の底に落ちたような気持ちになった。ただ気持ちを谷に落ちたままにするのもよくないので気持ちを一新して少し塀の上を見た。するとお寺の鐘のような時間を知らせるための報時鐘というものが海をバックに見えた。そこで少し気持ちを上に向かせてお堀に向かった。そこは瀬戸内海から海の水を取ってきたものだそうだ。それを知っており更に言えば高松城ではお堀が見たいと考えていた。ただお堀はお堀。鯛がいることを除けばお堀の水が海水であることを確認することができない。ただ鯛がいることを満喫せんと鯛のえさを100円払い餌をお堀に入れた。すると鯛は餌に寄ってたかってきた。そして少し満足してから出ようとすると磯っぽいにおいがするので寄ってみたら水門がありそこにカメノテみたいなものがへばりついていた。これをみてお堀が海水であることを実感した。

 その後街を歩き高松駅に行くと近くに海水が満ち引きするという物体があった。「こんなん要らなくないか」と考えながら説明書きを見ると「高松城の海水をとってくる技術を活かしました」と書かれており高松城のPRになるんじゃないかと理解しようとした。そして岡山行きの快速マリンライナーはまだ30分先だしなぁと思っているとなんか200分遅れとか書かれていたのでやばいと思い一旦18きっぷを駅員に見せて急いで目の前に停まっているマリンライナーが何分後に出るのか聞いた。すると「そろそろ出ます」と言われた。そこで次のマリンライナーはいつ出発するかと聞くと「いつになるのか分からないです」と言われた。そのためとりあえず人が少なさそうな車両に乗ろうとしたが結局肉の津波が襲ってきた。そこでグリーン車である先頭車両で立ち席はできないかと交渉してみたらすぐにOKがでた。そして先頭のグリーン席の後ろで立っていたら電車は発車した。そして立って友人や母に連絡を送りつつ流れていく車窓に目をやっていた。そして少し走ると坂出駅に着く。そこでは子連れの一家が乗車して少年達はグリーン席に座り両親は階段を下り指定席へと行った。少年達は鉄オタの血を持っているのだろうか。彼らは席に着くや否や胸を躍らせて興奮していた。しかし親の教えが良いのだろう。喧しくもせずマリンライナーの全面展望を楽しんでいた。なかなかにできた子供である。そして坂出を出ると永遠と続きそうな瀬戸内海が見えた。これを見てそろそろ旅も終わりに近づく。海の向こうに我が家があるがそこまではまだまだ遠い。その旅路を鉄路はつないでいるのだ。そう物思いにふけていると児島駅でおっさんが乗ってきた。おっさんは暇だったのか私に話しかけた。あまり会話の内容は覚えていないがどうやらおっさんは元々指定席券を購入していたそうだがマリンライナーが遅れに遅れた結果無駄になったらしい。そして彼の行き先は山陰の方。しかし私と違い出張だったようだ。私は若さ故に数えられぬほどに多くの時間を持っている。ただ年を取るとそうもいかなくなるらしい。そうして語り合いいつの間にか岡山に着いた。旅をしている最中というのは出会った人と語らいあうのが好きなのだがこういう時間はすぐに過ぎるのものだ。旅の刹那の間のみの縁というのは美しいものだと私は思っている。さて岡山駅でおっさんは特急やくも号で出張に向かい私は末期色の電車に向かうことになる。

 そして末期色の電車に乗り姫路へと目指す。きび団子をつまみながらいつ買ったかもあまり覚えていない伊右衛門を飲んでいた。風景はほとんど来た道と同じである。その同じの路を駆け抜けて姫路駅に到着する。その後はもういつもの場所であり語ることもない。ただこの旅では信仰というのはふと考えてみればそこには少なからず旅への渇望というものがあったのではないかと思う。実際に江戸時代は「信仰の旅」以外許されなかったらしい。そこで神宮や神奈川の大山、富士山などを信仰にかこつけて普通の旅を楽しんだらしい。それと同じように私も旅に出たく思い金毘羅大権現に畏怖の念を持ったのかもしれない。だからといってその気持ちが塵よりも軽いものなんかではなく純粋に金毘羅大権現を畏れる気持ちがある。そして、その二律背反のように思える気持ちは恐らくだが旅をすればわかるものだと思う。

遂にこの旅に終止符を付けられます。そもそもとして紀行文は旅に行ったすぐあと書かないと意外と旅の記憶も薄れるようなのですね。確かに生物の先生は「脳は生存に必要ないことを覚えない」と言っていました。生物の先生の言を旅に適応するなら旅というのは人生に要らないものなぼでしょう。確かに旅というのはしなくったって死ぬことはありません。寧ろ無駄なお金を使うことだってあります。しかし大切なのはそんな唯物論的なものではありません。大切なことはそこで何をしたかぐらいはいくら何でも奥底で覚えています。そのためある日ふとした時に思い出して若い頃を思い出すこともあるかもしれません。それに思い出せなくてもそこで経験したことが心に影響を与えて人格の形成につながるものだと思っています。

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