健斗
大学卒業後、とある中学校の数学教師として健斗は働いていた。虐めへの対応や、生徒との信頼関係を築く事に努力を惜しまない働き方をしていた。
その分職員室に入ると、問題を出来るだけ無かった事にしたい校長の息が掛かった教師達が多く、『熱過ぎる面倒な教師』と言いたげな視線が健斗に向けられて居た。
働き辛さは感じていたが『自分みたいな生徒を生み出したくない…』と言う思いから、償いとして辛さも甘んじて受け取っていた。
イラスト部での出来事だった。
1年生の藤野芽依が父から誕生日プレゼントに買ってもらったGペンとインクを使ってイラストを描いていた。
3年性の高階功太が後ろからそのペンを取り上げて、
「なんだよお前1年生でこんなペン使ってるのかよ。それ程上手くもねぇのによ」
と茶化した。
芽依がこの時描いていたイラストは数日前から何度も書き直して、やっと下書きが出来上がりペン入れをしていた物だった。
描いている途中でGペンを奪われて、イラストに揺れたペンの線が入ってしまった。
「折角完成させようとしてたのに…。大切なGペンなの!返して! 」
功太はGペンを取られない様にあちこちに振り回して居た。
芽依は取り返そうとGペンを追いかけた。なかなか取り返せずにいると、功太は更に身振りを大きくした。その時に近くにいた芽依の同級生の太川和也の肩にGペン先が刺さった。
「うっ…」
和也は痛みに肩を抑えた。功太は慌てて後退りした。芽依は口に手を当てて息を呑んだ。そして
「顧問の先生を呼んでくる! 」
と教室を駆け出した。
顧問の綿貫は丁度フロア迄来ていた所だった。
「先生!すぐ来て!早く! 」
「どうしたんだ? 」
「太川くんの肩にGペンが刺さったの! 」
綿貫は慌てて教室に飛び込んだ。その瞬間、功太は教室から飛び出して逃げた。
功太は校舎から上靴のまま飛び出して、影に隠れてガクガク震えた。
綿貫はうずくまって居る和也を保健室に連れて行きなら家族に連絡をした。保健の教師と和也を綿貫の車に乗せて病院へ走った。すぐ処置をして傷口を3針縫われた。怪我は後遺症の出る物では無く、軽症で済んだ。数日分の痛み止めと化膿止めを処方されて、その日の受診は終わった。
後は抜糸迄消毒に毎日通う様受付から説明を受けた。
その時に、連絡を受けていた和也の母親が病院に飛び込んで来た。
「すみません、太川です。和也は…! 」
「今処置が終わりました。ご心配お掛けして申し訳ございません。
部員の男子生徒が悪ふざけで、他の女子部員のGペンを取り上げて振り回してたんです。その時に側に居た太川君に刺さってしまい、怪我を負わせる事になりました。大変申し訳ございませんでした」
と綿貫と保健の教師は頭を深く下げた。
「分かりました。直ぐ対応してくださってありがとうございます」
と和也の母は頭を下げて和也を連れて帰った。
看護師が、
「あの、このペン洗って消毒液で拭いておきました。お返しします」
と綿貫に渡した。
綿貫と保健教師が学校に戻ると、心配した部員達が待って居た。芽依と和也の担任をして居る健斗も一緒に待って居た。綿貫達が戻るまで生徒達の動揺を
「大丈夫だ。和也は直ぐ良くなる」
と、健斗が宥めて居たのだった。
「皆んな、太川は数針縫ったけど後遺症も無くて数日で治るそうだ。心配無いからもう帰りなさい」
綿貫が生徒に説明をして帰宅を促した。
そして芽依を呼び止めて、
「ペン、病院で洗って消毒して返してくれたんだ」
と鞄から出した。
芽依は複雑な顔をしてペンを受け取り、
「大切なペンだけど…こんな事あった後に使う気持ちになれない…」
と苦い顔をした。
その後、事情説明の為に健斗は芽依と和也の家に電話をしようと職員室の電話に手を伸ばした。その時に校長が、
「外田先生。事情説明の電話ですか? 」
と声を掛けた。
「はい」
「高階君の立場の考慮を疎かにしない様頼むよ。受験生なのだから」
と功太に責任は無いと言わんばかりに圧を掛けた。
「でも、怪我人が出てるので説明は必要となりますよね? 」
「軽症で済んだんです。綿貫先生が謝罪したじゃ無いですか。治療費も保険で返金される事ですし言葉や内容を熟慮しながら話して下さいよ。外田先生」
問題を上手く交わして終わらせろと、校長の目は言っていた。
「僕は高階君が謝罪する事で、人生の学びになると思います。悪気のないじゃれ合いのつもりが 傷つける事もある。そう云う時は心から謝罪して反省する事を学ぶ必要があるのではと思います」
「外田先生は重く受け止め過ぎです。私から電話しますから。今日は帰宅して下さい」
「でも校長…」
「帰りなさい‼︎ 」
健斗は帰り支度をしながら校長の電話の内容を聞こうと思った。
校長は察したのか、校長室に入り電話を始めた。
健斗は帰宅してから、和也と芽依の両親に再度電話をしようかと思っていた。しかし、和也の母から健斗に着信があった。
「外田先生、いつもお世話になってます。先程は色々ご迷惑をお掛けしまして申し訳ございません」
「いえ僕は何も。和也君は何も非が無い中で怪我をされて申し訳なかったと思ってます」
「今、校長先生からお電話頂いたのですが…。怪我の対応に関しては、とても迅速に病院迄連れて行って下さって感謝してます。
ただ… どんな状況で起きた事なのかが具体的な説明が分かり辛かったんです。
病院で、綿貫先生は男子がふざけててと話されてますかが、その男子の話も校長先生からは説明が無いんです。
刺さったのは藤野芽依さんのペンだったけれども藤野さんが刺した訳では無いと。後は校長先生にどう言う状況で起きたのか何度尋ねても『誠に申し訳ない』と繰り返すだけで…。先生、状況教えて頂けないでしょうか」
和也の母が言葉を選びながら、現状が見えない事に納得行かないのがひしひしと伝わって来た。
「藤野のペンが藤野自身が刺してないなら、何故和也君に刺さったのか…明らかにされないのは ご納得行かなくて当然と思います。私も学校側が経緯の説明をすべきで、学校側として校長が謝ったからそれで良いとは思ってないんです。
校長に私から連絡してみますので、後で折り返し電話をこちらからさせて頂いて宜しいでしょうか? 」
と答えた。
「先生から今聞く事は出来ないんですか? 」
親としての当たり前な思いが伝わってくる。答えたい…。
「答えたいです。息子さんが怪我をされて有耶無耶なままなのですから。
ただ、もう一度校長に話してみてから、太川さんに私から状況説明をさせて頂きたいのですが、宜しいでしょうか…」
「分かりました。よろしくお願いします」
直ぐ答えたい気持ちを抑え校長の指示に従った証拠を作るために、まず校長に連絡する事にした。
学校に電話すると。
「もしもし」
面倒な気持ちを隠す事なく校長は電話を受け取った。
「校長、今太川君のお母さんから僕の方に連絡ありました。経緯が全く分からないとのお話でした。やはり経緯説明は必要です」
強目の口調で訴えた。
「外田先生、私達は被害者の生徒だけでは無く、加害者の生徒も守らなければいけないんですよ。貴方は加害者の生徒を切り捨てるのですか⁉︎ 」
「そうじゃありません。反省する事を学ばせるのも私達教師の仕事です。
そうでないと、高階君は過ちへの対処の仕方を分からないままになってしまいます! 」
「いや、先生、貴方は若いから…」
と校長の愚痴が始まった。健斗が本題に戻ろうと思い言葉を発しても、遮られて更に懇々と説教は続いた。
その間に和也の母は真実に辿り着くべく、芽依の親に電話をした。
芽依の母親は寝耳に水だった。芽依が誕生日に貰ったペンが、そんな事になったと言えなかった為にこの件について全く話を両親に話してなかったのだ。
「ペンは使いやすいか? 」
と父に聞かれて胸の内を隠しながら、ぎこちなく
「うん」
と笑って答えていた事に、和也の母の話を聞いて初めて納得した。同時に 状況が分からない分 芽依が刺したのではとの思いも過ぎってオロオロとした。
その時に芽依が帰宅し、母は事情を問いただした。芽依は泣き出した。
「ごめんなさい。3年生の先輩が私のペンを取り上げて、振り回してナカナカ返してくれなかったの。その先輩が振り回してる時に太川君にペンが刺さってしまって…。だから怖くて…あのペン使えなかったの。お父さんに聞かれても使えないって言えなかった…」
とそこで言葉が詰まり、ポロポロと泣いた。
その様子が電話先で和也の母にも聞こえた。芽依が胸を傷めている様子がヒシヒシと伝わって来た。
「その3年生の名前はなんで言うの? 」
芽依に母が聞いた。
「高階功太先輩」
ここで、芽依も悪ふざけの被害者であることが分かり、当時の状況と加害者が誰かが親達もやっと理解出来た。
何故この過程を学校は説明しなかったのか…。
何度も尋ねたのに…。納得出来ない不誠実への怒りが両親達は込み上げた。
そして和也の母は校長に抗議する為に学校に電話をした。
事務員が
「校長先生、1年生の太川君のお母様からお電話です」
と声を掛けた。
「えっ?外田先生、取り敢えず切るから」
と健斗との通話を終わらせ、和也の母の電話を受け取った。
「もしもしお電話変わりました」
察しがついてるのか柔らかい口調だ。
「校長先生、先程加害者の生徒の名前分かりました。高階功太君3年生が、藤野芽依さんをからかってペンを取り上げたと。ペンを返さない様に振り回していた物が刺さったそうですね。
藤野さんも、誕生日に貰ったペンが人を傷つけてしまいショックで使えなくなったと言って泣いてました。藤野さんに連絡はしなかったんですね学校は。校長も何故、何度聞いても加害者の生徒の名前を教えてくださらなかったのですか⁉︎ 」と問うと
「加害者の生徒もシッカリ反省していたので、もうこれ以上話を大きくしない事も必要かとの配慮です。こう言う事で加害者が不登校になり。結局被害を受けた側が加害者になる事もあり得るんです…それを防いだだけです」
「それは生徒一人一人と向き合ってると言えないと思います!外田先生だって明確に説明したそうな様子でしたが、校長にもう一度話してみますと仰ってました。校長先生の対応には、当事者の多くの人が疑問に思ってます」
と真髄を突いて訴えた。
しかし校長は、のらりくらりと逃げる回答を繰り返した。和也の母は埒が開かない校長の説明を聞くのが苦痛になり、諦めて話を終えた。そして学校の対応に不信感を更に募らせた。その一連の話を夫にラインで説明した。夫も無責任な校長の行動に憤慨し、仕事中だったが教育委員会が受付を終える前にと連絡をして相談した。
校長は教育委員会の介入に慌てふためいた。そこで事態について功太の母の耳に初めて入って来た。
母は功太を懇々と叱責した。功太は粛々と受け止めた。
そして、菓子折りを持って功太と一緒に和也の家に来て深々と頭を下げた。誠意の有る謝罪はいとも簡単に和也と功太、保護者同士の蟠りを消し去った。
次に芽依の家に功太と母が訪れて、深々と謝罪をした。
母が菓子折りを渡した後、和也は自分の小遣いで買ったGペンを渡して
「本当にごめん」
と芽依に謝った。芽依は笑顔で受け取った。ここでも誠意ある謝罪がいとも簡単に蟠り消した。
校長は1人指導のあり方を問われた。プライドがそれを受け入れる事が出来なかった。教育委員会には頭を下げて真摯に受け止めた姿を見せて、反動の様に職員室内での対応は酷く悪化した。
健斗は生徒と向き合う事の出来る学校に転職したいと思う様になった。
しかし最近、樹理との結婚も話に出て来ていた事もあり、そこでの転職は迷いに迷った。その気持ちは樹理にも伝わるだろうと予想し、樹理に直接転職の相談をした。
「深く考えての事でしょ。何事もやってみないと分からないわ。求人はあるの? 」
「うん、不登校や色々辛い物を抱えた生徒への教育に力を入れている私立学校が募集してる。受けてみたいんだ」
「そう、現在に留まって歩き出さないと景色の違いを見れない。景色を予想だけしても変わらないのよ。行動してみたら? 」
「そうだね…。でもさ、そこに行きたいのはもう一つ理由があるんだ。結婚の話が具体的になる前に話しておかなきゃと、ずっと思ってたんだ。
樹理もビックリすると思うけど…聞いて欲しい…。僕は中学生の時に友達数人でクラスメイトの女の子1人を襲った事があるんだ…。その時学校が揉み消して表沙汰にならなかった…。
その女の子は辛さを抱えて転校して行った。その後頑張って元気を取り戻したらしいけど…長い時間苦しんだと思う。ただ表沙汰にならなかっただけで…僕は犯罪者だ、償いたいんだよ。じゃないと…樹理を不幸にしそうで…。怖くて言えなかった…。ずっと隠して居てごめん」
樹理をガッカリさせて、別れを告げられるのも覚悟した。だが、時折顔を出す罪悪感。これを隠し続けての結婚生活の継続は難しいのではと思って居た。そして樹理に隠し事は出来ないのは健斗が1番知っていた。
「ショックだわ……。その女の子、中学生でそんな辛い経験して…どんなに怖かったのだろう」
樹理は言葉を失った。沈黙が、健斗の判決を待つ様な時間に感じた、樹理は長い沈黙の中考えた後、話し出した。
「でも健斗、それをずっと抱えて生きて来たのね。私も一緒に償うわ。一緒に生きて行こう。貴方と私の子…今お腹に居るのよ。健斗は父親になるの。頑張って一緒に歩いて行こう」
「えっ…僕の子供?赤ちゃん? 」
「うんそうよ。赤ちゃん。貴方と私を信じて成長してるのよ。だから一緒に生きて行こう」
健斗は樹理を温かく抱きしめた。樹理を抱きしめるといつも癒される。
もう2人じゃない。3人…僕の子供。
「うん、ありがとう…ありがとう…。一緒に生きて歩いてくれ…。ずっと…」
「ええ。一緒に歩いていきましょう」
そして2人は結婚した。
健斗は志望して居た不登校や辛さを抱えた生徒への援助に力を入れている中学校、新星中学校に採用となった。
仕事始めの日、学校内に一歩足を踏み入れると、生徒も先生も親しげで瞳がキラキラして居た。
生徒の
「先生、放課後トランプしよう! 」
声がした。
「おお、やろうやろう、ホームルーム終わったら校長室にトランプ持って来い」
「分かった〜。後でねー」
と親子の様な会話が飛んでいた。微笑ましくて健斗はつい笑顔になった。
ここに来た健斗に指導をする先輩教師が挨拶に来た。
「初めまし…。えっ、外田先生って…健斗くん?」
中里智恵子先生だった。藍香の件で最後まで取り組もうと努力をして居たあの先生が、自分の指導に当たるとは…。
健斗は驚きと、自分の過去の罪を知っている人が目の前にいる事に驚愕した。気持ちとしては 突然裁判官と出会い、いつ判決を言い渡されるかと身の置き場を探す思いだった。
「あ…あの、お久しぶりです。ご指導お願いします」
強張った顔で頭を下げた。
「ここの学校でそんなに強張ったら、生徒達が怖がるよ。肩の力抜いて!同僚なんだから! 」
中里先生は優しい口調だった。健斗にはそれが過去とは関係なく接しているのか、それとも僕の罪を見据えているのか判断に苦しんだ。
「ここには何故来たの? 」
中里先生は優しい顔で聞いた。
「どうしても生徒と向き合いたかったんです。問題が起きたら生徒と一緒に解決をして行く道を探す。一緒に喜ぶ時は喜ぶ、悲しむ時は一緒に泣くとか…ただ生徒達と人間として向き合いたかったんです」
「そう。生徒と向き合う為。生徒達喜ぶわ」
と中里先生は座っている椅子の背もたれに背中をもたれさせて、笑顔で頷いた.
そして健斗は緊張から心の内のもう一つを話した。
「それと…償いたくて…。少しでも…。中学校の時の僕の罪を…」
と言うと
中里先生は座ったまま前傾姿勢になり、少し厳しい目で言った。
「生徒達は貴方の償いの為に此処に居る訳ではないの。皆んなの個性も抱えている問題も違う。藍香さんをフィルターにして見ても通用しないわ。1人1人の生徒達とシッカリ向き合わないとやって行けないわよ。償いは坂橋藍香さんに直接しなさい」
その通りだ。健斗はただただ自分の愚かさに幻滅して恥じた。生徒達と向き合う為に僕は教師をしているんだ…。中里先生の言葉が頭を殴られたかの様に感じた。
中里先生はまた優しい顔で
「一緒に頑張って行こう」
と笑顔を見せた。
「はい」
自分に喝を入れる様に力強く返事をした。
健斗は学校の中で、ぎこちないながらも生徒と積極的に関わり少しずつ信頼関係を築いて行った。
健斗が心を開くと生徒も心を開く。以前の中学の様に様々な生徒の問題に向かい合う事に異議を唱える教師は居ない。場合によってはアドバイスをくれる先輩教師達が沢山いた。無我夢中で生徒達と向き合った。
そんなある日、樹理が臨月となって間もなくの事だった。陣痛来たと職員室に居た健斗のスマホに連絡があった。
「すみません、家内から陣痛が来たと連絡があったので、病院に連れて行きたいのですが! 」
慌てて声を上げると先生達が
「外田先生、急ぎなさい! 」
と声を掛けてくれた。
「すみません! 」
と言ってカバンを持って走ろうとした。たまたま健斗のクラスの生徒が英語を教えて貰いに職員室に来ていた。
「ごめん、クラスの皆んなに先生帰ると言っといて」
と伝えると
「先生、頑張れ! 」
生徒が励ましてくれた。そして生徒は教室に走って行き
「外田先生の奥さん陣痛きたって! 」
知らせた。生徒達が大勢窓から顔を出し、車に乗ろうと走る健斗に
「先生、頑張れー! 」
と激励した。健斗は大きく手を振り、クラクションを軽く鳴らして自宅へ向かった。
樹理の陣痛は15分置きに来ていた。樹理は陣痛の波が治った頃を見計らって車に乗った。
健斗が入院の荷物が入ったトランクを車に乗せて
「大丈夫か?行くぞ! 」
と声を掛けた。
「大丈夫」
と陣痛の波が治まっている樹理は笑顔を見せた。やがて車は病院に着き、看護師に陣痛室へと案内された。30分位すると破水し、激しい陣痛が来た。素早く分娩室へ連れて行かれ、樹理は分娩台に乗せられた。健斗は必死に樹理の手を握っていた。他に何をしていいか分からなかった。その間に樹理は陣痛とと共に何度もいきみ苦しそうにしている。顔を真っ赤にして汗だくになりながら、樹里は命掛けで命を生み出そうとしている。どうか…どうか…健斗が祈る気持ちで居た時、無事健康な女の子が生まれた。
小さな身体全体を真っ赤にして泣き叫ぶ娘…。樹理は我が子を抱いて、痛みを忘れたかの様に笑った。健斗が娘の小さな手に指を近付けると、ギュッと力強く握って来た。小さな指のの力と温もりに笑みをこぼした。
我が子って言うのは、なんて愛おしくてかわいいのだろう…。
我が子を抱く樹理がなんて優しい顔をして輝いてるのだろう…。妻の樹理に
「ありがとう」
と何度も唱える様に言ってた健斗だった。
微笑み返す樹理の表情は『家族の絆』と言う暖かくて強い物を感じさせた。
そして、この子の名前は『凛』と名付けられた。
2人は慣れない子育てに翻弄されながらも、力を合わせて凛の世話をした。
抱いた時の小さくて壊れそうな身体、温もり、手に感じる『全てを預ける様な重み』凛の全てが愛おしくて堪らなかった。
時に何故泣いてるのか全く分からない。あたふたして抱いてると更に泣き叫ぶ凛。どうしたらいいか分からず精神的疲労がドッとのし掛かる。
しかししばらくして眠る凛の寝顔を見ると、さっきの疲労を忘れている…。
お風呂に入れると小さな口を目一杯開けてアクビする。
母乳を飲んだ後にトントンと優しく叩かれる小さな背中、触れると柔らかい頭髪、凛の全てが宝物に見えた樹理と健斗だった。
樹理の寝不足が続いたある日、健斗は凛の面倒を見て樹理に寝る様に言った。
「ありがとう」
と樹理は床に着いた。
健斗は凛を抱いて歌を歌って背中を優しくトントン叩いた。
「ウー、ウー、ア」と声を出す凛が可愛らしくて、いつまでも見てしまう…。こんなに小さいけれど、我が家で1番大きな存在。命を掛けて守りたいとさえ思わせる大切な我が子…。
それと同時に藍香と藍香の両親の思いを考えずにはいられなかった。
子供は皆んな無条件で幸せになる権利がある…。僕は悪ふざけで藍香を傷付けた。傷付いた娘を見て藍香の両親はどんなに胸を傷めたか…今の自分には痛い程分かる。
あれは悪ふざけでは無く、僕の罪だ。胸を抉られる思いになった。償う事が許されるなら償いたい…と切に願った。
そんな折、健斗が担任して居るクラスに転校生か来た。生徒の資料を健斗は読んだ。
塚川桃葉、義兄(姉の元夫)に複数回に渡り 性的虐待を受けている。姉の家庭を壊さない様にと、恐怖感により被害を訴える事が出来ずにいた。
ある日、姉夫婦が来訪した時にパニックになり、家族の知るところとなった。姉は離婚したが、その事に対して本人自責の念を抱えている。フラッシュバックが起こったり不安感が強い。自己肯定感が低く、自分は汚れて居るとの思いが強い事から身体を必要以上に洗い過ぎて、擦り傷等が常にある。傷を隠す為に長袖を着ている。
まるで藍香の担任になった様だ…。父親になった健斗の心は桃葉の痛みが自分の痛みにも感じた。藍香がダブって見えたが、ここは桃葉へのケアに頭を向ける事に専念する事にした。
しかし桃葉が学校でパニックを起こす度に、当時藍香の家の側で聞いた彼女のフラッシュバックを起こしている時の悲鳴の様な声を聞いている様な気がした。
同じ様な環境下での加害者と言う当事者だからこそ、桃葉の痛みが分かる…。
桃葉の親御さんと話をしていても、当事者であり愛娘の親だからこそ、痛感して気持ちが分かる…。
自分の罪により良き理解者となる自分…十字架の重みがズシリと肩や腰、全身に食い込んだ。
桃葉は次第にパニックを起こす頻度が減って来た。そして時折笑顔を見せる事も出てきた。
とても喜ばしく思う健斗だったが、桃葉本人や家族と真摯に向き合ったからこそ、かつて自分のの犯した罪で、藍香と家族がどんなに苦しんだかを思い知った。かつての僕はそんな藍香を嘲笑ったのだ。嘲笑われるべきは僕だ。
自分が凛をどんなに大切に思っているか…だからこそ自分の悍ましい過去がシコリとなって痛みを増大させた。
償える物なら…それは僕の自己満足だ。桃葉が義兄の顔も見たく無い様に、藍香も僕の顔など見たくも無いはずだ。




