藍香
藍香は健斗がアルバイト先に来た日、帰りに寮に行きシスターの居る事務室へ訪れていた。
「いらっしゃい。来てくれて嬉しいわ」
と迎えられて、藍香は椅子に座った。
「藍香さん、浮かない顔ね。どうしたの? 」
優しい顔でハーブティを差し出しながら『どんな事も受け入れるわ』と云うような表情でシスターは尋ねた。
「今日…バイト先に加害者の1人が来たんです」俯きながら藍香が言うと、シスターは心配そうな表情で
「そう…怖くなかった? 」
と藍香の手を握った。
「怖くならない様にシスターが教えてくれた『私には関係ない』と心に繰り返してました。向こうも私が働いているのを知らなかった様で驚いてました」
「良く心を保てたわ。強くなったわね」
とシスターは静かに頷いた。藍香は更に続けて話した。
「そして声を掛けられて、『元気そうだね』と言われた事に対しては『はいお陰様で』とだけ…。それに対して向こうは気を緩めたのか『何処の高校に行ってるの?』と話しかけてきたので『関係ない』と心に言い聞かせて、放っておきました。
それでも会計の時にも話しかけられて『この人…反省してないんだな…』と感じたんです。だから…『貴方とはもう関係ありません。私の前に現れないで下さい。」と静かに言ったんです。そうしたら向こうは『無かった事になって居なかった…』と思ったらしくて、肩を落として店を出て…」
「藍香さん、ちゃんと出来てるじゃない」
シスターが言うと、藍香は首を横に振った。
「私、加害者を近づけない様にバリケードを張っただけじゃないんです…。項垂れたあの人を見た時…『バチが当たらない訳ない。思い知れば良い』と…相手が辛くなる様に願ったんです。私がフラッシュバックで苦しい時も、身体のあちこちに擦り傷があった時も、自分の事で手一杯だったから加害者の不幸を願った事ないんです。
私は両親にもシスターにも同級生にも寮の仲間にも助けられて来ました。そして今と過去の喜びや幸せを噛み締める事を教えてもらって来ました。そして私を取り戻したんです。
そうでなかったら私は…あの頃の忌わしい出来事への恐れと加害者への憎しみだけを抱いて『貴方達が私をこんなにしたのよ』と、その事が私の生活の大部分を占めて居た筈なんです。
沢山の人の助けがあって、あの事件は終わった事になり、私は幸せになって良い事も、笑って良い事も知って苦しみから立ち直ったと思ってました。
なのに…自分の中に加害者とは言え人の悲しみを喜ぶ思いが発芽するなんて…。自分のあさましさに幻滅しました。シスターは教えてくださいましたよね。イエス様はご自分を十字架に掛けた人の為に『彼らは何をしているか分からないで居るのです』と言われたと…私はそうなれませんでした」
と吐露した。
「古傷が痛むのね…」
とシスターは自分の手首の手術痕を見せた。
「これね、以前に転んで骨折した時の手術の後なの。もう10年以上前の物よ。生活に苦は無いの。字を書くのも、荷物を持つのも、料理も、讃美歌の伴奏も出来るのよ。でも寒い日には痛むのよ。
心の傷もそう。もう治ってる…。でも、痛む時も有るのよ。貴女は 傷が疼いたのね」
温かい手で藍香の手を撫でた。
「シスター…。そうですね。傷が疼きました。
でも、人を傷付けて良い理由にはならないですよね…」
と藍香は再び俯いた。
「貴女は怖かった中頑張ったのよ。その中で 一瞬毒草の芽が出てしまった。今の悔いてる様子なら、その毒草の芽をもう抜き取ったのではないですか?
人の心は毎日の様に雑草が芽吹く物。草むしりを怠れば、葉も伸びて根も伸びる…。芽吹いてみないと雑草がどこに生えたか分からない。毎日毎日草むしりをして悪を取り除いて行く…。そうすれば、心と云う庭は美しく保たれて花も作物も健やかに育つ…。
貴女は辛い時間の中だったと思う。その中で 最善を尽くそうとした。芽吹いた悪を見極めて素直に認めて摘み取った…。なら綺麗な庭になったはずよ」
全てを受け止めて藍香を優しく見る目…。そして、罪を摘み取った…。その言葉で藍香の肩の荷は降りた。
「シスター、ありがとうございます」
今日藍香が事務所で初めて笑顔を見せた。そしていつもの藍香に戻り、帰路に着いた。
「ただいま」
藍香の声に父と母もいつも通り
「お帰り」
と声を掛けて、温かい夕飯を共に食べてた。
『シスターと話して居なかったら、この温かいご飯も苦く感じて居たかも知れない…。」と自分は1人ではないと思いを抱きながら、おかずを味わった夕飯となった。




